07 節義
闇はまだ濃く、外濠を満たす水は冷たかった。岸の葦には夜露が重く降りている。
閻温は鎧の紐を締め直し、水面を見下ろした。背後には冀城から共に出た従者が数人、息を潜めて立っている。
「ここからは声を立てるな。水を抜けたのち、しばし北へと歩む」
そう告げると、閻温は身をかがめ、水に身を沈めた。冷気が脇腹を刺し、鉄の重さが全身にのしかかる。葦の影を伝いながら水面すれすれに息をつぎ、包囲の目を外へとくぐり抜けた。
岸にたどり着くと、濡れた衣を絞り、闇の中を歩き出す。従者たちも泥を踏んで這い上がる。
どれほど歩いたか、やがて道は二つに分かれた。一方は顕親へと通じ、他方は北の山道へと続いている。
閻温は立ち止まり、懐から封を取り出した。楊阜の筆による書簡である。
「この文を、必ず妙才殿に届けねばならぬ」
若い従者の一人が一歩進み出た。顔には疲れが刻まれているが、眼にはまだ光がある。
「伯倹殿。どうか私に囮役をお任せくだされ。足も軽く、顔も敵には知られておりませぬ」
閻温はその眼を見つめ、かすかに笑みを浮かべた。
「囮には、知られておる顔の方がよい。冀城を囲む軍には、すでにわしの名が伝わっていよう。顕親に向かう者を追うなら、まずこの顔を求めるはずだ」
そう言って、書簡を従者の胸に押し戻す。
「そなたは山道を行け。昼は林の陰に伏し、夜に歩め。妙才殿の陣に着いたなら、この文を差し出して冀城の窮状を告げよ」
従者は唇を結び、深く頭を下げた。
「必ずや」
その背が闇の中に溶けていくのを見届けると、閻温はひとり顕親の方角へと歩み出した。わずかな星明かりを頼りに道を踏みしめて進む。
やがて雲が空を覆い、足もとは泥を帯び始めた。
その頃、冀城を囲む陣では、馬超の兵が濠のほとりに残る痕を見つけていた。折れた葦と、泥に残る足跡。水を潜って抜けた者があると知るや、追手は顕親の方角へと駆け出す。
昼に近づくころ、閻温は背後に蹄の音を聞いた。丘の向こうに、馬超軍の旗がひと筋、雨の幕を裂くように立ち上がっている。
「ここまでだな」
閻温は息を吐いた。
「わしの命は、すでにあの城と共に置いてきた」
言い聞かせるように呟くと、閻温は道の中央に立ち直り、顕親へと続く方角へ歩を進めた。前から蹄の音が土を震わせ、槍の穂先が雨の中に列をなす。
閻温は歩みを止めず、その列の前に進み出た。馬上から降り立った兵が粗い縄を取り出す。
「閻伯倹に相違あるまいな」
兵の言葉に、閻温はまっすぐにうなずいた。
「いかにもわしが閻伯倹である」
縄はその両腕に巻きつき、固く締め上げられた。その足はここで止められ、閻温の影は馬超の陣へと引き渡される。
天幕の内には、湿った土と馬の匂いがこもっていた。
閻温は縄をかけられたまま中央に立たされる。衣は冷たく肌に張り付き、髪からは水が落ちていた。
帷の奥には一人の将が坐していた。眼光鋭く、荒地を駆けてきた者の気がある。
「縛を解け」
馬超の一声で兵が縄を断ち切り、地に落とした。だが舎の内の気は、なお閻温を縛っている。
馬超が閻温を見下ろして言った。
「勝敗はすでに定まっておる。冀城は孤城、まわりはみな俺の旗下だ。お前はその城を救わんとして包囲を破り、ただ一手に捕らえられた。道義を振るう余地がどこにある」
少し歩をめぐらし、言葉を継ぐ。
「だが、まだ生きる道はあるぞ、閻温。もしお前が冀城に引き返し、城上の者に向かって東方からの救援はないと告げるならば、お前一人を殺すには及ばぬ。孤城を折れば、士と民を無益な死から救うことができよう」
閻温は黙ってその言葉を聞いた。城は囲まれ、兵も糧も尽きかけている。それを知った上で、冀城は今日まで矢を番え続けてきた。
「どうだ。お前の一声が、冀城の命運を決する」
馬超の眼には、自らの戦をひとつの理で貫こうとする気が宿っている。
閻温は口をひらいた。
「もし、その言に従い、城に戻って援軍はないと告げれば、わしの命を救うとお考えか」
「そうだ。俺の陣に身を寄せよとは言わぬ。ただ冀城の者に真を知らせよと言っておる」
閻温は目を伏せた。城門の前で見送った者たちの顔が浮かぶ。
「では、そのように」
閻温は顔を上げ、まっすぐに馬超を見た。
「冀城の前に立つこと、承知仕った」
その日のうちに、閻温は小さな車に乗せられ、冀城の前へと連れ出された。城壁の上には疲れた兵の影が並んでいる。
馬超の兵は槍を列ねて退き、閻温ひとりが城壁に向き直った。
「伯倹殿だ。耳を澄ませよ」
城上で誰かが叫んだ。石の上に、いくつもの顔が並ぶ。
閻温は胸いっぱいに息を吸い込んだ。
「聞け、冀城の者ども!」
声は空気を裂き、城と陣との間を走る。
「三日と経たぬうちに妙才殿の大軍が来る。倉を守れ、城を守れ、心折るな!」
沈んでいた城上から万歳の声が上がった。涙にかすむ視の中で、兵は弓と槍を握り直す。
呆気に取られていた馬超の兵は、我に返ると閻温の肩をつかみ、小さな車の上に押し戻した。
車輪が泥をはね、冀城の城壁が遠ざかってゆく。城の上にはまだ人の影が集まり、先ほどの声の余韻が残っているように見えた。石の上で弓を握り直す手を思えば、その一声の重さを閻温は知っている。
馬超は馬を並べ、しばらく黙って閻温の横顔を見ていた。
「閻温。お前は、自らの命というものを考えぬのか」
閻温は答えなかった。瞼の裏には、倉と門とを守る冀城の姿がある。そこに立つ者たちの顔は、すでに自らの命よりも重かった。上邽で守りきれなかった日々もまた、その重さの中に沈んでいる。
沈黙を車輪の音が埋めた。土の上を転がるその響きは、どこか鼓の音にも似ている。
やがて馬超は口をひらいた。
「冀城の中に、お前の旧知で、俺に与する者はおらぬか。門を開ける言を、ひそかに伝え得る者は」
閻温は首を横にも振らず、ただまっすぐ前を見ていた。遠くには、関中の山の稜がかすんでいる。
「答えぬか」
馬超の声がわずかに荒み、閻温はようやく顔を向ける。その眼差しには、疲れと共に確かな光があった。
「馬超よ。主君に仕えるということは、死しても二心を抱かぬということだ」
馬超の眉が動いた。
「それをお前は、年長の者の口から不義の言を吐かせようとしておる。わしは、生をいたずらに貪る男ではない」
馬超は黙り、手綱を握る拳に力をこめた。風が野を渡り、遠くで陣の旗が鳴る。顕親へ通じる道には、いくつもの足跡が混じり合い、今しがたまで続いていた旅路の痕が雨に滲んでいた。
やがて、馬超が命じる。
「この老いぼれを斬れ」
車は止まった。兵の足音が近づき、刃がひとすじ、曇り空の下に冷たく揺れる。閻温はひと息、冀城の方角に視をやった。厚い石垣の上に立つ人々の影を思い、唇を結ぶ。声をあげて命を乞う言葉は、ついにその口から漏れなかった。
その瞬間まで、閻温の背は曲がることがなかった。




