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05 包囲

 冀の吏舎には、冬の光がさしていた。堂には几が並び、吏たちは簿を前に筆を運んでいる。戸口の帷が揺れるたび、冷気が忍び込んだ。


 諸将は各々の席に坐し、楊阜が持ち帰った潼関方面の報を記した巻を広げていた。潼関の戦いにおいて曹操が大いに勝ち、馬超・韓遂の軍が敗れて西へ奔ったとある。字の一つ一つを追いながら、胸の底にたまっていた息をひとつ吐いた。


 「これで、関中はひとまず静まろう」


 州牧・韋康が几の向こうで言い、隣に坐る趙昂もうなずいた。冀城は西方を見張る要である。潼関の勝報は、この城にとっても他人事ではなかった。


 だが、静けさは長くは続かなかった。ほどなくして、諸県から届く文の色が変わり始めたのである。漢陽の地にあって、冀城を除く多くの県が、次々と馬超に呼応したと報じてきた。


 「敗れたとはいえ、馬超の名は、なお重いということか」


 楊阜は書簡を伏せ、胸の内でつぶやいた。かつて羌胡を討った旗の記憶が、いまは主に弓を引いた将の名を押し上げている。城の外の風向きが、わずかに変わる気がした。


 そのとき、堂の外がにわかに騒がしくなった。履の音が石を打ち、守門の兵の声が重なる。吏のひとりが駆け込み、几の前にひざまずいた。


 「州牧殿、涼州別駕・閻伯倹殿が到着されました。上邽よりの由にございます」


 韋康が顔を上げた。楊阜の胸に、いやな予感が走る。ほどなくして、土の色を帯びた衣の男が堂に入ってきた。閻温である。長途の疲れを隠して拱手したが、その眼には眠らぬ夜の影が沈んでいた。


 「伯倹殿、上邽はいかがした」


 韋康の問いに、閻温は短く息を継ぐ。


 「潼関敗走ののち、馬超はこの地をさして西へ向かいました。わしは郡中の長を集め、これを拒もうといたしましたが……民心はすでに馬超に傾いておりました」


 言葉を選ぶように口を閉じ、しばしの沈黙ののち、低く告げた。


 「上邽は、ついに門を開き、馬超を迎え入れました」


 堂の空気が重くなる。吏たちの筆が止まり、遠くで風が帷を鳴らす音が聞こえた。


 楊阜は閻温の顔を見つめた。かつて共に政を論じた男の眼には、自らの力で民心を引きとどめられなかった悔いが、深く刻まれている。


 「冀城を除けば、漢陽の諸県はおおかた馬超に従っています。いずれこの城も、矛先を向けられましょう」


 閻温の言に、韋康はうなずいた。楊阜は胸の内で、冀城の二字をかみしめる。馬超に呼応する者が大半の中、冀城はまだ曹操の旗を掲げていた。その意味の重さが、雪解け前の土のように、じわじわと足もとにしみ込んでくる。


 堂の空気はいつの間にか重さを増していた。韋康は坐し、左右に列をなす諸郡の太守と属吏を見渡した。几の上には、潼関の勝報と並んで、諸県の背きを伝える報が積まれている。


 「上邽までが門を開いたとなれば、冀の外はみな、馬超の勢に帰したも同然か」


 韋康の言葉に、列の一角からため息が漏れた。


 「韓遂の旧地も、おおかたは呼応したと聞きまする。関中の軍を破られたとはいえ、あの者の旗のもとに集まる者は、なお尽きぬのでしょう」


 そう言ったのは、隴上の一郡を預かる太守である。声は低く、しかし怯えを隠しきれていない。


 「伯倹、郷の有様を、もう少し詳しく語ってくれ」


 韋康が促すと、閻温は口を開いた。


 「潼関敗走の報が届いたのち、上邽の市には、たちまち噂が満ちました。馬超はまだ生きている、潼関で曹公と戦い抜いた、と。かつて胡を退けた旗の名が、再び口に上り始めたのです」


 閻温の声には、自ら聞き知った民の言葉が滲んでいる。


 「私は郷の長たちを集め、曹公に弓を引く逆であることを説きました。だが、彼らは答えました。飢えた年に粟を配ったのは誰か。胡が牛馬を奪いに来た折、先に駆けつけたのはどの旗か、と。理ではなく、胸に残るものが彼らを動かしておりました」


 堂のあちこちで、思わず身じろぎする気配がした。楊阜は黙ってそれを聞いている。涼州の民が馬家に寄せる情を、彼も知らぬわけではない。


 「伯倹殿は、なお門を閉ざすべしと主張したのだな」


 趙昂が確かめると、閻温はうなずいた。


 「はい。しかし、任養らは言いました。今この折に馬超を拒めば、郷の者は誰を頼ればよいのか、と。ついには城の内と外の声がひとつになり、軍をもって押しとどめることは出来ませなんだ。別駕としての力及ばず、面目もございませぬ」


 その言葉に、堂の中の視線がいくつか揺れた。誰もが心のどこかで、同じ問いを抱いているのである。乱の世にあって、誰を頼み、どこに身を寄せるべきかと。


 楊阜は、膝の上で指を組んだ。心の波立ちを押さえ込み、言を選ぶ。


 「いま、漢陽において、曹公の旗を掲げている城は、ここ冀城ただ一つと見てよいのでしょうか」


 問いに、閻温がうなずいた。


 「そのように存じます。馬超は勢いを盛り返し、隴上の諸郡はほとんどその下風に入りました。冀を落とせば、この一帯はまるごと手に入る。そう読んでおりましょう」


 韋康は、しばし視線を落とす。州を預かるものとして、守るべきものの重さを思った。


 「州牧殿」


 楊阜が口を開く。


 「世の人が馬超を英雄と呼ぶことは、否めませぬ。涼州のために矛を取った昔の働きも、事実でありましょう。だが今、その刃は主に向けられております。ここで門を開けば、我らは曹公を欺き、州を裏切ることになります」


 堂の空気が、わずかに張り詰めた。


 「冀を預かる者が、初めに節を折ってはなりませぬ。たとえ一城となろうとも、州としての義を示さねば、この先どの面下げて主の前に出られましょうか」


 楊阜の声は大きくはないが、一語ごとに重みがあった。趙昂がその横顔を見やり、小さくうなずく。


 「しかし、兵の数は限られております。糧も潤沢とは言えませぬ。馬超は敗れたとはいえ、いずれ軍をまとめて押し寄せてこよう。冀城ひとつで、どこまで持ちこたえられるやら」


 先ほどの太守が、おずおずと口を開いた。その言葉は誰もが胸の内で計っていたことでもある。

 楊阜は、その不安を否定はしなかった。


 「勝てる戦か否かを量れば、荷は重いでしょう。ですが、ここで節を折れば、この先、どれほど軍を集めても、誰も我らを信じませぬ。乱の世にあって、人が寄るのは城ではなく、その城を守る者の心です」


 言いながら、自らの胸にもその言を刻む。自分がいま選ぼうとしているのは、利ではなく、後の世に向けて残すべき筋であると。


 韋康は顔を上げた。長い沈黙ののち、決意を固めた眼が、堂の隅々を見渡す。


 「冀は、州の城である。ここで曹公に背けば、涼州は根を失う。義山の言を容れよう。この城は籠城して守る」


 その一言に、堂の空気が大きく動いた。安堵とも恐れともつかぬ気配が交じり合い、やがて武官の列から低い応じの声が上がる。


 「城門を固く閉じよ。兵をもって四方の守りを改め、倉の粟と矢の数を改めさせよ。諸郡太守はそれぞれ城内の民を撫し、恐れを静めることに心を配れ」


 韋康の命が、吏の筆によって素早く書き記されていった。楊阜は頭を下げながら、その声を聞いていた。冀城は、いましがた退く道を閉ざしたのである。


 閻温が、列の中から一歩進み出た。


 「わしも、ここにとどまり、お側にて微力を尽くしたく存じます。上邽で守りきれなかった分まで、この城で償わせていただきたい」


 韋康はうなずき、楊阜と目を合わせる。


 「義山、そなたも冀の城を託す一人だ。よいか」


 楊阜は深く拱した。


 「もとより、そのつもりにございます。この城があるかぎり、義はここに立つと、人々に知らしめとう存じます」


 その誓いは、冀城の石のように固く、自らの退路をも断つものであった。外ではまだ、冬の風が城壁をなでているだけである。だが楊阜には、遠い土煙が、すでに目に見えるような気がしていた。


 数日ののち、冀城の上には、いつもと違う土の匂いが混じり始めた。城壁に上った楊阜は、遠くの地平に眼を凝らした。黄土の丘と谷のあいだから、細い塵の筋がいくつも立ちのぼっている。


 「馬超の軍か」


 傍らで楊謨がつぶやいた。若い顔に張り詰めた色が宿っている。楊岳もまた、弓を抱えてその後ろに立った。冀城の西には、旗の列がゆっくりと姿を現しつつあった。馬家の竿に、新たな布がかけられ、風を受けてはためいている。


 馬超は、およそ一万の兵を率いていた。潰走した兵を集め、涼州諸郡から呼応した者を加えた軍である。騎が先に立ち、歩兵が列を成し、鼓の音が谷にこだました。旗の色は寄せ集めでありながら、その向かう先はただ冀城ひとつであった。


 「漢陽のほとんどがあの中にございますれば、あれはこの地の民の影でもありましょう」


 楊謨の言に、楊阜は短くうなずいた。敵として城を囲もうとする者の中に、かつて同じ畝を踏んだ者、同じ市で粟を買った者の姿が重なる思いがした。だがいまは、それを見分ける暇もない。


 城下の細道には、すでに不安の声が満ちていた。子を抱きかかえる女、荷をまとめて門の方をうかがう老人。だが軍の歩みは乱れず、武卒たちは指示に従って持ち場についた。趙昂は城門の守りを改め、閻温は倉の鍵を預かりながら、楊阜とともに城中を巡る。


 「義山殿、南の丘にも旗が見えます」


 城の東寄りの櫓から、兵が声を上げた。楊阜がそちらに目を向けると、漢中の方角から、別の塵の帯が押し寄せてきている。先頭の旗には、見慣れぬ字が黒く踊っていた。


 「張魯ちょうろが人を出したと聞いておりましたが、あれがそうか」


 閻温が低く言った。


 「名は楊昂ようこうと申すとか。……あれもまた楊氏か」


 楊謨が苦笑に似た息をもらす。楊阜は眼を細めた。同じ姓を持ちながら、いまは冀城の内と外とに分かれている。張魯の兵は南の丘を押さえ、馬超の軍と呼応するように陣を敷いた。冀城は、西と南から挟まれる形となったのである。


 日が傾くにつれ、敵の旗は数を増し、城を取り巻く輪は締まりを帯びていった。渭水へ通じる道も、黄土の坂も、いつの間にか異郷の兵の足に踏み固められている。


 「いよいよ始まりますね」


 楊岳が弓弦を指でなぞりながら言った。声は若くとも、眼には覚悟がある。楊阜は弟の肩にそっと手を置いた。


 「ここを守り切れば、涼州にはまだ義が残る。思いをひとつにして、矢を放てばよい」


 冀城の石は、夕陽を受けて赤く染まり始めていた。やがて、城の中央から角笛の音が上がる。長く、低い音が、城内と城外とに流れた。


 「敵影、四方に満つ」


 伝令の声が、城壁を駆けた。その言葉とともに、冀城の籠城は始まりを告げた。


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