04 失守
上邽の吏舎には、朝の光が静かに差していた。堂には几と案が並び、吏たちは席に散って筆を走らせている。戸口の方からは里の者の履の音が絶えなかった。
閻温は奥に坐し、戸口の簿と田租の報を改めていた。涼州の別駕として州の政を預かり、この上邽では県令の務めを代行している。
筆を置き、潼関の方角に目をやった。曹操が関中の諸軍を討つべく兵を進め、馬超がそれに弓を引いたことは、すでに涼州中に知れ渡っている。
馬騰の一族の多くは鄴にあった。西涼の騎を率いた家の血筋が都のもとに集められている上は、子が主に刃を向けたのち、父兄にいかなる咎が及ぶかは明らかである。
馬超が兵を挙げたと聞いたときから、閻温はこの逆がただの一戦では済まぬと見ていた。戦に出れば、その身ばかりか、一族もまた罪の網に巻き込まれよう。
愚かと言うほかはない。
胸の内でそう吐き捨てると、閻温は札を改め、潼関以西の情勢を書き留めた。馬超の旗は涼州の民に名を知られている。その名が再び地を騒がすことを思えば、筆先は重くなった。
戸口の方で、足音が急に高くなった。伝吏のひとりが胸の前に巻を抱え、塵をかぶったまま堂に駆け込んでくる。
「伯倹殿、潼関より急報にございます」
吏たちの視線が一斉にそちらへ向かった。閻温は立ち上がり、書簡を受け取って封を割る。泥を裂く乾いた音が小さく響いた。
『潼関の戦い、曹公大いに勝つ。馬超・韓遂の軍破れ、旗を捨てて西へ奔る。』
敗軍の行き先は定かならずと結ばれているが、その言葉の裏に広がる地の形は、閻温の心にははっきりと描かれていた。
潼関から西へ逃れれば、まずは涼州の地を求めるほかあるまい。馬超はこの一帯で名を上げた将である。市井には今も、馬超は剛直にして勇、と語る声が残っていた。
「上邽に入るつもりか」
低くもらした声は、誰に聞かせるでもない。兵を失いながらも名を持つ者が近くをさまよえば、人の心は動く。
堂の外から、市のざわめきがかすかに流れ込んできた。閻温には、その底にまだ言葉にならぬ期待と不安が混じり始めているように思われた。
閻温は書簡を巻き、几の上に静かに置いた。涼州の諸郡は曹操に属し、逆を犯した者を匿う道理はない。馬超がこの地に現れるなら、門を閉ざし、兵をもってこれを拒まねばならぬ。
「まず、郡中の意を確かめねばなるまい」
閻温は吏に命じて郷の長たちを呼び集める支度をさせた。潼関の塵はまだ遠い。だが、その影はすでに上邽の城壁に届こうとしている。静かな堂の空気の中で、閻温はひそかに身構えた。
郡中の長たちを集めると、堂の空気は先ほどとは違っていた。潼関敗戦の報はすでに広まり、誰の顔にも落ち着かぬ影が差している。
「孟起殿が生きて西へ退いたと聞きました」
最前列に坐る任養が口を開いた。
「かつて羌胡の乱が起こった折も、馬家の軍がこの一帯を守りました。涼州の民のため幾度も矛を取りました。その恩を忘れよと仰せですか」
閻温はその言を静かに受け止める。涼州の人々が馬家に寄せる情は知っていた。だが今や、馬超は曹操に弓を引いた逆臣である。
「恩を語るは易い。だが、今は曹公を主と仰ぎ、州も郡もその令を受けておる。馬超を迎えれば曹公を欺くことになる。第一、寿成殿の一族は鄴に在る。馬超が乱を起こした以上、その身にいかなる咎が及ぶか、諸君とて分からぬはずはあるまい」
列のあちこちでざわめきが起こった。任養は眉をひそめたが、すぐに首を横に振る。
「それでも、あのお方はこの地の者の目には英雄に映ります。家を焼かれた時も、胡が牛馬を掠めていった時も、先に駆けつけたのは馬家の旗でした。いま逆境にある時に見捨てれば、涼州の義はどこに立つのでしょう」
義という一語が堂の中に重く落ちた。閻温は胸の内で息を詰める。
「義を語るなら、まず主君への義を忘れてはならぬ。曹公は乱を鎮め、この地に戸と税の道を敷かれた。馬超を匿えば、そのすべてを失いかねぬのだ」
だが堂に集まった者たちの眼には、別の火が宿りはじめている。
「伯倹殿。理はその通りでしょう。ですが、民の心はすでに決まりつつあります」
任養は一歩進み出て、閻温を見上げた。
「潼関で奮戦したと聞けば、人々は口々に馬将軍はまだ死んでおらぬ、と申しております。もし上邽の外にその姿を見せられれば、門を閉ざすことは出来ますまい」
それは脅しではない。郷里の者の心を掴んでいる者の、率直な言である。閻温は沈黙した。
久しく涼州は戦と飢えに晒されてきた。人々は、剣と旗を掲げて自らを守る者を頼みとしている。その記憶が、今また民の胸を熱くしていた。
「州の命に背けば、後の禍は免れぬぞ」
ようやく絞り出した閻温の声には、自らへの戒めも混じっていた。
「その時は、その時です。まずはこの地を守らねばなりません」
任養の答えは短い。堂の空気が、閻温からわずかに離れてゆく。理と命とをいかに重ねて説いても、民の胸にあるものを消すことは出来ぬ。
会議を解いたのち、閻温は吏舎の裏庭に出た。
「止められぬ、か」
口に出した言葉は土に吸われるように低く消える。
やがて、城下には熱のこもった噂が満ち始めた。遠くの村に馬家の騎が通ったという話、潼関から落ち延びた将が近くにいるという話がささやれる。
閻温はその流れを感じながら、胸の内でひとつの覚悟を固めつつあった。民心がそこまで傾くなら、もはや一県の力で押しとどめることは出来ぬ。自らは州へ戻り、このことを冀の吏舎に報じるほかないと。
数日ののち、閻温は上邽の城門を出た。従う吏と兵はわずかである。城内の空気は変わり、道の両側には、馬超が来る、と口にする者の声が混じっていた。
冀城への道は、黄土の丘と谷とを縫って続いている。閻温は馬上から、一度だけ振り返った。上邽の城壁の上には、人影が集まっているのが見えた。誰かが遠くを指さし、歓声に似たざわめきが風に乗って届く。
やがて、任養の名とともに、馬超を迎え入れようとしているとの報が、背後から伝わってきた。閻温はそれ以上確かめようとしなかった。もはや上邽の吏舎に身を置く者ではない。涼州の別駕として、冀の城に事の次第を報じるほかない。
歩を進めるごとに、閻温の胸には、重いものが幾重にも積もっていった。自らは止めよと命じたが、民は別の主を選んだ。その選びそのものを、むやみに責めることは出来ぬ。飢えと乱の中で、剣を掲げる旗にすがる心を、誰よりも知っているからである。
馬騰の一族が鄴に集められていることを思えば、その先に待つものは推し量るに難くない。閻温は胸の内で、その名を静かに念じた。涼州の地で馬家の旗を仰いできた者として、この逆がいかなる結末を招くかを思わぬ日は無かった。
「上に背き、下を惑わせた咎は、ついにここへ及ぶか」
声に出した言は、荒れた道の上に落ちた。悔いは重い。だが、悔いるだけでは務めを果たしたことにはならぬ。誰かがその有り様を見定め、後の策を立てねばならない。
閻温は手綱を握り直した。冀城には、韋康と楊阜がいる。彼らは州を支える柱であり、また友でもあった。上邽の成り行きを告げれば、必ずや共に策を講じるであろう。己ひとりの瑕に終わらせず、州としての答えを見出さねばならぬ。
いかに遅くとも、この身が冀の吏舎にたどり着くまでには、上邽はすでに新たな主を迎えているに違いない。涼州の風向きは変わりつつある。
そのころ冀城では、まだ潼関の勝報を語り、次に備える算段ばかりが口にされていた。上邽の門が誰のために開かれつつあるのかを知る者は、まだごくわずかであった。




