ハジマリ、ハジマリ
最初だけは真面目に進んでおります。
もう一度言います。最初だけです。
大事な事なので2度言いました。
事の起こりは数時間前、少女がこの場に足を踏み入れたことから始まった。
――否、もしかしたら、その前から始まっていたのかもしれない。
樫綾学園高等部。少女が今年度より入学予定の学校である。彼女は今、己の通うことになる学園へ足を踏み入れようとしていた。
――それが己の運命を左右することになるとは知らずに。
少女は、大きな荷物を抱えて歩いていた。これから始まる、夢の高校生活へと想いを馳せながら――
樫綾学園は全寮制であるため、生活の拠点は学校になる。荷物を最低限に絞っても、やはり持ちきれない程に多くなってしまうのだ。
ふうふうと息を吐きながら、重たい荷物を持って山道を歩いて行く。
ここまでくる道のりも、矢張り楽なものではなかった。何時間も電車に揺られ、何度もバスを乗り継ぎ、やっとで辿り着いた先は、民家も何もない森の入り口だったのだ。
戻ろうにも、バスはもう行ってしまっている。訝しげに思いながらも、指定どおり歩くほかに道はない。
重たい荷物を抱えながら歩くこと十数分、漸く目印が見えてきた。
『樫綾学園→』
そう記載された看板が立っていた。そこで待っていろとのことだったが――
滝のように流れ出る汗を拭きながら待っていると、黒塗りの車が一台、前方より現れた。どきりとした。車の音なんて全くしなかったから、少しばかり意識が飛んでいたのかもしれない。
車が少女の目の前で停車すると、中からサングラスをかけた黒づくめの男が降りて来た。
「緑川栞さんですね。樫綾学園よりお迎えにあがりました」
そう言って少女に向かって一礼すると、後部座席のドアを開ける。随分と機械的で、感情というものが感じられない口調だった。
どうぞお乗りくださいと声をかけられるが、僅かに躊躇ってしまう。
――黒塗りの車。黒ずくめにサングラスの男。
(なんか目茶苦茶そっち系の人っぽい……)
しかし、こんな山奥でずっと立ち往生をしているわけにもいかない。躊躇いは一瞬。大きく息を吸うと、意を決して車に乗り込んだ。
車はガタガタと音を立てて揺れている。舗装されていない田舎道は、都会のアスファルトと比べると、揺れが激しい。もう、何度舌を噛みそうになったか分からない。栞は車酔いはしない方だが、さっきから酸っぱいものがせり上がってくる。
(~~~っっ!!まだ着かないのぉ~~~?!)
ちらりと運転席に視線をやると、運転手は表情を全く変えていなかった。――というよりも、サングラスで表情が見えないのだ。
(――怪しい……)
何だかとても不安になってきたが、最早後戻りは出来ない。気を紛らわそうと大人しく窓の外に目をやり、外の風景を眺める。が、辺り一面緑、緑、緑。変わらない風景に、気を紛らわすどころか、だんだん鬱になってきそうだ。
そういえば、最初から結構怪しかったかもしれないと、ここに至るまでの経緯を思い出していた。
彼女の命運を分けたのは、数か月前。とある一枚の紙との出会いだった。
緑川栞は、昨今では珍しい大家族である。兄二人、姉一人、弟二人の妹二人。ただでさえエンゲル係数の高いこの家庭。しかしながら、この大家族を支える柱は母一人である。母の細腕一つで、八人の子供を育ててきたのだ。
義務教育でさえお金がかかるというのに、高校ともなれば、非常に考えられない額が必要となる。上三人は奨学金を使って進学した。しかしそれも、数年後には返済しなければならない。そして栞の下には、まだ四人も進学を控えている弟妹がいるのだ。ただでさえ生活費が足りていないのに、更に大きな出費をしなければならないのである。
「高校には行かずに働くよ。」
そう言いだしたのは、まぁ、当然かもしれない。様々な物語で、耳にたこができるほどに使い古された台詞である。
そしてそんな台詞とセットになっている台詞――
「馬鹿なこと言わないで、高校へ行きなさい。今時中卒なんてどこも雇ってくれないわよ。」
これもまた、使い古されたやり取りである。
取り敢えず奨学金を希望し、少しでもお金の掛からない近場の公立を受験しようと決め、毎日何時間も生徒指導室に入り浸っていろんな学校のパンフレットと睨めっこの日々が始まった。
そしてこの日も生徒指導室で大量の資料に埋もれていたのだが、ふと何かの気配を感じた。
「……?」
気配なのか何なのか分からなかったが、兎に角何らかの違和感を覚えたのだ。
ふらふらとそちらへ足を向け、そして何の迷いもなくある資料に手をかける。何故だかは分からないが、これだという確信があった。じっとりと汗をかいているのがわかる。
これに触れてはならない。関わってはならないと本能が警告を発する。
だが、これを見なくてはならない、触れなくてはいけないという、逆の方向に誘う声も聞こえた。
本能と好奇が激しい葛藤を繰り広げる。無意識のうちに資料を掴む手に力が入る。
――そして、一気に本棚から引き抜いた。
その瞬間、手に感電したかのような痛みが奔った。
(……静電気かな……)
特に気にすることもなく、取り落としてしまった資料を拾う。そして拾い上げた瞬間、ぱさりと一枚の紙が滑り落ちた。
(……これだ……!!)
何故だかはわからないが、そう思った。資料には目もくれず、滑り落ちた紙を拾い上げ、目を通す。字を追うにつれて、目が驚愕に見開かれる。
そこには、信じられないことが書いてあった。
・学費全額免除
・全寮制(食事付)
・教科書、制服等その他全て無料配布。
タダで学校に行けて、その上寮費のいらない寮に入るということは、生活費も浮くのだ。こんなおいしい話はないと、件の紙を握りしめ、教師の元へ走った。
その紙の事は担当教員も知らなかったらしく、首を捻っていた。よくよく調べて貰ったところによると、どうやら、名門学園の姉妹校らしいことが分かった。一般公募はしていないらしい。
どうしてそんなものがあったのかは謎である。しかし、こんなにおいしい話はない。そして、こんなに素晴らしい条件のある高校があることを知ってしまった今、他の学校を選ぶなんて出来なかった。
(絶対に受かってやるっっっ!!!!!)
あれから、なんとか面接にこぎつけた。何度も何度もシミュレーションをして、あらゆる質問を想定して、万全の状態で臨んだ。それなのに、ずっと緊張していた所為か、それとも連日の睡眠不足の為か、面接の途中から記憶がなかった。まるで白い靄がかっているかのように、曖昧ではっきりしない。
気がついたら面接は終わっていて、面接官に退室を促された。
(もう……駄目かも……)
半ば諦めかけていた。だからこそ、合格通知が来たときはとても嬉しかった。人生で1番嬉しかったかもしれない。狂喜乱舞し、しばらくは浮足立って、何も手が着かなかった。
そして四月。待ちに待った入学式。
私は――
家でゴロゴロしていた。
…………………あれ?
何か諸々の事情で、まだ寮に入れないという連絡があったのだ。そして、学校は自宅から通えない場所にあるので、寮の受け入れ状態が万全になるまでは自宅待機だと言われたのだ。
否、普通に有り得ないだろうと思い、少しばかり疑念が湧いた。
――思えば、あれが最初に猜疑心を抱いた瞬間だったのかもしれない。