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06 苦守

 城の上を渡る風は、石と鉄の匂いを運んでいた。冀城の城壁には兵が並び、遠くには馬超軍の旗と塵の筋が見える。


 吏舎の庭には、この日、士大夫したいふの子弟が列をなしていた。衣の裾は正しく、手は筆に慣れているが、甲冑には不慣れである。冀城の家々から戦える者を出せとの命が下ると、彼らは門を出てこの場に集まってきた。


 「おおよそ千に届きましょう」


 楊謨が名簿の札を抱えたまま、小さく告げた。楊阜は一歩進み、庭を見渡す。


 「諸君。今この冀城は、漢陽でただひとつ、曹公の旗を掲げておる城である。門の内で身をすくめていては、この城も家も守れぬ。君子として筆を執る者こそ、まず身をもって義を示すべきときにある。……岳」


 静まり返った空気の中に、その声が落ちた。列の端から、一人が進み出る。


 「楊岳、ここにおります」


 顔立ちは若いが、眼の底には固い光がある。弟の声に、楊阜はうなずいた。


 「岳。そなたに、この隊の先を任せたい。城壁の上に偃月の陣を敷き、敵が寄せれば、その矢で迎えよ」

 「ご命令、承りました」


 楊岳は拱手し、頭を垂れる。楊阜は城壁へ続く石段を指さした。


 「まず城の上を見よ。矢の届く距離、敵が寄せる道にいたるまで、今日からは諸君の書物である」


 若者たちは荷を整え、楊岳の後について石段を上がっていった。


 城壁の上では、古くからの兵たちが持ち場を守っていた。書生の一団に眉をひそめる者もあったが、楊岳が名乗り出ると、黙って道をあける。


 「ここから北を弓の列で固めます。中央をわずかに引かせ、左右を張り出す形に」


 楊岳は矢櫓と胸壁を見比べ、指で空に弧を描いた。偃月の陣である。


 やがて城の上には、伏せた月のように弧を描く弓の列が形を取った。矢筒と石が並び、まだ手の皮も薄い指が、震えながら弦の張りを確かめている。


 少し離れて、その様子を楊阜が見守っていた。士大夫の子弟たちの肩に、初めて矢筒が載せられてゆく。筆と書しか知らなかった手が、弓と矢を覚えようとしている。


 「義山殿」


 背後から趙昂が階を上がってきた。


 「ここを守る形は、これでよいか」

 「今ある力をもっては、これが精一杯だろう。あとは、この息を乱さぬよう保つばかりよ」


 城壁の上に連なる若者たちの背が、光を受けて細く光った。いずれその幾つかは、ここで矢を受けて崩れ落ちるかもしれない。それでも、誰一人として退こうとはしない。


 その日、城下に初めて矢叫びが満ちた。馬超軍の先鋒が盾を前に押し立てて進み、盾の陰から弓を引く。城壁の上で楊岳が腕を上げると、偃月の弓の列が一斉にしなり、黒い矢が斜めに雨のように落ちた。


 矢は盾の縁を越え、兜と肩に突き立った。押し寄せる列の足並みがひと息乱れ、倒れた者の上にさらに兵がつまずく。初めて人の叫びを聞いた書生の手が震えたが、楊岳は背後を振り返らずに声を放った。


 「弦を離すな。手を止めれば、下にいる者が討たれる」


 声に押されるように、若者たちは再び弦を引いた。矢の先は次第に定まり、偃月の弧は城の上でひとつの息になってゆく。やがて馬超軍の先鋒は、矢を払いつつ距離を取り直し、鼓の音を残していったん退いた。


 だが、これで終わるはずもなく、翌日も、そのまた翌日も、敵は別の道から押し寄せてきた。梯子をかけ、火矢を放ち、ときに罵声で城上の心を揺さぶる。冀城はそのたびに偃月の陣を張り直し、矢と石とで迎えた。


 日が幾度も昇り沈むうちに、季節の気配が変わっていった。朝の風は湿り気を帯び、やがて雨の日が続く。城壁の石には苔がにじみ、矢楼の木はしめりを含んだ。雨脚の向こうにちらつく敵の旗は、濡れた布を重く垂らしながらも、決して消えることがない。


 城内の倉では、閻温が自ら戸を数えていた。簿の札は日に日に薄くなり、粟の山は目に見えて痩せていく。


 「一日おきに粥とするほかありますまい」


 そう告げると、趙昂が黙ってうなずいた。城門の守りも兵を交代させる余裕は少なく、やせた顔に無精髭を生やした兵が、槍に寄りかかって夜を明かすことも多くなっている。


 楊謨は、若者たちの名を記した札を胸に抱いて城内を巡った。負傷して寝台に伏す者、矢を番える指に血の滲んだ者、飢えに耐えかねて倉の前にうずくまる老若。誰も大声で嘆くことはなかったが、目の奥には疲れが濃く積もっている。


 月日は、風と雨とともに過ぎていった。春の雨は夏の熱に変わり、やがて夜の空気には冷えが混じり始める。城壁に立つ楊岳の頬は日に焼け、その眼は初めて弓を引いたころとは別の色を帯びていた。偃月の陣に並ぶ肩も、かつての書生ではない。かつては市で秤を握っていた者、田を耕していた者も、今は同じ列に立っている。


 楊阜は、その背を遠くから見守りながら、自らの胸の内に問うていた。義を掲げよと呼びかけたのは自分である。その言に応じた者たちの顔は、戦のたびに増え、また減っていった。倉の粥は薄くなり、城門の外にはなお敵の焚き火がちらついている。それでもまだ、誰一人として門を開こうとは言い出さなかった。


 冀城の石は、雨に打たれ、風にさらされながらも立ち続けている。その石の上に築いた人の心もまた、ひとつの城であった。


 いつしか、堂に集まった者たちの頬はこけ、几の上に並ぶのは倉の残りと矢の数を記した簿ばかりとなっていた。韋康はそれをひと通り見てから筆を置く。


 「これ以上、孤城にて持ちこたえるは難しかろう」

 「妙才殿は、今も涼州において馬超の残兵を掃いておられる。この窮状を知れば、兵を割いてくださろうやも知れぬ」


 韋康の言葉に、趙昂がうなずいた。


 「しかし、この包囲を破り、誰がその報を届けましょう」


 城を守ることで手一杯の今、外へ打って出る兵を多くは割けぬ。堂に視線が巡った。


一歩、閻温が進み出る。倉と城内を巡り続けたその顔にも疲れは濃いが、眼にはまだ火があった。


 「上邽で守りきれなんだこと、胸に刺さっております。もしやり直せる道があるなら、この命を用いるほかありますまい。妙才殿のもとへ走る役、喜んでお受けいたします」


 韋康は深くうなずく。


 「そなたに託そう。……義山」


 ついで楊阜に視線が向けられた。


 「書簡をしたためてくれ。州の名において救いを請う文は、そなたの筆でなければならぬ」


 楊阜はうなずき、几の前に進んだ。救いを乞う文であっても、節を折る文にはしてはならぬ。冀城がいかに持ちこたえてきたかを述べ、そのうえで援けを請うべきだと考えた。


 『冀城、八か月闘うも、兵糧すでに乏しい。然れど州牧・吏民、曹公に背くことなし。願わくは兵を割きて関中の根を救われよ。』


 筆をととのえ、封泥を押して閻温の前に差し出す。


 「伯倹殿、この文は冀城の命を託すものです」


 閻温は書簡を両手で受け取った。


 「命を惜しむ心は、とっくに上邽に置いてまいりました。もし辿り着けずとも、この歩みが冀城の義を示す一筆となれば、それで十分にございます」


 出立は夜明け前と定められた。長く閉ざされてきた城門は、闇の中でわずかにひらく。その前に、いくつかの影が立っていた。


 楊阜、趙昂、楊謨、楊岳。冀城を支えてきた者たちである。


 「門の内は任せよ。ここを守り切ってみせる」


 楊岳が言い、弓を握った拳を胸に当てた。


 「頼もしきことです」


 閻温は微かに笑みを浮かべる。


 「妙才殿の兵がこの城を囲む敵を破る日が来たなら、冀城の石が今日まで倒れなんだことを、共に笑ってくだされ」


 楊阜は、それにうなずいた。


 「冀城は、必ず持ちこたえます」


 城門が軋む音を立ててひらき、冷たい夜気が流れ込んだ。閻温は背筋を伸ばし、その闇の中へと歩み出ていく。鎧の継ぎ目が小さく鳴り、やがてその音も闇に呑まれた。


 扉がふたたび閉じられると、城は籠城の姿に戻った。閻温の足跡が、見えぬところで冀城と夏侯淵とを結ぶ橋となる。その思いが、城を内側から支えていた。



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