当たり屋の連絡先
都心の住宅街を、軽快に走る宅配自転車便の女学生がいた。髪は黒く短く、緩いウェーブがかかっている。国文学専攻の自宅生で、名は露木零という。
「ええっ、ちょっと!危ない!」
突然飛び出して来た歩行者に、急ブレーキをかけてつんのめる。
「ひいいっ」
「ははっ!轢かれた!」
飛び出し青年は、配達員と同じような年頃である。清潔感のある短髪で、地味な服装だった。彼は実際には接触しておらず、元気だ。
「気をつけてくださいね!」
配達員は急ぎの仕事なので、そのまま出発しようとした。一歩間違えれば自分が大怪我をしていた状況である。だが、触れてもいないのに轢かれたなどと言う輩に関わっては危ない。せいぜい、自分に非がないことを暗示する一言を投げ捨てる程度の反抗ができるだけだ。
「おおっと、当て逃げはいただけないな」
どこか満足気な表情で、若者は伴走を始めた。
「なに?えっ、こわっ」
宅配業者の配達員達は、その多くが高級自転車にスマホ複数台を取り付けている。しかし彼女は、古ぼけた家庭用自転車である。薄汚れた青い自転車には、赤い塗料で落水駅前飲食店組合と書いてあった。彼女は、組合の直接雇用である。組合と言っても、加盟店は三店舗だけ。都心の小さなこの町は、限界集落と似たような状況にあった。各店舗の出前需要と人件費が釣り合わないため、共同で一人を採用したのだ。稼ぎは少ないものの、安定しており、高級装備は不要であった。
「後で何かあったら困るでしょ。連絡先教えてよ」
「ハァ?」
単なる当たり屋ではなかったようだ。何が目的なのかわからない。嫌がらせがしたいだけなのか、暇なのか。新手のナンパなのか。
(気にしたら負け、気が散ると事故)
零は心の中で自分に言い聞かせた。無視して仕事に集中するのが一番である。
露木零がまだ十歳だったころ、通り魔事件に巻き込まれた。事件で両親を失い、祖母に育てられることになった。先日、その祖母もこの世を去った。堅実に生きて来た二人なので、大学卒業まで暮らしに困ることはないだろう。それでもお小遣いくらいは稼ごうと、零は飲食店の宅配サービスアルバイトを始めたのだ。
アルバイトは順調だった。単純で平和なパートタイムジョブである。これまでは、クレーマーにも当たらず幸運だった。今回が初めての不運である。伴走者は、配達先に到着すると、息も切らさずに立ち止まった。そのまま穏やかな表情で立っていたが、零が配達を終えると、スマホを突き出した。
「うっ」
零は思わず呻き声を上げた。急いで自分のスマホを仕舞おうとする。不審者は無邪気な瞳で見つめてきた。
「連絡先交換しようよ」
(こわっ)
零はスマホをポケットに入れると、そそくさと自転車に跨った。
「あっ、バランス栄養食品あげる」
「いりません」
不審者は連絡先交換をあっさり諦め、今度は箱入りの携帯食を鼻先に突き出して来た。
(ひえっ)
諦めたかと思いきや、箱には油性ペンで連絡先が書かれていた。
(ん?ちょっと待って?有野蔓?)
聞き覚えのある名前だ。零は不審者をまじまじと見る。誰だったか?思い出せない。
「おおっ?見惚れてるね?」
「頭おかしいんじゃないの!」
不審者を振り払うように、零は店舗への帰路につく。伴走者は遅れずについてくる。道ゆく人がクスクスと笑っていた。
(うわぁぁぁ、なんなのこの人ぉ)
伴走者は真面目な顔で前を見ている。途中、にわか雨が降り出した。零はスピードを上げた。それでも不審者はピタリと着いてくる。店舗に戻った時も、息は全くもって平常だった。
「やっ、蔓くん。いらっしゃい」
「どうも」
不審者がミニタオルを取り出して、髪の水気を払いつつ会釈した。
「えっ、おじさん、知り合い?」
不審者が大衆食堂のおじさんと気さくに言葉を交わすのを見て、零は複雑な気持ちになった。
「最近引っ越して来たんだってさ。ほら、あそこ、草壁さんちの隣にあるボロアパート」
「あ、そう、なんですか」
「そうなんです」
「あははー」
零は引き攣った笑顔で店内へと移動した。今日の勤務時間は終了である。報告を済ませて退勤だ。不審者にはそれ以上関わらずに済むことを祈りつつ、店を後にする。
「あれっ、蔓くん、食べてかないのー?」
おじさんの声に振り向けば、案の定、不審者有野がストーカーになっていた。目が合うと、片手を挙げて零に挨拶をした。
「どうも」
ニコニコと嬉しそうである。
「これ以上着いてくるようなら、警察を呼びますよ?」
「ええー、つれないなぁ」
「何が目的なんですか?」
「連絡先」
不審者は、再びスマホを取り出した。零は舌打ちして歩き出す。不審者の要求には沈黙を返した。
「カルシウム足りてる?」
有野蔓が、アーモンドと小魚が入った小袋を渡そうとした。袋には、黒いペンで連絡先が書いてある。
(しつこいなぁ)
チラリと小袋に目をやって、ふと思い出が蘇った。
(あれ、こんなこと、前にもあったような?)
高校のころ、図書館からの帰り道。無駄に道を塞ぐ小学生グループがいた。手を繋ぎ、通せんぼをしてくるのだ。相手が自転車でも怯まない。意地悪そうな顔をして、大人を嘲りながらの危険行為である。
「危ない!どきなさい!」
自転車を降りて子供を押しのけつつ通った時、後ろから走ってきた少年がいた。少年は追い越しざまに、アーモンドと小魚の入った小袋を投げて寄越した。
「カルシウム足りてる?」
長閑な口調でそれだけ言って、彼は遠ざかって行った。思わず小袋をキャッチして、零は呆然と少年の背中を見送ったのだった。
「あぁ」
零は人差し指を有野に向けて軽く振った。
「うんうん」
期待を込めて、有野が零の双眸を覗き込む。
「右総代!有野!」
「やっと思い出してくれた!」
有野は輝く笑顔でアーモンドと小魚の入った小袋を差し出してきた。
「いやでも、なんで?話したことなかったよね?」
不審者はやはり不審者のままである。
「じゃあこれ、覚えてる?」
有野はポケットから、赤い包紙のキャラメルを取り出した。細長く小さなキャラメルである。子供には好き嫌いがハッキリと分かれる黒糖味だ。最近はあまり見かけないが、二人が子供の頃にはスーパーでよく売っていた。
「黒糖キャラメル?」
「あの日、病院でくれた黒糖キャラメルが、ずっと心の支えだったんだ」
「病院?あの日?」
零には何のことだかわからない。
「たくさんの人が病院に運ばれて、僕たちは病院の廊下に立っていた」
有野は辛そうな顔で、静かに語った。
「僕たちはまだ十歳だった」
「十歳?病院?」
零はハッとした。
「通り魔事件の!えっ、かずちゃん?」
「よかった!やっぱり覚えててくれたんだね」
仮初の出会いだった。手当てや手術を待つ病院の廊下で、有野蔓は震えていた。壁にピッタリ背中をつけて、ただただブルブルと震えていた。
「どうぞ」
女の子が近づいて来て、一粒の黒糖キャラメルを差し出した。しばらく眺めてから、有野は断った。
「ごめん、黒糖食べられない」
「お母さんがね、黒糖キャラメルは人生の味だって言ってたよ。苦くてちょっと甘いんだって」
「じんせい」
有野は、零の頬に乾いた涙の跡を幾筋も見つけた。今の状況が黒糖キャラメルと重なる。窓から差し込む夕陽が、少し天パな女の子の黒髪に踊っている。女の子の手には、黒糖キャラメルがたくさん入った巾着袋が握られていた。爽やかな若草色と白のギンガムチェックだ。赤いフェルトのアップリケで、露木零、と書いてある。
「何て読むの?」
「つゆき れい」
「れいちゃん。ありがとう」
「うん」
気丈な童女は、張り詰めた表情で答えた。両親は手術中だという。涙を無理に抑え込み、じっと知らせを待っていたのだ。震えている少年を見つけて、声を掛けずにはいられなかった。
「僕、有野蔓。お父さんが大怪我したんだ」
「私はお父さんとお母さんがやられた」
「お父さんが守ってくれたから、僕は怪我をしてない」
「私もしてない」
それから二人は、学校や住んでいる町のことなどを話した。しばらくして、病院の職員がやってきた。
「有野蔓くん」
「はい」
「ついてきて」
「はい」
有野は職員に返事をしてから、零に手を振った。
「ばいばい。れいちゃん、ありがとう」
「うん。ありがとう。かずちゃん、ばいばい」
ふたりの町は離れていたが、高校は偶然同じだった。入学式の日のことである。懐かしい名前が蔓の耳に飛び込んできたのだ。見れば、自己紹介をしあう女子グループがいた。名前の主は、幼い頃の面影を残した、少し天パの少女であった。
「新入生代表もかずちゃんだったよね」
「うん!代表になれたお陰で、僕のこと気づいてくれただろうと思ったんだよ。話しかけてくれるかなって、しばらく見てたんだけど」
「ごめん、全く気づかなかった」
高校時代の有野は内気だったので、零が気づいてくれるのをひたすら待ち続けていた。アーモンドと小魚を渡した後、話しかけるチャンスは二度とこなかった。ただでさえモジモジしているのに、せっかく勇気を出しても、いつも何かしらの邪魔が入ったのだ。卒業後、もう縁は無いかと諦めかけた。
「でも、いつか偶然再会できるかも知れないと思って」
「いろんなものに連絡先書いて、持ち歩いてるのね」
零が苦笑いした。
「うん」
蔓は大真面目に頷いた。
「持っててよかった。思い出してくれたから」
蔓は安心したように微笑んだ。
「今日、偶然逢えて、機会を逃したくなかったんだ。どうしても連絡先を交換したかった」
俄雨は、いつしか上がっていた。初夏の夕風が、地味な直毛を揺らす。零は蔓のことを、もう不審者とは思わなかった。
「お夕飯、一緒に食べる?」
零の口から、ごく自然に誘いの言葉が溢れでた。
「うん!」
蔓は食い気味に叫んで、首を大きく縦に振った。
「さあ、入った入った」
店の戸口に立っていた食堂のおじさんが、大きな声で呼びかけた。陽気な笑顔で二人を手招きしている。話の内容が聞こえる距離ではなかった。二人が引き返すのを目にして、自分の店に来るのだろうと予想したのである。
「連絡先、交換しよう」
蔓は懲りずにスマホを向けて来た。
「うん、いいよ」
零は穏やかに笑って、蔓の示すQRコードを読み込んだ。
「ん?なんか送られて来た」
「送った」
零がスマホを左右に揺らしながら笑った。
「詩経?」
「よく知ってるね」
「右総代ですから」
「そうだった」
食堂の席に着いて、蔓が送られて来た詩をじっくりと読み始めた。
「何か気づかない?」
「え?んん?あれ?」
零は悪戯っぽく笑う。蔓は驚きと喜びの入り混じった顔を上げた。
「野有蔓草 零露漙兮。ああっ、僕たち、ペアネームだったんだね!」
大衆食堂の前を、夕方の買い物客が通り過ぎてゆく。殆どが高齢者だ。近ごろは、そそけた白髪や腰曲がりの人が少ない。みな颯爽と歩いてゆく。街路樹に絡まる蔓草には、俄雨が残した雫が金赤色に輝いていた。




