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黒衣の男は目を瞑り、ゆっくりと深呼吸をする。
両手には既に鞘から抜き出された白銀の牙。手に馴染むその感覚は、己の身体の一部。
凛と張る水面のように静まり返る胸中、男は思った。
今回も同じなのだろう、と。
それは諦めと似ている思いで、そしてそれはそうあらなければならないものだった。
張り詰める水面に石を投じる。
波紋を広げ、ざわざわと感染する。
己は魔物。魔物になりきれない人間。人間を捨てたい人間。
己の傍には魔物。魔物としか言い言えない魔物。憧れの影。
頭の中で響く誓いの声は、何故か姉の声をしていた。そのことに笑みがもれる。
表だって約束はできないけれども、心の中で約束をしよう。
揺れる水面が荒れていく。この感覚が好きだ、と黒衣の男は思った。
荒れた水底が、決壊する。
男が目を開くと、そこは戦場だった。
先ほどまでの静かな世界が嘘のように煩い光景。焦土のように何も無くだだっ広い場所。怒号、雄叫び、血の臭い、乾いた空気、大気を震わせるべくの声、剣が矢が地面に刺さる音、ぎらついた目、生き残る意思、全てが煩い。
黒衣の男はそれに触発されるように醜く笑った。
男は駈ける。先陣をきる部隊にも追いつくほど速く。
男は振る。その両手に収められた白銀で死神の鎌を再現する。
男は笑う。醜く歪んだ笑みは白骨と化した死神の顔よりも生き生きとし、極上の料理と化した命を喰らう。
あれだけ煩わしいと感じていた悲鳴でさえも、徐々に男にとって身を奮わせるものとなっていった。
男の影は楽しそうに舞う男と共に踊る。阿鼻叫喚の空間が出来上がる。
黒衣の男の傍には味方は寄り付かない。近づけば自分がどうなってしまうのかを理解しているからだ。男の味方であるはずの兵士達は、遠く、戦っている。
男はそれを気にするまでもなく進む。血の道を、肉の壁を作っていく。
戦場を駈ける『魔王』は人々を殺戮していく。『殺戮』そのものである男の名を誰かが呼ぶ。男がそれに振り返り、恐怖に彩られた顔が近くにあることに気がつくと、それに牙を食い込ませた。
次の獲物にへと目が移り、そこにもあった恐怖に白銀を振るった。美味だというように、早く喰らわせろと一閃。
そして黒衣の男は目を見開いた。
恐怖に染まった顔は、原型を留めていた。男はその顔を両断するべく腕を振るったというのに。
肉を裁つ感触はしなかった。当たり前だ。その感触があったのならば、今頃ここに顔は無い。
そして黒衣の男は、今更それに気がついた。
その顔を護るように横から伸びている鈍い色を放つ銀色を。
剣。しかもそれは普通のものとは違った、大剣。
遅く流れる時間の中、黒衣の男は目をその剣の根へと向ける。
そこには、赤があった。
その赤色が人間の瞳の色だと悟ると同時に、黒衣の男は勢いよく後方へと飛んだ。
爆音。
そのまま振り下ろされた大剣が地面を抉り、どんな原理か大剣に触れた地面周辺が炸裂した。
下から打ち上げられる大剣の切先をギリギリで避け、炸裂した地面から生まれた石礫が男を追う。
視界を庇うべく両腕を顔の前で交差させ、さらに後ろに飛びのくべく足を地面につけた男は瞬間、身体に走る悪寒に横に飛んだ。
爆音。
横目で見えた視界には、地面に叩きつけられる大剣。
その剣筋は黒衣の男が立っていた場所を真っ直ぐ断ち切る軌道。
先ほどと同じく剣に触れた地面が爆発し、石が飛来する。
再度身体に走る悪寒。黒衣の男は無我夢中に後ろに飛んだ。
爆音。
爆音。
聴覚を攻撃する音が身体を貫く。握り拳大の石礫以上に大きな石が腹部を襲い、詰まる息が無理矢理吐き出され平衡感覚が狂う。黒衣の男はたまらず地面を転がり、だが一瞬にして立ち上がり狂う視覚で大剣の主を捜す。
大剣の主はすぐに見つけられた。
浅黒い肌の巨漢が、黒衣の男の前にいた。
黒衣の男は戦慄に目を見開き、その男から距離を取る。
浅黒い肌の巨漢は、太陽を凝縮したような赤い目を黒衣の男に向け、片方の口の端を持ち上げてみせた。
その巨漢は、黒衣の男とそれほど身長差は無い。だが筋肉を最大限にまで詰め込んだような身体が、その男を巨大に見せ、さらに人間が振るうには大きすぎる大剣のせいでそう錯覚させてしまうのだ。
黒衣の男が警戒に巨漢を睨めつけている中、指が一本、立てられる。
「ひとーつ! 世に蔓延る悪を討ちー!」
指が二本に増える。
「ふたーつ! まったくもって関わりたくないが国のために働きー!」
指が三本になり、
「みーっつ! 気にいらねぇやつをぶっとばすー!」
指が四本になる。
「最後ー! 強い奴と、戦いてぇー!」
指が全部立てられた。
「……嫌な目ぇしてやがるぜ。人を物のように斬り捨て、それを笑ってる輩なんざ、俺が殺してやるよ」
まったく意味の分からない、何故言ったのかも理解できない口上に満足した男は笑い、肩に担がれていた大剣に開かれた五本の指を緩慢な動きで添える。
黒衣の男は自身の身体に駆け巡る悪寒に、知らず笑った。ざわざわと警告する直感。危険だと警報を鳴らすそれに、黒衣の男は心底で燻る熱にさらなる熱が追加される感覚を味わった。
その顔を見た浅黒い肌の巨漢は、忌々しそうに、だがこれから始まるであろう宴に歓喜の色を浮かべる。
二人を取り囲むように円を作る兵士達は、戦いを止め、二人の動きを一つも取りこぼさないといった風に凝視する。その周囲だけの、戦場には不釣合いな静寂。それは嵐の前の静けさか。
誰もが動けない静けさを破るのは影。黒衣の男の後ろで、人間で言えばうろたえていた影が黒衣の男の気持ちを汲み取るように声を上げた。
男とも女とも取れない、断末魔の悲鳴の如く甲高い声。
この世の果てに聞く地獄の鐘と似ているであろう声に、兵士達は耳を塞ぎ慄く。
二人はそれでも動かない。
両者共歓喜に顔を歪め、影の声など聞こえないといった風情で立ち尽くす。
――そして影の声が已んだ時、二人の時間は動き出した。