02 登用
筆の音が几の上を細く走っていた。墨は黒く光り、竹に静かに沁みてゆく。楊阜は最後の一行を書き終えると、筆を置いて書簡を巻いた。それは安定郡長史の職を辞したいと願い出る文であった。
書簡を両の手に載せ、しばし視を落とす。任を賜ってから、まだ幾季も過ぎてはいない。だが簿と印のあいだで見たものは多く、ひとつの文で改まるほど政は軽くはないと知った。
戸口の方で履の音がして、控えの吏が顔をのぞかせる。
「義山殿、刺史がお見えです」
楊阜が立ち上がると、廊の方から人の影が近づいてきた。姿を現したのは父・韋端の後を継ぎ涼州刺史となった韋康である。
「長史を辞すると決めたと聞いた。自ら退こうという者の顔を、この目で見ておきたくなってな」
冗談めかした言に、楊阜は拱して礼をとった。
「身の器に過ぎた任と知りました。帳の上で道を立てようとすればするほど、城のあちこちに綻びが出てまいります」
韋康は室内を見回し、几の上の書簡を手に取る。封はまだされていない。文頭に軽く目を通し、すぐに巻き直す。
「道を立てようとしたからこそ、綻びが見えたのだ。見ようとせぬ者には、何も見えぬ」
彼は書簡を袖に納めた。
「この文は預かろう。だが、これでおぬしと政の縁が絶たれると思うてはならぬ」
楊阜は、静かに首をかしげる。
「涼州の政は、いまようやく形を成し始めたところだ。関の東の風が荒れれば、真っ先に揺れるのはこの西であろう。そういう時こそ、筋をもって事を見る目が要る」
韋康は袖の内から一巻の書簡を取り出した。封泥の赤が新しい。
「これは、おぬしを別駕従事とする文だ。長史は辞してもよい。だが、私の側から離れてもらうわけにはいかぬ」
言葉は柔らかいが、その奥には退かぬ意志が見える。
楊阜は書簡を受け取り、印の箇所に目を落とした。墨の線は迷いなく、韋康の名がくっきりと記されている。
「私のような者を、なぜそこまでお引き立てくださるのか」
問いというより、自らを量る響きであった。
「都で見てきたものを忘れぬからだ」
韋康は、ふと笑みを浮かべる。
「あの夜、袁と曹、どちらの旗が天下を定めるかと問うたとき、義山は迷わずに答えた。評は厳しかったが、その裏に郷里を流れに任せたくない思いが見えた」
室の中に、短い沈黙が落ちた。外では、まだ冷たい風が敷石の上を渡っている。
「承りましょう」
やがて楊阜はうなずいた。
「長史の職は辞しますが、別駕として、州のために筆を執ります」
韋康は深く息をつく。
「これでようやく、冀の政に骨が通る」
こうして楊阜は、新たに別駕として刺史の側に立つこととなった。簿と書簡は変わらぬようでも、その一行一行に込める思いは、これまでとは違っている。
日々の務めは、静かに積み重なっていった。楊阜は別駕として刺史の側にあり、城中の文と人の出入りを見守る。郡から上がる帳は幾巻にもなり、兵と穀と戸口の数字が、涼州の形を細かく映していた。
その日の午の刻、冀城の官舎に一人の使いが駆け込む。衣の裾に塵を帯び、懐には帛に包まれた書簡を抱えていた。
「義山殿に、急ぎの文にございます」
差し出された巻には、中央の印が押されている。楊阜は封を割り、静かに行を追った。
『楊義山を孝廉に挙げ、丞相府に召す。』
短い文であったが、その一語一語は重かった。筆致の整い方からして、形ばかりの礼ではないと知れる。楊阜は書簡を巻き、しばし手の中に留めた。
「刺史にお目通りを願いたい」
そう告げて、彼はその足で急ぎ韋康のもとへ向かう。
案内の吏が戸を開き、楊阜は几の前に進み出た。韋康は、ちょうど別の文に目を通していたところである。顔を上げ、楊阜の手にある巻に気づくと、目の色がわずかに変わった。
「中央からか」
「はい。孝廉に挙げられ、丞相府に召されました」
楊阜は書簡をさし出した。韋康は受け取り、黙って読み下す。
「中央にも義山に目をつけた者がいたか」
そう言って、韋康は静かに笑った。誇る色は見せぬが、胸の底に湧き上がるものを押さえているようであった。
「義山。行く気はあるか」
問いは短い。楊阜は少しだけ視線を落とし、すぐに顔を上げる。
「召しに応ずるは臣の道にございます」
それは礼の上での答えであった。だが胸の内では、涼州の山河と冀の城を渡る風のことが浮かんでいる。関の東の旗がどう動こうとも、この西には兵の足音が残る。そこから目を離してよいものかと、自らに問うていた。
韋康は、その迷いを言葉にせずとも感じ取っている。
「都に上れば、見るものは多かろう。おぬしほどの才を、中央が放ってはおくはずもない」
声には、押しとどめる響きよりも、先を祝う気配があった。楊阜の胸には、かえってそのことが重く響く。
「まずは、みなにもこのことを伝えねばならぬ」
韋康は書簡を几の上に置いた。
「義山の去就は、涼州全体のこととして考えねばならぬ。冀、ひと城の話では済むまい」
楊阜は深く頭を下げ、静かに室を去る。廊を出ると、敷石に射す光が傾きかけていた。遠くに、城の上を渡る鳥の影が見える。
都へ向かう道と、この城に留まる道。その二つが、まだ言葉にならぬまま楊阜の胸の内で向かい合っていた。
数日のうちに、中央への返書が整えられた。涼州の簿とともに、冀での政の有様が詳しく記されている。その末尾には、ひときわ力のこもった行があった。
『別駕従事楊阜、才識並びなく、辺州の柱石たるべし。願わくは、しばらく州に留め置き、参軍として軍政に預からしめよ。』
文を起草したのは韋康であり、趙昂や尹奉など、多くの士もそれに署名していた。印が重ねて押された書簡は、関の東へと送られていく。冀の城を発つ早馬の蹄の音は、まだ朝靄の残る街路に長く響いた。
幾日か経って、都からの詔が戻ってきた。朝の光が官舎の庭に差し込むころ、伝吏が封泥の新しい巻を抱えて走り込んでくる。
「刺史に、中央からの詔にございます」
韋康は几の前で封をひらいた。文は簡略であったが、要はただ一つであった。涼州の請いを容れ、楊阜を参軍に任ずるというのである。文字の筋には、辺州の声を尊ぶという、わずかながらの意が読み取れた。
その知らせは、まもなく楊阜にも伝えられた。冀城の一隅にある小さな庭で、彼は新たな任を告げられたのである。まだ雪の名残が石の目に白く残り、庭木の枝には新しい芽が小さく顔をのぞかせていた。
「義山。おぬしは都に行かず、この州に残ることとなった」
韋康は、いつもの穏やかな声でそう告げる。
「参軍として、これまで以上に軍と政のことに関わってもらう。中央が召した者を留め置くゆえ、涼州のためにも、よく筆と身を尽くさねばならぬ」
楊阜は静かに拱した。
「承知いたしました。郷里の土を離れずに務めを果たせるなら、これ以上のことはございません」
彼の眼には、涼州の山が浮かんでいた。荒れた畝と、風に晒された城壁と、そこに身を寄せる人々の姿である。官舎の薄い壁一枚を隔てて、飢えをしのぐ家々の灯がいくつもまたたいている光景が、まざまざと胸に立ちのぼった。
「この地の行く末を測り切るには、まだ時が要りましょう」
言葉は淡いが、その底にはここから逃げずに見届けようとする静かな意志があった。
こうして楊阜は、丞相府への召しを辞して涼州に残り、参軍として刺史の側に立つこととなった。関の東で旗が動くたびに、その影はこの西にも差してくるであろう。そのとき、自らの筆をどこに置くべきかを量る務めが、彼の肩に静かに載せられている。




