第12話「無血の制圧と在庫管理の真髄」
領主がタケシの突きつけた契約書にサインをするのに、半日もかからなかった。
豪華だが冷え切った領主の館の執務室で、肥え太った領主は脂汗を流しながら、タケシのボールペンを握りしめていた。彼の目の前には、タケシが誠意として持ち込んだ、地球の高級フリーズドライのフカヒレスープや、美しい化粧箱に入った高級チョコレートの山が積まれている。
「ほ、本当に、これだけのものを毎月納めてくれるのだな。私の地位は、形式上だけでも守られるのだろうな」
領主の震える声に、タケシはゆったりとソファに腰掛けたまま、静かに頷いた。
「もちろんです。領主様はこれまで通り、この館で優雅にお過ごしください。政治の煩わしい実務や、税の計算、市民の不満の処理は、すべて我々タケシ商会が代行いたします。領主様はただ、素晴らしい食事と芸術を楽しんでおられれば良いのです」
タケシの言葉は、恐ろしいほどの毒を含んだ甘い蜜だった。実権をすべて奪い取り、領主をただのマスコットに貶める。しかし、もはや経済的にも軍事的にも首が回らなくなっていた領主にとって、それは唯一の生存ルートだった。
領主が契約書にサインを書き終えた瞬間、タケシは立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。
「契約成立です。今後の物流と市場の再編は、直ちに取り掛からせていただきます」
館を出ると、青空の下で待機していたリリアと、魔王ルビアが駆け寄ってきた。ルビアは黒い鎧の魔族たちを背後に従え、腕組みをしてタケシを見下ろした。
「どうやら、人間の親玉は尻尾を巻いたようだな。武器の打ち合いすらなしで、あの強欲な領主の首輪を握るとは……貴様のやり方には、魔王たる私も舌を巻くぞ」
「人聞きの悪い。俺はただ、余っている在庫を必要な場所に届けただけさ」
タケシはネクタイを少し緩め、ふうっと大きく息を吐き出した。四十二歳にして、異世界の一つの街と、巨大な魔王領の経済を完全に掌握したのだ。元の世界では、窓際のデスクで誰にも読まれない在庫リストにハンコを押すだけの男が、ここでは数万人の生活を根本から変え、王すらもひざまずかせた。
「タケシさん、すごいです。これで、村のみんなも、街の人たちも、誰も飢えることなく平和に暮らせるんですね」
リリアが感極まった様子で、タケシの両手をきゅっと握りしめた。彼女の目には涙が浮かび、銀色の髪が陽の光を受けてキラキラと輝いている。タケシはその温かい手から、自分の成し遂げたことの重さを初めて実感した。
「ああ、そうだ。これからは、俺たちの商会がこの世界の新しい基準になる。エルフの村は特産品の加工と流通の心臓部になり、魔王軍はそれを守る最強の盾だ」
タケシの頭の中には、すでに次の在庫整理のプランが浮かび上がっていた。街のインフラ整備、魔王領での農業技術の近代化、そして地球の娯楽品による文化侵略。彼の「無限在庫処分」には、まだまだ無限の可能性が眠っている。
「まずは、街の住民と魔王軍のみんなを集めて、大規模な炊き出し兼商会設立記念パーティーをやろう。在庫の肉と酒を全部出して、盛大にやるぞ」
タケシの号令に、ルビアの赤い瞳がパッと輝き、魔族たちから地鳴りのような歓声が上がった。
「やったぞ。今日は肉だ。酒だ」
「タケシ商会万歳。魔王様万歳」
屈強なオークたちが抱き合って喜び、ワーウルフたちが遠吠えを上げる。リリアも弾けるような笑顔で、エルフたちに指示を出しに走っていった。
タケシは一人、喧騒から少し離れた場所で、街の全景を見下ろした。見慣れた赤紫色の太陽が、西の空へゆっくりと沈んでいく。風に乗って、早くもどこかでカレーや肉を焼く匂いが漂い始めていた。
『窓際サラリーマンの左遷先にしては、悪くない職場だな』
タケシは自分の胸ポケットを軽く叩いた。そこには、最初の日にリリアにカップ麺を食べさせた時に使った、一本の割り箸が丁寧に紙に包まれてしまってある。すべての始まりだったその小さな道具の感触を確かめながら、タケシは静かに微笑んだ。
異世界におけるタケシの戦いは、血と鉄ではなく、段ボールとレトルトパウチによって完全に決着したのだ。彼の商圏は、ここからさらに世界全体へと広がっていくのだろう。だが、今はただ、この騒がしくも温かい仲間たちとの宴を楽しむ時間だった。




