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03 予見

 潼関どうかんの地をめぐる戦は、すでにひと渡りを終えていた。関の東西には折れた槍と車の輪が散り、黄土の斜面には、急ぎ埋められた塚がいくつも小さな影を落としている。渭水いすいの流れだけが昔のままに谷を抜け、戦の跡をなぞるように静かに光っていた。


 曹操そうそうの旗は、その水をさかのぼるように渭南へ移っていた。韓遂かんすい馬超ばちょうら関西の諸将はここで大いに破れ、陣は崩れ、旗は乱れて西へと逃れる。追撃の軍は谷を渡り、丘を越え、逃げ散る兵の影を幾度も踏んだが、馬超その人の姿だけは、ついに矢先に捉えられなかった。


 馬超が退いた先は、西方の地である。きょうていの居る山河は険しく、古くより辺境の民が頼りにする大姓の名は、そのまま小さな国の主の名にも等しい。韓遂・馬騰ばとうらがこの地で兵を興したのも、そうした風土の上でのことであった。いま、その若き子が敗れながらも生き残り、渭の西へと影を残したのである。


 安定まで進んだ曹操の軍は、なお西へと目を向けていた。軍営の中には、戦の気が残っている。潼関を破り、渭南で勝ち、関中の形をひとまず己が手に収めたとはいえ、敵の旗の一つが山の向こうで翻っているかぎり、勝利の味は濁っていた。


 楊阜は、涼州の使者としてその陣営の片隅にいた。涼州の出である彼の眼には、ここからさらに西へ続く道の形が見えている。隴上の郡々、羌族の部落、川と谷とを隔てて点々と連なる小城の名。それらがひとつところにまとまれば、たやすく数万の兵に膨れ上がることを知っている。


 渭のほとりには、勝利を言祝ぐ声とともに、別の声も静かに交じり始めていた。東方から伝わる報に、河間で蘇伯そはくらが旗を挙げたとある。河北の地はまだ静まりきらず、曹操のもとには、東と西と二つながら火の色が伝わってきていた。


 いずれか一方を先に鎮めねばならぬ。だが、大軍が常に二つの方角へ向かうことはできない。楊阜は日ごとに移る軍議の話の端々を聞きながら、主君の算盤がどちらへ傾くかを量っていた。これから起こるものは、勝ったのちにどう国を保つかという別の戦である。


 馬超の名は、もとよりこの地に浅くはない。かつてその父・馬騰の麾下として涼州の兵を率い、胡漢こかんの入り混じる野を駆けたとき、その矛先を知る者はみな、若き将の鋭さに舌を巻いた。いま敗れて山中に潜んだと聞いても、楊阜の胸には、むしろそこから先にあるべき形が見えていた。敗軍の将として散るか、あるいは、辺境の民の心を束ね、別の旗を掲げるか。そのいずれをも選びうる男であると。


 その日、陣の中央に張られた幕には、人の出入りが絶えなかった。渭南での勝利を伝える報が諸方へ走り、将たちが次々に呼ばれては、これからの軍の向きを問われている。


 楊阜はその日の末に呼ばれた。帷の内に入ると、几の前には曹操が坐していた。甲を脱いだとはいえ、肩に疲れの影は深く、その眼だけが鋭く光っている。左右には近臣が控え、地図と巻が几の上に重なっていた。


 「義山殿は涼州の士。関の西のことには明るかろう」


 促されて前に進むと、楊阜は拱手し、静かに顔を上げた。視の端に映るのは、渭の西へ延びる山河を記した図である。線の上には、隴上の郡々の名が小さく刻まれていた。


 「韓遂・馬超の軍は大いに破れましたが、馬超はまだ尽きておらぬと考えます」


 曹操の眉が、わずかに動く。楊阜は言を継いだ。


 「馬超は、かつて寿成殿の旗下で胡漢の兵を率い、その矛は幾度も辺境の地を駆け巡りました。その武勇は、韓信かんしん黥布げいふにも比すべきものがございます。いま渭の西に退いたといえども、羌や氐の心をはなはだ掴んでおり、西方の州はみなこれを畏れております」


 帷の内に静けさが落ちる。曹操は図に目を落とし、隴上としるされた一帯を指先でなぞった。


 「では、どう見る」

 「もし大軍がこのまま東へ帰還いたしますならば、隴上の諸郡は国家のものではなくなりましょう。馬超は、父兄を鄴に残して反いた男にございます。すでに帰るべきところを捨てた者が、なお身一つであればこそ、命の惜しみも薄くなりましょう。そうした者が、羌族の力を借りて再び兵を挙げれば、その鋒は渭より西一帯を焼き尽くすおそれがございます」


 曹操は黙してその言を聞いていた。勝利ののちに語られるのは、多くは凱旋の道である。だが涼州の士は、その先にある禍を口にしている。


 「東にも火があり、西にも火がある」


 低くつぶやくと、曹操はひと息を吐いた。


 「義山の言、もっともである。だが、河北を鎮めずして天下の形は定まらぬ。兵を二つに割く余裕も今はない」


 楊阜は頭を垂れた。使者の身である自分は、ただ見えたところを言上することしかできぬ。だが、それを述べねば、後に起こるものまで己の沈黙の罪とならぬとも限らないと感じていた。


 「願わくは、大軍をお引き揚げなさるとも、西方の備えだけは厳重に整えさせられませ。隴上の諸郡に兵を割き、羌族の動きを常にうかがわせるべきに存じます」


 曹操がうなずく。


 「よし。文に改めて出せ。妙才らにも、西方のことを忘れぬよう申しておこう」


 その言葉を聞いたとき、楊阜はひとまず胸の石が軽くなるのを覚えた。だが軍営の外からは、すでに東へ向かう支度の音が聞こえ始めている。


 翌る日より、軍の動きはいよいよ慌ただしくなった。旗は東に向かって並べられ、車は荷をまとめ、馬のいななきと兵の号令が渭の岸に重なった。軍営を囲んでいた柵は順々に倒され、残る焚き火の跡だけが、ここに一時の大軍があったことを示している。


 楊阜は、使者の一行とともに陣の外に立ち、整えられてゆく列を見つめていた。几の上で交わされた言葉は、まだ耳に新しい。夏侯淵かこうえんに西方を頼むとの言は、確かに曹操の口から出ている。しかし、その備えを細かに取り決める暇は、誰にも与えられていないように見えた。


 文に記す吏たちは、次々に札を書いては印を押し、各郡に送る支度をしている。だが、その多くは河間の乱を鎮めるためのものであった。西への備えを命ずる文も、数の上では決して多くはない。割かれた兵もまた、潼関の戦いを経験した精鋭というより、各所から寄せ集めた者が目についた。


 渭の流れは、変わらず西から東へと下っていた。その水の先に広がる山と谷の形を思い浮かべ、楊阜の胸には重いものが沈む。隴上の諸郡は、いったん火が入れば、たやすく鎮まる地ではない。ましてや、羌族の心を掴んだ馬超が山中にいるとすれば、その一挙一動が人心を揺らす。


 やがて鼓が鳴り、列が動き出した。旗の色はゆっくりと渭の岸を離れ、車輪の跡が土に深く刻まれる。楊阜もまた、与えられた馬に乗り、使者の列の中に身を置いた。振り返れば、安定の方角には、まだ冬枯れの山が幾重にも重なっている。その向こうに潜む名を思うとき、胸の底で小さな痛みがひとつ、静かに伸びた。


 馬騰の一族が鄴に移されたとき、多くの者はこの家が新たな秩序に従ったものと見た。だが、その子がいまこうして西で旗を掲げている。楊阜は、馬超の父や兄弟の顔を思い起こすことをあえて避けた。思えば思うほど、この乱が一人の若者の気性だけで起こったものではなく、涼州の地に積もった幾年もの澱が、ようやく表にあふれ出たもののように思われるからである。


 渭の水音が遠くなっていく。東へ向かう列の前には、河間の乱を鎮めるべき道が続いていた。だが楊阜の心の一隅には、なお西方の山河が広がっている。あの地で再び火が上がるとき、今日ここで口にした言のことを、誰かが思い出すであろうかと。



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