タイトル未定2026/01/08 22:07
昭和五年初夏。
梅雨入り前の空は高く、風はまだ若かった。
萱場製作所・試験場の片隅に、その奇妙な飛行機は置かれていた。
翼は短く、代わりに胴体の上に大きな回転翼を載せている。
止まっていれば、まるで骨組みを晒した蜻蛉のようだ。
「……なるほどな」
工具箱を抱えたまま、萱場の若手技師・佐久間は、思わず声を漏らした。
「写真で見るのと、実物じゃ全然違いますね」
「当たり前だ。機械は、触って初めてわかる」
隣で腕を組んでいるのは、主任技師の山本だった。
英国から届いたオートジャイロ――二機。
箱を開け、布を外した瞬間、工場の空気が変わった。
「回転翼が“揚力を作らない”ってのが、まだ信じられません」
「作らないんじゃない。“勝手に生まれる”んだ」
山本は、ローターハブを指で軽く弾いた。
「風を拒まない。迎えに行かない。ただ受け入れる。
……発想が、我々と違う」
その時だった。
「失礼します。萱場製作所殿でよろしいでしょうか」
振り返ると、詰襟の陸軍将校と、海軍の短い上着を着た将校が並んで立っていた。
後ろには、同じく技術将校と思しき男が二人。
「陸軍航空技術研究所の小野です」
「海軍航空技術廠の河村と申します」
山本は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「これはこれは……ご一緒に来られるとは」
「ええ。最近はそういうことになりまして」
河村が、少し照れたように笑う。
「互いに“あとで聞く”のは無駄が多い。
なら最初から同じ物を見るべきだろう、と」
佐久間は、そのやり取りを聞きながら、内心で小さく息を呑んだ。
陸と海が、同じ場で同じ機械を見ている。
それだけで、この飛行機が“特別”に見えた。
「どうですか、第一印象は」
山本が訊くと、小野が一歩前に出た。
「正直に言えば……武装の匂いがしません」
「それは我々も同じです」
河村が続ける。
「だが、だからこそ気になる。
低速で、落ちにくく、狭い場所に降りられる。
戦闘機ではないが、戦争に必要な“空の道具”だ」
山本はうなずいた。
「我々も、同じところを見ています。
そして――」
彼は、脚部の油圧装置を叩いた。
「この着陸脚。衝撃を逃がす思想が、まだ甘い。
だが、直せる」
その言葉に、陸海の技術者が同時に顔を上げた。
「萱場なら?」
「ええ。ここは我々の庭です」
佐久間は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
⸻
数週間後。
分解されたオートジャイロは、工場の床いっぱいに並んでいた。
「この軸受、英国製は硬すぎますね」
「振動を殺しきれていない」
「なら、減衰を一段入れよう」
「重量は?」
「許容範囲だ」
陸軍も海軍も、肩書きを忘れたように議論に加わる。
図面の上ではなく、油と金属の前で。
そして――。
「回します」
試験場で、佐久間が声を張った。
エンジンが唸り、回転翼が、ゆっくりと、しかし確実に動き出す。
風を切る音は小さい。
驚くほど静かだった。
「……穏やかだな」
「ええ。空に嫌われていない」
やがて機体は、ふわりと地面を離れた。
歓声はなかった。
誰も叫ばなかった。
ただ、全員が同じ方向を見ていた。
「兵器ではない」
河村が、ぽつりと言った。
「だが、未来だ」
小野が続ける。
「連絡、観測、救難……民間にも降りていくだろう」
佐久間は、回る翼を見上げながら思った。
ラジオが声を運び、
バイクが人を運び、
トラックが物を運ぶ。
なら――
この奇妙な飛行機は、空を“近く”するのだ。
萱場の空で回る翼は、
まだ兵器でも、まだ商品でもなかった。
だが確かに、
昭和という時代の“進み方”を示していた。




