番外編「銀髪の秘書と休日のドリップコーヒー」
タケシ商会が領主の街の経済を完全に掌握し、物流の基盤が強固なものとなってから数ヶ月が過ぎた。
休日の朝。タケシは新しく建てられたばかりの木造の自邸で、ゆっくりと目を覚ました。寝室の大きな窓からは、柔らかい朝の光が差し込み、白いシーツを淡い黄金色に染めている。遠くの森から聞こえてくる名も知らぬ小鳥のさえずりが、静寂な空間に心地よく響いていた。
タケシは薄手のパジャマのままベッドから起き上がり、大きく伸びをした。肩の関節がコキッと鳴る。平日は商会の代表として分刻みのスケジュールに追われている彼にとって、誰にも急かされることのないこの朝の時間は、何にも代えがたい贅沢だった。
リビングを抜け、広々としたキッチンへ向かう。無垢材の床は裸足に少しひんやりとして気持ちがいい。タケシはキッチンのカウンターに立ち、「無限在庫処分」の能力を静かに起動した。
今日引き出すのは、地球の高級焙煎所でパッケージの印刷ミスという理由だけで大量に廃棄される運命にあった、エチオピア産のスペシャルティコーヒー豆だ。茶色いクラフト紙の袋が現れ、封を切ると同時に、鼻腔の奥まで突き抜けるような、果実を思わせる華やかで甘い香りが広がる。
「よし、今日はこいつをじっくり味わうか」
タケシは独り言をいいながら、手挽きのアンティーク調のコーヒーミルを取り出した。ホッパーに艶やかな焦げ茶色の豆をザラザラと流し込み、ハンドルをゆっくりと回し始める。ゴリッ、ゴリッ、という豆が砕ける重低音がキッチンに響き、それとともに先ほどよりもさらに濃厚な芳醇な香りが爆発的に立ち昇った。ハンドルから伝わる確かな抵抗感が、タケシの脳を少しずつ覚醒させていく。
お湯を沸かすための銅製のドリップポットを火にかける。シュンシュンと湯気が上がり始めたところで、タケシは挽きたてのコーヒー粉をペーパーフィルターにセットした。少しだけお湯を冷まし、細い注ぎ口から慎重に、粉の中心へと最初の一滴を落とす。
お湯を含んだ粉は、まるで深呼吸をするかのようにふんわりとドーム状に膨れ上がった。新鮮な豆が放出する炭酸ガスの証だ。ぽた、ぽた、と琥珀色の液体がサーバーに落ちる音は、時計の秒針よりも正確で、心に深い静けさをもたらしてくれる。
「……んん……タケシさん、すごくいい匂いがします」
背後から、微かに掠れた柔らかい声が聞こえた。振り返ると、リビングの入り口に、少し大きめのタケシのワイシャツを借りて羽織ったリリアが立っていた。銀色の長い髪は寝癖で少しふんわりと浮いており、透き通るような青い瞳を擦りながら、まだ半分夢の中にいるような足取りで近づいてくる。
「おはよう、リリア。起こしてしまったかな」
「ううん……お休みの日は、もっとゆっくり寝ていようと思ったんですけど、この不思議な香りに誘われてしまって」
リリアはタケシの隣に並び、ドリップポットから細く注がれるお湯の筋と、膨らむコーヒー粉を不思議そうに見つめた。
「これはコオヒイというんだ。俺の故郷で、朝の目覚まし代わりに飲む特別な飲み物だよ。少し苦いが、飲んでみるか」
「はい。タケシさんの故郷の飲み物、すごく気になります」
タケシは抽出を終えたコーヒーを、二つの真っ白な陶器のマグカップに注ぎ分けた。湯気とともに立ち昇る香りは、チョコレートのような甘さと、微かな酸味を併せ持っている。タケシはマグカップの一つをリリアに手渡した。
リリアは両手で大切そうにカップを包み込み、その温かさにふわりと表情を緩めた。そして、おずおずと口をつけ、ほんの一口だけすすり込む。
「あっ」
次の瞬間、リリアは目をきつく閉じ、ブルブルと小さく首を振った。
「に、苦いです。これ、焦げた木の枝を煮詰めたみたいなお味がします……タケシさん、本当にこれをおいしいと思って飲んでいるんですか」
涙目になって見上げてくるリリアの反応が可愛らしくて、タケシは思わず声を上げて笑ってしまった。
「最初はみんなそう言うさ。ブラックのままじゃ、君には少し刺激が強すぎたな。ちょっと待っていろ」
タケシは「在庫」から、業務用のコンデンスミルクのチューブと、角砂糖の箱を取り出した。リリアのマグカップに角砂糖を二つ落とし、たっぷりのコンデンスミルクを渦を巻くように絞り入れる。スプーンでカチャカチャと音を立ててかき混ぜると、真っ黒だった液体は、優しいキャラメル色へと変わっていった。
「これでどうだ。もう一度飲んでみてごらん」
リリアは疑心暗鬼の表情で、再びカップに口をつけた。恐る恐る液体を舌に乗せた瞬間、彼女の青い瞳が驚きに丸く見開かれた。
「わぁ……。甘い……。あんなに苦かったのに、すごくまろやかになって、お口の中にいい香りが残ります。これ、すっごくおいしいです」
リリアは満面の笑みを浮かべ、今度はゴクゴクと音を立ててコーヒーを飲み始めた。タケシは自分のブラックコーヒーを一口飲み、その鋭い苦味と酸味のバランスに静かに頷く。それぞれ違う味のマグカップを持ちながら、二人は窓辺のテーブルに向かい合って座った。
「甘いものを飲んだら、お腹が空いてきただろう。朝食はホットサンドにしようと思うんだが、具は何がいい」
「私、ツナとマヨネーズがいいです。あと、チーズもたっぷり入れてください」
すっかりタケシの提供する現代食に染まりきったリリアの無邪気なリクエストに、タケシは悪くない気分で頷いた。休日の朝は、まだゆったりと流れている。窓の外には、タケシ商会がもたらした豊かさによって活気づく街の音が、遠く微かに聞こえ始めていた。
タケシはリリアの笑顔を見つめながら、コーヒーの温かい湯気越しに、自分の人生がこの異世界でどれほど満たされているかを静かに噛み締めていた。窓際サラリーマンの孤独な朝は、もう二度と訪れることはない。ここには、彼が守り、彼を慕ってくれるかけがえのない日常があるのだから。




