表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/18

08 和議

 矢の音は日に日に重くなっていた。城の石には傷が増え、崩れた土塀には板が打ち付けられている。井戸の桶を引く手は軽く、鍋の中には薄い粥がわずかに温まっているばかりであった。


 市の者も兵と同じ粥をすすり、痩せた顔を並べて城壁の陰に身を寄せている。門を預かる吏の眼には、日ごとに迷いの色が積もっていった。


 韋康は吏舎の一隅に坐し、簿の上で減り続ける麦の数字を見つめる。


 「これでは、幾日ももつまい」


 傍らに控える趙昂が口を開いた。


 「城外の田もほとんど焼かれました。それでも人心が保たれてきたのは、伯倹殿がおられたからにございましょう」


 閻温の名が出ると、韋康はうつむいた。馬超に捕らわれた閻温のその後はまだ知れぬ。だが胸の奥には、不安が影のように張りついている。


 その日、城を包む声は、いつもと少し違っていた。槍と楯の列が前に出され、旗の群れが城門の前で止まる。櫓の上の兵たちは矢を番えたまま、息を潜めて外をうかがった。


 「冀城の者ども、よく聞け!」


 城の外で高く叫ぶ声がした。冷えた空気を押しひらくような響きである。馬超の馬の前には一本の槍が立ち、その穂先の下に何かが括りつけられている。


 風が向きを変え、布の陰から白く乾いたものがちらと覗いた。見張りの兵のひとりが息を飲む。


 「あれは……」


 声はそこで途切れた。それが何か、誰もはっきりと言葉にすることができぬ。だが冀城を預かる者なら、その顔を見違えるはずはない。


 槍の下から、再び声が上がった。


 「顕親へ通じる道は、すでに俺の軍の下にある。救いの兵などどこにもおらぬ。城を開けて降れば、命は取らぬぞ。諸将も俺の旗下に入るなら、これまでの功を無駄にはせぬ。固く守り通せば、飢え死にするはお前たちだ」


 言葉は波のように城壁に打ち寄せる。弓を支える手が震え、城上の兵の列にざわめきが走った。


 報を聞き、韋康は急ぎ城上に上る。冷たい風が衣の裾をはためかせた。視を凝らせば、遠くの槍の下に掲げられたものが薄く陽を受けている。


 「伯倹殿」


 思わず洩れた名が、唇の上で震えた。冀城のために闇をくぐり、城門の前で声を張り上げた男の姿が胸に刺さる。その命の行き着く先が、今、槍の下にあった。


 城下を見渡せば、土塀の陰に痩せた影がいくつも坐り込んでいる。冀城はもはや、ただ兵の城ではなく、飢えに沈む民の城でもあった。


 韋康はしばし黙し、指先で城壁をつかむ。


 「この城を、なおどう守れと言うのだ」


 その問いは誰に届くでもなく、冷えた空気の中に沈んでいく。


 城上から戻ると、吏舎の堂には沈黙が落ちていた。几の上には簿と印がそのまま残り、灯の火が細く揺れている。韋康は席に身を沈め、額に手を当てた。


 「元将殿」


 楊阜が歩み出て拱手した。後ろには趙昂と楊岳、楊謨が続く。いずれの顔にも疲れが刻まれているが、眼の底にはまだ火が残っている。


 韋康はゆっくりと顔を上げた。


 「見たか、城の外を」


 かすれた声で問う。


 「冀城は、もはや」


 そこまで言って言葉を切った。楊阜はうなずく。


 「伯倹殿は冀城のために命を賭して節を守られました。その首を掲げて降伏を迫るは、まことに情なきやり方です」


 堂の隅で、楊岳が拳を握った。


 「義士の血を踏み台にして門を開くことなど、どうしてできましょう」


 趙昂も一歩進む。


 「元将殿。伯倹殿は命を賭して城前で声を上げられたのです。その節義を、ここで無にされますか」


 韋康は黙って二人の顔を見回す。


 「そなたらの言は、よく分かっておる。だが、城の下を見たであろう。兵ばかりではない。老いた者も、子を抱いた女も、塀の陰にうずくまっておる。粥さえ満足に行き渡らぬ。これ以上、何をもって彼らに耐えよと言うのだ」


 楊謨が、躊躇いながら口を開いた。


 「私どもは父兄子弟をひきいてこの城に入り、道義をもって互いに励まし合ってまいりました」


 楊阜が韋康の方へ一歩進み出る。


 「たとえ死ぬことはあっても二心を抱くことはありますまい」


 韋康のまなざしが楊阜に注がれた。


 「田単でんたんが城を守ったときでさえ、これほどまでに志をひとつにしたことはなかったやもしれませぬ。今ここで降伏なされば、ほとんど成りかけた功業を自ら棄て、不義の名を世に残すこととなりましょう」


 楊阜は、几との距離を詰める。


 「伯倹殿は冀城のために死なれました。曹公もまた、遠き許にてこの城の行く末を案じておられるはず。ここで門を開けば、伯倹殿の首は、ただ降将の証として掲げられるだけに終わります。私は、そのような終わり方を見過ごすことはできませぬ」


 頬を伝うものがあったが、楊阜はぬぐおうともせぬ。


 「元将殿。私はこの城を、死をもって守ります。たとえ一人残らず討たれようとも、節を折られたと知りながら生き長らえることは、私にはできませぬ」


 趙昂もまたうなずいた。


 「私も義山殿と共にございます。伯倹殿に顔向けできぬことは、いたしませぬ」


 韋康はしばし眼を閉じた。堂の外から矢の音と怒号が聞こえてくる。


 「そなたらの忠義は、よく分かった。……だが、この城には、そなたらのほかにも命がある。士も民も、みな、主の選ぶところに従うほかはないのだ」


 堂の空気がわずかに揺れた。楊阜は唇を結び、ひと息おいて言う。


 「私どもはみな、この城と運命を共にする覚悟あってここにございます。主がここで門を開かれれば、その覚悟は行き場を失いましょう」


 趙昂も言葉を継いだ。


 「どうか、なおお考え直しくださいますよう」


 韋康は息を吐いた。目の前には、塀の陰にうずくまる老幼の姿が浮かぶ。痩せた頬と空の器を抱く手。その背の向こうに、槍の下に掲げられた閻温の首が重なった。


 「私とて、節義を軽んじているわけではない」


 自らに言い聞かせるように呟き、韋康はゆっくりと立ち上がる。


 「だが主とは、己ひとりの名節のために万人を枯らす者ではあるまい。伯倹の首は、すでに道を選んだ者のしるしだ。残された者には、また別の務めがある」


 楊阜が一歩踏み出しかけたが、その足は途中で止まった。韋康の顔に浮かんだ決意を見て、その言葉がもはや届かぬことを悟ったのである。


 「明日、馬超に和を請う」


 韋康は、几の上の印を手に取った。


 「馬超は、降れば誰の命も取らぬと約しておる。城門を開き、士民の命を保つ。それが今の私にできる務めだ」


 夜明けには、冀城の空が白み始めていた。城門の前には兵が列をなし、門の吊り扉がきしみを上げ、鎖の鳴る音が石壁に響いた。


 重い扉が内から押し開かれてゆく。冷たい朝の風が細く流れ込み、城内の空気を震わせた。


 楊阜は門の内側に立ち、その光景を黙して見つめる。冀城の長い夜は、こうして終わろうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ