角田光代『さがしもの』に見るポストモダンの変遷
角田光代は偽史――富野由悠季『機動戦士ガンダム』のように、作品内に西暦とは異なる別の歴史があたかも事実であるかのように語られること。主にサブカルチャー方面でこの要素がふんだん取り入れられ、近年では西尾維新『偽物語』の中で、偽史というタームの解説がなされていたりもする――から遠ざかった「辺境」にいる作家である。『古本道場』において、「サブカルチャーと田舎は対極にある」と述べている彼女の諸小説は、飯田一史(カルチャーライターで、主著に『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』、『21世紀探偵小説 ポスト新本格と論理の崩壊』がある)によると、「強い願望をもたず、欲望に向かって邁進することのない人間たちの物語」、「共同体や理念から疎外され、逃げようとする人物たちの物語」(いずれも飯田一史ブログ「角田光代論『八日目の蝉』はなぜ売れた」2011年1月4日記事による)とのことで、その論拠を、飯田は作者自身の経歴にもとめている。尤も作者の人生から作品を読むというやり方は僕の本意ではなく、ともすると僕はそのような批評は貧相だとさえ思うのだが、面白かったので紹介までに触れておく。
飯田は、角田光代が幼少期にあまり遊ばず、本ばかり読んで過ごしていたことを指摘したうえで、彼女が「共同体になじめ」ず、「集団から脱落」し、そのために「ひとつの共同体と一体化できない」ゆえに、旅を好むのだとしている。実際に『さがしもの』(新潮文庫2008年11月、初刊本は2005年)の「あとがきエッセイ 交際履歴」に、当人の言葉で「保育園に通っていた私は、ほかの子どもよりずいぶんと未発達で、うまく話せず、うまく遊べず、必然的に、友達がひとりもいなかった(略)ために本ばかり読んでいた」(P218~219)と書かれている。そのことが、結果的に小説家としての角田光代が「一体化の快楽」を書けずにいたことに災いしているというのが飯田の論旨だが、その意味する内容は、たとえば就職活動においても「目的意識と志向力」が重要とうそぶかれる昨今において、「角田作品では、主人公たちがしたいこと、なしとげたい目標が不明瞭」だということである。そのことから、飯田は角田光代のことを「東野圭吾や伊坂幸太郎のように出せばベストセラーの作家」ではないとし、エンターテイメント小説が売れるために必要な起承転結の要素が彼女の作品では「寝眠起承」となっていて、「スロースタート」の作家であるとしている。本当にそうであろうか。
なるほどたしかに短編集『さがしもの』の中には、主人公が目的意志を持ち始めるのが遅すぎたり、進取の気性に乏しかったりする作品が多い。『彼と私の本棚』(P65~83)なぞ、それが顕著で、主人公に提起された問題は最後の最後まで解決されずに、おまけに「記憶も本もごちゃまぜになって一体化しているのに、それを無理矢理引き離すようなこと」と、主人公と恋人が繋がっていた=一体化していたことの叙情的説明は、なんとこの一文のみに集約され、二人の思い出として差し挟まれる挿話は少なく、ただ「今が悲しい」という現状報告に終始している感がある。
飯田の指摘では、近年の売れる本には魅力的でいて、かつ読者に「わかりやすい」キャラがおり、反対に角田の小説にはそれが「なかった」とある。表題作である『さがしもの』(P169~193)をみてみよう。主人公は祖母のことを「母の母」(P169)としてしか認識できておらず、その死を宣告されてもけろりとしてうちしおれるということがない。普段みない母親の姿を見ては「ひ」と驚き、祖母の霊を目の当たりにしては「ぎょえ」と声を漏らすきりで、葬式の日には涙を流さない。これを作者は「だって私は十四歳だったのだ」(P177)と、未成熟のせいにして片づけている。しかしこれは、飯田の述べたようなキャラクター性の薄弱さ――すなわちキャラ造形が無内容であるために生じた問題であるがゆえに、作者はそれを解消するべく、本作において多用されてきた「本」というガジェットを導入する。読者は、本作において問題解決、ないし問題提起のファクターとしてあまりに多く「本」が登場してきたために、無内容ゆえに本によって主人公をみちびくしかない作者の「狭小」(P224)さに気付けない。表題作である本作にだけ突拍子もなく登場する幽霊とは、行き詰まった作者の分身でもあり、その幽霊という作者にみちびかれて、コンシェルジュという肩書きを得ても「気恥ずかしい」(P192)とだけしか説明されないキャラである主人公は、『不幸の種』(P87~114)の主人公同様、不幸は心の内面にあるということを知らず、また読者も気づかされない。
くわえて具合の悪いのは、「愛想の悪いおやじ」(P179)とあるように、男性像に悪い印象しか抱いていない主人公(『さがしもの』において、男性キャラクターの存在はここと「都内」にいるというらしい父――すなわち宮台真司『まぼろしの郊外』の言説の正しさみたいなものがここに垣間見られる――や作家、そのエッセイの中でしか窺えない)が、最後に接する人物が「若い子」であったことだ。グリム童話をカール・グスタフ・ユング心理学的に考察する土沼雅子や梅内幸信両名の論文によると、「お話」の中でこのような解決がなされると、主人公にはアニマとアニムスの統合がなされたとは考えられず、およそ成長したとは言い難い(土沼雅子「「カエルの王さま」のユング心理学的解釈」、梅内幸信「『兄さんと妹』(KHM11)に見られるアニマとアニムスの相互補償的関係について」より)。作者はあきらかに、結びの文を主人公の成長の証左として書いているが、それすらも「おばあちゃんに話しかけている」(P193)とあるように、どこか他力本願だ。つまり、かつての自分と同じ若い女の子が店の中でうろうろしているのを助けるという構図は一見温かみのある内容であっても、それは真の意味での成長を知らない作者が「コンシェルジュ」という社会的肩書きを付与することでその行為自体を無理矢理正当化させ、いうなれば匙を投げたようなものである(松代洋一/渡辺学訳、C・G・ユング『自我と無意識』レグルス文庫、1995年2月に、次のような文章がある――われわれは集合的な社会的役割や肩書と同一化してしまい、それらから形成された機能コンプレックスであるペルソナが自分にほかならないと思ってしまうのである――このことは、肩書を与えたことによって解決を図った作者の意図とずれる)。要するに、ポストモダン小説において社会にコミットするようなペルソナを主人公にかぶらせることそもそもが、押しつけがましい社会をそのままに体現してしまっているのである。共同体幻想に踊らされない不屈の意志が幼少期に負った「心の傷」――大野晋『語学と文学の間』に詳しい――で芽生えたものかと勘繰ってしまったこちらの間違いを、およそポストモダンらしからぬこの作風から知るのである。
作中登場する「亀山寛子」にいたっては、もはやロボットですらあるといえよう。主人公が「本を探す」というロールに奔走している間には本を探させ、受検に忙しい時にはその話に合わせる。まるで、主人公が天涯孤独の身の上では作者としてその心を描かざるをえず、それを避けるために――孤独であることを否定するために――生み出された都合のいい存在のように読める。そのようなロボットとは本来、チャーリー・チャップリン『モダン・タイムス』や戯曲『エル・ウー・エル』、『メトロポリス』で描かれるように、そうした躍らされる人形としての存在なのだから。
また、本作における「エッセイ」は、『旅する本』(P11~24)『だれか』(P27~38)『手紙』(P41~61)『引き出しの奥』(P117~139)に顕著な、「他人への同化」のあらわれだと思われる。飯田一史は、郊外化の弊による「近代家族のトライアングル」にすら、「疎外者」たる角田光代は外れているとしており、だからこそ疑似家族をテーマにした『空中庭園』を書いたのだとしているが、上記したように短編において他者の歴史と同化したがる姿勢(=偽史)がみられる。これはなぜか。
旅することが好きな角田光代は、内在化されたオリエンタリズム……すなわち、外国のフィルターを通して、日本という共同体が特質として抱える閉塞性に気付いたのではないだろうか。その傍証となるか、はなはだ疑問ではあるが、『だれか』において、南の島で村上龍の名があがる(P30)。村上龍は本多猪四郎『ゴジラ』に見られるようなあからさま南方思想を揶揄するために『コインロッカー・ベイビーズ』を著した……サブカルチャー研究を事とする山田夏樹はそう語っており、また新渡戸稲造『武士道』が本来日本に存在していた武士道なる気風を紹介したものでなく、西洋人が日本人を小馬鹿にしくさるための道具として持ち出してきた「西洋起源のBUSHIDO」を逆輸入したものであったことを踏まえたうえで、梶原一騎『巨人の星』におけるアメリカかぶれの花形満から見た日本人・星飛雄馬、竹沢泰子編『人種の表象と社会的リアリティ』中の藤原辰史の論文「虚ろな表情の「北方人」――「血と土」の画家たちによせて」で書かれているとおり、ナチスドイツが自分たちの間然するところのないイメージを形づくるのに、ユダヤ人を侮蔑する必要があったこと、さらにはジョルジュ・ビゴーの絵を例に西洋人というフィルターを獲得した大友克洋『AKIRA』に描かれる人物は、身もふたもなく日本人の顔をしているという言い方をした夏目房之介にまで論を進めて、国家の自画像というものは外の立場におかれてみないことには像を結べないと言及していた。このことから、海外巡遊を得意とする角田光代が日本社会のうちにわだかまる閉塞に気付けていたとしてもうなずける。
しかし飯田は、村上龍の小説を例に、角田とは向かうベクトルがまったく逆の小説家であるとして、時代の愛好物たる偽史とはかけ離れた作家が角田光代であることを強調している。これは僕が拙文の冒頭で触れたことでもある。では、なぜ角田光代は閉塞に気付きつつ、ほかの作家が想いや形は異なれど小説に取り入れていった偽史を描かない、ないし描けないのか。
ところで、どうして偽史の優れた作り手には男が多いのだろうか。『鋼の錬金術師』の作者・荒川弘が女性であることを知って、僕を含めおったまげたファンが多かったことは記憶に新しい。ライトノベルでヒットした竹宮ゆゆこ『とらドラ!』は高校生の日常を描いたもので、成功をみたラノベには珍しく偽史の要素は窺えない。対して、男性作家は偽史に逃げる傾向にある。『さがしもの』が出版された2005年時点のブームを洗ってみよう。飯田一史は「TYPE-MOONやNitro+の諸作、竜騎士07『ひぐらしのなく頃に』、高橋弥七郎『灼眼のシャナ』、久保帯人『BLEACH』」などをあげ、とりわけ「シャナ」は注目に値するとしている。渡辺直巳『不敬文学論序説』では、天皇という核心に手をつけたがらない日本人の体質が小説にあらわれているとしており、山田夏樹は村上春樹、小川洋子の小説からそれが窺知できるとしていたが、『灼眼のシャナ』は時代ごとの政治的主題に真っ向から作中人物達が関わり、むしろその時代の核心を積極的に惹起してさえいる。不敬をおそれぬ手法だ。
またこの頃、庵野秀明『新世紀ヱヴァンゲリオン』に代表されるようなセカイ系的想像力の影響はほとんどみられないという。なぜなら僕を含め、既にこの頃の流行であるところの奈須きのこや谷川流を支持するティーンエイジャーは『ヱヴァ』を知らない層であったのだから。飯田はそのことを指摘(ブログ『伝奇、再興――「偽史の時代」八○年代と「人外という道徳の彼岸」』)した後、奈須作品にみられる「二重人格(ex:『月姫』のアルクェイド・ブリュンスタッド、『空の境界』の両儀式etc…)」は責任転嫁にもひとしく、サブカルチャーにおいて「暴力」の所在がうやむやになってきているとしたうえで、その姿勢はインターネット上の心ない書き込みにも繋がるとしている。川原礫『アクセルワールド』や『ソード・アート・オンライン』の需要・人気などは、けだし白眉だろう。また、『戯言』シリーズにおいて、裏の世界などという大がかりな仕掛けを背負って華々しくデビューした西尾維新は当初、セカイ系的想像力の作家であるかに思われたが、『化物語』や『刀語』などの偽史化が進む一方である。おなじメフィスト賞のミステリ作家でいうとポスト村上春樹と称される舞城王太郎の存在があるが、『ディスコ探偵水曜日』を一読すれば分かるとおり、緻密なロジック、科学的なレトリックは細部に織り込まれた偽史と訳のわからない大がかりなタイムスリップとが推理の根幹にかかわることによって現実と遊離し、村上春樹が『アンダーグラウンド』にて自省したデタッチメントの在り方を擁護するかのような作品に仕上がっている(飯田は本作における「水星C」の存在を、オウム真理教を喚起してしまった「やみくろ」達「恐怖」の象徴を併呑する存在として、「21世紀探偵神話の相貌――清涼院流水問題、あるいは舞城王太郎論」にてそう解釈している)。
『ディスコ探偵水曜日』と同様に、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』とは異なったタイムスリップを描いた『涼宮ハルヒの憂鬱』の作者・谷川流は、八十年代文学にどっぷり浸かった作家である。作中登場する「閉鎖空間」とは、村上龍が『コインロッカー・ベイビーズ』で浮き彫りにした閉塞感をキョンとハルヒというアニマとアニムスの統合によって克服できるものとして、前向きにとらえた作品なのではないか。反対に、うつむいてそこからのエクソダスにうったえられずにいるのが角田光代といえる。
飯田一史は「ある時期以降の角田小説の長篇でかつて見られなかった二つの特徴――登場人物たちに目標があるのと、年代が添えられ、二代、三代にわたる話が多くなり、登場人物たちが中長期的な視野をもつよつになった」としているが、僕はその萌芽は『さがしもの』にあると考えたい。「おばあちゃんの幽霊」は、これから偽史にチャレンジするために試みられた、巣立ちを前にした小鳥がおっかなびっくり行うぎこちないワンステップではないだろうか。しかし面白いのは、『おじゃる丸』等のパロディのために失敗したとされる宮台真司の「まったり」が、飯田いわく「スロー」として角田光代の諸小説に散見されることだ。この後サブカルチャーの需要は、かきふらい『けいおん!』や「アニメじゃない、ホントのことさ」をアイドルブームという形で世に問うた秋元康のAKB48などの空気系へと発展(か、どうかは甚だ眉唾だが)していき、『新劇場版ヱヴァ』のようなセカイ系の反復すら必要とされるほど、時代に選好される物語はストーリー性が希薄化していく有様なのに対し、角田光代は厭世観ならぬ人生観ともいえるそのまったりの姿勢を崩さず、「売れない」という自身の思いに反して『八日目の蝉』がヒットする。これは面白い構図だ。片方では東浩紀的用法でのデータベース的消費の完全形態とも思われる空気系的想像力が消費されるかと思えば、角田光代が愛好されてもいる。尤も関連のない両者をくっつけて論じるのは牽強付会だろうが、どちらも「終わらない日常」を描くものであるという共通点をもっている。私見ではあるが、まったり鳴く蝉は八日といわず一夏でも一年でも生きのびるのではなかろうか。
ともあれ、次なる想像力こそが我々にとっての切実な「さがしもの」であるという課題は、まだ解決の糸口を見つけ出せていない。