花粉週間
友人のコレートが靴脱ぎ場で待っているのが見えた。ずいぶん待たせてしまった気がする。
一日の最後の授業が終わって、マチチップはなんとなく先生の片づけを手伝うことになった。教材を準備室に戻して職員室にも持って行ってと、片付けは案外手間取ってすっかり下校時間が遅くなったのだった。先生にはとても喜ばれたが、一緒に帰る約束をしていたコレートには悪いことをしてしまった。先に帰っててと言えばよかったと後悔し、急いで下駄箱へ走った。
マチチップに気づいたコレートが手を振ると、手の鱗に太陽が反射してぴかりと光る。濃紺とオレンジ色の縞模様は夕日の中でもきれいだなと見惚れた。
手を振りかえして自分の靴箱の前に立つとコレートの姿は棚で見えなくなった。人の少なくなった靴脱ぎ場でマチチップはもたもたと靴箱から靴を取り出した。
明日から一週間、学校は花粉休みだ。マチチップの通う中学校だけでなく、保育園・幼稚園から大学に至るまで、全国の学校がお休みだった。
いたるところに生えているカーシは多年生の植物だ。どんな環境でも育ち、生命力はとにかく強い。この時期一斉に黄色い花を咲かせ、一週間ものあいだ大量の花粉が風に乗って、景色は淡い黄色に染まる。この花粉週間は成人に達していない者はみんな外出禁止となる。花粉を吸いこむと、人は酔ってしまうためだ。花粉週間中、繁華街には先生や警官が見回りを実施し、外へ出た未成年は補導対象だった。
やっかいな性質を持っているがカーシの根絶はできない。強い毒を持った害虫たちはなぜかみんなカーシを嫌って、カーシが生えている場所に近づかないからだ。忌避成分の抽出はいまだ成功していない。花粉が飛ぶのは一年の内のたった一週間という期間限定のことから、人々はその期間をやり過ごす生活を選んだ。
上履きを持って帰って洗おうと、かがんで脱いだばかりの上履きを手にとり、それが目に入った。
靴箱と靴箱の隙間に落ち込んだノートのようなもの。誰か落としてしまったのだろうか。隙間は細く、指は入りそうにない。
マチチップはペンを出して隙間のノートを引っかけた。表紙の汚れを手で簡単に払う。何の変哲もないノートの表紙にも裏表紙にも名前はない。
「マチチップぅー? まだー?」
「うん、ごめーんすぐ行くね」
コレートの呼ぶ声にあわてて上履きをとると、マチチップは無意識に上履きとノートを一緒に上履き袋へ入れた。
家に帰って上履き袋から中身を取り出し、見慣れないノートにあっと声を出した。
(しまった、持って帰っちゃった)
それも上履きと一緒に入れてしまった。マチチップはタオルを濡らして固く絞り、ノートの表面をぬぐった。
名前がないノートをどうしようと悩む。中に名前が書いてあるかもしれない。悪いとは思ったが、ごめんなさいと心であやまってノートを開いた。
表紙をめくって一番最初のページは白紙だ。一枚めくった。ペンで引かれたカラフルな線が目に飛び込む。理科のノートらしいそれは崩した字で、しかし重要なところには下線を引いてわかりやすく記述してあった。名前を探していたはずの視線はノートの内容を追いかける。
ノートに書かれた学習内容は、テスト前にはぜひお世話になりたいものだった。字の感じからなんとなく男子生徒ではないかと思う。
最新のページまで読んでしまっても名前はなく、もう一度表紙を見て、開いた。今度は表紙の裏側の下に書いてあった学年、組、名前が目に入った。
2-3 ブボプ メアゲ
隣のクラスの子だ。二組のマチチップが使う靴箱の隣は三組の靴箱だ。それなら靴を履きかえるとき、何かの拍子で隙間に落ちて気づかず帰ったのかもしれない。メアゲという名前だけでは男子なのか女子なのか判断できなかった。せめて出席番号があれば、靴箱の棚一つ一つに出席番号が振ってあるから、休み明けにでも入れておくことができた。
人見知りのマチチップはノートを本人に直接渡すという選択肢は初めから除外していた。
尾の先を左右に振りながらノートを眺めて悩む。一週間の休みのあいだずっと持ち続けると思うと気が重くなってくる。どうして持って帰っちゃったんだろうと数時間前の自分に文句を言いたくなった。
翌朝、目が覚めてカーテンを開けると、窓から見える景色は花粉が舞って黄色く染まっていた。
薄黄色の街並みを窓から眺めているとママがマチチップを呼んだ。コレートちゃんから電話よ、と言っている。仕事に出かける準備で忙しくしていたママは、忙しさのあまりちょっと怖い顔で電話をマチチップに渡した。リビングで電話を受け取って、マチチップは遠慮がちに身をかがめた。用件は休み明けのテストの確認だった。
休み明けは各授業の始めに小テストが行われる。ママの出かける気配を後ろに感じながら一週間後のテスト内容について教え合う。会話が途切れたところで、ずっとタイミングを計っていたマチチップはどきどきしながらおそるおそる質問を切り出した。
「あのね、コレートちゃん、そういえば三組のブボプって人知ってる?」
「え? 三組の? あー知ってるけど? どうしたのよ」
「あ……、ううん、なんでもないの」
そこから自然に性別を聞き出す技術があれば人見知りはもう少し軽減しただろう。マチチップと違って社交的なコレートはマチチップの戸惑いを見逃さず、別方向に発展させた。
「あー? もしかしてー?」
楽しそうな、からかうような響きのコレートにマチチップは引き気味に「なあに」と機械的に返した。
「そっかそっかー。気になっちゃってるんだー? まあ、ブボプは悪い噂聞かないし? 良いんじゃない? カレシにしても」
「えっ!? コレートちゃん、そんなんじゃないの」
あわてて否定しても、いいのいいのと聞く耳を持たない。恋愛話が大好きなコレートは早くもマチチップとブボプをくっつけたいようだ。動揺するマチチップの黄色と水色の縞模様の尾が左右に揺れて壁を打つ。
否定すればするほどコレートは楽しそうに「ついにマチチップにも春が」と含み笑いだ。
「もう、ほんとにそんなんじゃないのに」
「わかったわかった。じゃあ来週学校でね」
本当に分かってくれたか怪しい。受話器を置いてマチチップはぐったりとうなだれた。
それでもコレートからはブボプのことが聞き出せた。一方的にコレートがしゃべってきたとも言うが。
ブボプは男子生徒、丘の上に建つマンションに住んでいて、取り立てて目立つところのない生徒らしい。取り立てた目立たない生徒のことをどうしてコレートが知っていたかと言えば、コレートとブポプは委員会が一緒だからだった。
目立たない生徒と聞いて、マチチップはブボプが自分と同じような性格なのかしらと考える。マチチップもやはり目立たない生徒だった。いささか身長の高いマチチップだが、薄い黄色と水色という地味めの縞模様がマチチップを目立たなくするのに一役買っていた。すすんで目立とうと考えていないので不満はない。ただ、ときどきコレートの鮮やかな縞模様を少しだけ羨ましいなと思うだけだ。
自分の部屋に戻って、マチチップは拾ったノートを取り出した。表紙を眺めて肩を落とす。
休み明けのテスト勉強にこのノートは必要だろう。
勉強に関係のないノートであったら、休み明けにコレートにノートを渡して委員会の時にでもマチチップの代わりにブボプへ返してもらっても良かった。
「もう、これどうしよう」
尾を振りながら悩みに悩む。ちら、と窓を見た。外は花粉で黄色に煙っている。窓から見える通りに人はほとんど通らない。たまに見かける人々はみんな花粉用のつるつるしたコートを着たり、マスクをしたり、帽子を深めにかぶったりして防粉対策をしている。顔かたちはおろか、性別すら不明だ。おまけに花粉のせいで黄色くもやがかかっているのだから、知り合いが歩いていてもそうそう分からないだろう。
マチチップは、はっと顔を上げた。そして勢いよく頭を横に振る。
「だめだめ、だめなんだから。外に出たってばれたらママに怒られる」
それに、未成年はこの時期外へ出ることは禁じられている。特別な事情がない限り、外出は処罰の対象とされているのだ。ノートを届ける行為が特別な事情だなんて思えなかった。
頭を振って考えを追い出し、マチチップは気を紛らわそうと棚からお気に入りの一冊を取った。
本を読んでいるときは没頭してほかのことを考えないですんだ。夕方になって帰ってきた両親と一緒のときも思い出さずにすんだ。けれどもお風呂ではことあるごとにあのノートのことが思い出され、必死で鼻歌を歌って、頭の中を歌でいっぱいにしてごまかす。おかげで両親から、何か良いことがあったのと訊かれた。
今日からお休みだからとごまかして自室に戻った。眠くなるまで読書をしてベッドに潜る。
(あ、上履きを洗うの忘れてた)
明かりを落としたあと上履きの存在を思い出し、上履き袋に入れて持って帰ったノートのことも思い出してしまった。
マチチップは横向きに寝返りを打つと頭から布団をかぶってぎゅっと目をつむった。
翌日、両親が仕事に行って一人になると、マチチップはノートのことが気になって本の内容が頭に入らなかった。テスト勉強をしようとしても、やはり手につかない。
あんなノート拾わなければ良かったと思っても、家に持って帰ってしまった以上どうしようもない。お腹のあたりがずんと重くなったように感じた。
ノートを入れた机の引き出しを見て、窓を見る。昨日よりも黄色みは濃くなっているようだ。花粉は開花してから二日目にピークを迎え、そのあと少しずつ減っていく。今日が一番大気中の花粉が濃く、視界も悪い。
マチチップは泣きそうな顔で引出しをあけ、ノートを手に取った。一週間もこのノートを持っていたら、重圧に耐えきれなくなってどうにかなってしまいそうだった。
両親の部屋に行って、パパのコートを探す。コートは見つからなかったが、表面がつるつるした花粉用の背広が数着あった。そのうちの丈の長い一着を借りて着てみる。同年代の女の子の中では背の高いほうであったが、パパの背広はマチチップの膝まであった。
これをコートの代わりにして、使い捨てのマスクをケースから一つ取ってつける。花粉用の大きなマスクは顔の下半分をすっぽりとおおった。
帽子が見当たらないのでママのスカーフを借りて頭にかぶり、顎の下で結んだ。ぶかぶかの服にマスクの格好は普段なら不審人物だが、今なら普通の格好だ。窓から見えた道行く人々はたいていこんな服装だった。
それから部屋に戻ってノートを手提げのバッグに入れると玄関に出た。
ドアの前でごくりとつばを飲む。
これからすることは、決して親切心からの行動ではない。マチチップは、自分にとってノートを捨てることと返すことに違いはほとんどないと気づいていた。捨てると罪悪感があるから返すのだ。こっそり返せば、マチチップが拾ったということも知られずにすむ。
誰にも知られないなら、なかったことになる。
そっと玄関を出て周囲を見回す。昼が近い住宅街は出歩く大人もおらず、とうぜん子供の姿も見当たらない。マチチップは黄色に染まる家の外へ一歩踏み出した。
もやがかかったように薄く黄色にけむる街は視界が悪い。ブボプの住む寮は学校のすぐそばだ。多少視界が悪くとも迷う場所ではないのが幸いだった。
手提げバッグを大事そうに両手で抱え込み、背を丸めて通りを歩く。誰かとすれ違っても、身長のあるマチチップは一見して未成年と見破られないだろう。
まばらなりにも数人とすれ違ったが、思った通りマチチップを見咎める人はいなかった。
繁華街を迂回して丘の上にあるマンションについた。ここまで順調に来たものの、マチチップの心臓はばくばくと大きな音を立てていた。なんど帰りたいと思ったか。そのたびに、帰ったら絶対後悔すると言い聞かせてここまで来たのだった。
正面玄関のガラス戸を開けようとしたところで、ブポプがどの部屋に住んでいるか知らないと気づいた。さすがにそこまでコレートは言わなかった。コレートも知らなかったのかもしれない。どうしよう、とマンションの正面玄関をうろうろするマチチップは不審者そのものだ。幸運なことに誰も通らなかったので不審者として注意されることは無かった。
うろうろしていると、駐車場側の壁に郵便受けが並んでいるのを見つけた。そこで名前と部屋番号を確認すれば良いのではないか。郵便受けに近づこうとしてマンションの玄関に人影が見え、マチチップはあわてて物陰に隠れた。
女の人が出てくる。マチチップには気づかない様子で女の人は敷地から出て行った。
マチチップはどきどきする胸に手を当てて息を大きく吐いた。物陰から正面玄関の様子をうかがい、走って横切って駐車場に向かう。駐車場にはまばらに車が止めてあるだけだ。また誰か来ないうちに郵便受けに近づいた。
一つ一つ見て行くと部屋番号だけで名前が書いてない部屋もある。ブポプの名前が無かったらどうしようとはらはらして名前を探した。六階の住人の中にメアゲと書かれた郵便受けがあった。部屋番号を確認し、玄関に行こうと振り返って「あ」と声を出す。
部屋に行かなくても、この郵便受けに入れたら良いのではないだろうか。
マチチップは手提げバッグからノートを取り出して郵便受けに差し入れた。
ことん、と音が聞こえたのを確認せずマチチップは走って逃げた。
マンションからだいぶ離れたところまで走って、マチチップは立ち止まった。どうにかうまくいった安心感で笑いがこみあげてくる。走っているあいだにずれてしまったマスクの位置を戻して、ゆるんだ口元を隠した。深呼吸しながら胸に手を当てるとまだ胸がどきどきしている。息が落ち着くまでその場で休憩して、静かに歩き出した。
あのノートから解放された嬉しさで頭がふわふわしているようだ。ときどきうふふと笑いをもらし、マチチップは黄色にかすむ帰路を歩いた。その足取りはふらふらとしてはたから見れば危なっかしいものだったが、マチチップは浮かれてスキップした。ふらついて尻もちをついても、それがおかしくてくすくす笑いながらまた歩き出す。
誰とも会わずマチチップは家に帰りついた。
ドアのかぎを開け、玄関の中に入ってエアカーテンを作動させて花粉を取り除く。外の気温はそんなに高くなかったのに身体がひどく熱く、エアカーテンの風が気持ちよかった。だが風の勢いに負けてふらふらする。めまいまでしてきて、マチチップは玄関にしゃがみこんでしばらくじっとしていた。手のひらに伝わるゆかの温度が冷たくて、このまま玄関で寝ころびたい。
マスクをずらし、目をつむって寝転がってみた。硬い床だがたまには良い。尻尾の先で床をぴたぴたと叩いて遊んでいるうちに眠気が来て、マチチップはそのまま眠ってしまった。
夕方、玄関に横たわるマチチップを見たママは、初めは何かの病気かと動転した。だがパパの背広とマスクを着けた格好を見て、マチチップが両親に黙って外出したのだと見破ってしまった。初めて花粉に酔った人はこんなふうにところ構わず眠ってしまうことがあるのだ。
どうして勝手に外へ出てしまったか。すっかり白状させられたマチチップはパパが帰ってきてから両親にお小言をもらい、とくにママからはそれはもう大きな雷をもらったのだった。
マチチップはもう絶対花粉週間に黙って外なんかへ出ないと両親に約束をした。
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花粉週間が明け、学校に行くとコレートが目をキラキラさせてマチチップに迫る。そして指をさした方向にいる男子生徒を見たマチチップの胸は、もうノートを持っていないはずなのにまたドキドキとした。
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名前の元ネタ
マチチップ→プチ抹茶チョコチップクッキー
コレート→チョコレート
ブボプ・メアゲ→ブルボンプチ揚げおかき
カーシ→お菓子
執筆中、目の前にあったお菓子から。
主人公の種族は二足歩行のトカゲ、もしくはイグアナをイメージ。模様の参考はヤドクガエル。