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01 帰郷

 の城の一隅にある堂に、灯がともりはじめていた。卓の上には素朴な肴と酒が並び、湯気と笑い声がゆるやかに立ちのぼっている。格子の向こうの陽はまだ沈みきらず、淡い明るさを残していた。


 宴の中央には楊阜ようふが坐している。旅塵を払ったばかりの衣には、都で改めた帯が光を受けていた。許からの道のりを越え戻ったと聞くや、州牧・韋端いたんが人をやって席を設けさせたのである。


 奥で、その韋端が杯を手にしていた。歳を重ねた面立ちに笑みを浮かべ、隣には長子の韋康いこうが控える。韋康はかつて孔融こうゆうに、底知れぬ才能が輝き渡り、度量大きく、意志強く世に優れた人材として評された男で、肩を揺らしながら肉を裂いていた。その向かいには楊阜の外兄・姜叙きょうじょが坐し、落ち着いた眼で宴の様子を見渡している。


 列の中ほどには、楊阜の弟の楊岳ようがくと従弟の楊謨ようぼが並んでいた。どちらもまだ若く、楊阜の様子を見ている。その隣では趙昂ちょうこうが杯を上げ、笑いながら尹奉の肩を軽く叩いていた。趙昂はもとより口の軽い男で、噂話を持ち出すたび、卓のあたりを沸かせている。


 「義山殿、許の酒はどうでしたか」


 声をかけたのは閻温えんおんであった。質朴な顔つきに似合わず、こういうときには誰より先に問うてくる。楊阜は杯を持ち上げると、口もとにうっすら笑みを浮かべた。


 「酔うほどに飲む暇はございませんでした。政の札と人の波に追われ、杯を重ねる間もなく日が暮れます」


 言葉に、卓のあちらこちらで笑いが起こる。


 「やはり都は違うな。ここでは日が暮れれば兵も吏も顔なじみばかりだ。義山のような者が戻ってくれば、こうして席を囲める」


 韋端はその声を聞きながら、静かに杯を置いた。目の前には、安定郡長史任命の詔文の写しが巻かれている。許で賜った官を、この地から送り出した従事がそのまま肩に負って戻ってきたのだと考えると、胸にこみ上げるものがあった。


 「義山」


 韋端があらためて名を呼ぶ。


 「遠路、ご苦労であった。おぬしが都で見てきたものは、いずれこの西にも益をもたらそう。今夜は、道の疲れをまずここで洗い落としてくれ」


 楊阜は席から立ちかけ、拱して礼を示した。


 「州牧のお陰にて務めを終え、こうして郷里に戻ることが叶いました。安定の任も、頂いたからには力を尽くすばかりにございます」


 その言いぶりには飾り気はない。だが、その静かな響きが、堂の隅々にまでゆっくりと広がっていく。楊岳は杯を握りしめ、楊謨はうなずきながら従兄の背を見つめた。


 火の光は器に映り、粗い土の皿に盛られた肉と菜を照らしている。どの顔にも、戦乱の世には珍しい緩みがあった。涼州の山河は遠く静まり、冀城のこの一室だけが、人の声と熱で満ちている。


 酒はゆっくりと卓を巡り、壺の口が軽く傾くたびに、湯気とともに言葉が増していった。最初は道中の苦労や、冀から許までの里数を笑い話にしていたが、やがて話題は、中央の有様へと向かってゆく。


 「都というものは、どこを見ても人と車でいっぱいと聞きますが、実のところはいかがでしたか」


 尋ねたのは楊謨であった。まだ若いが、筆を執る手は早く、義山が戻ると聞くや、真っ先に札を用意していた。


 楊阜は、少しだけ目を細める。


 「人の数は噂以上であった。城門の内も外も、車と騎が途切れぬ。だが、それよりも多いのは札と印であろう。朝な夕なに詔がくだり、郡国の報は山のように積まれていた」

 「宮中はさぞ華やかであろう」


 趙昂が、いかにも興の乗った声を上げた。


 「衣の色や楽の音、宮女の行き来など、見たこともないようなものばかりではないか」

 「華やかさもあれば、重さもあった」


 楊阜は苦笑いして答える。


 「ただ飾りを増やそうとしているのではない。兵と糧をどこに回すか、誰にどの地を預けるか、一つ一つに、後の世まで響く重さがある。許はその重さの上に立っていると感じた」


 姜叙が、静かにうなずいた。


 「都の重さを担う者どもの顔も、見てきたのであろう」

 「いくつかの席に侍した折に、お姿を遠くから拝しました」


 楊阜は杯を置き、言葉を選ぶようにして続ける。


 「それぞれに器量は異なりますが、いま天下を量っている者は少なくないと感じます」

 「天下を量る、か」


 閻温が口の内で繰り返し、杯を傾けた。


 「しかし、天下の形を決めるのは、結局は剣と兵ではありませぬか」


 その言葉に、韋康が応じる。


 「剣と兵も、誰が握るかで違う。いま中原では、袁公と曹公とが対じている。兵の数でいえば、袁の旗の方がなお多かろう」

 「そうであろうな」


 韋端は、これまで人の言を聞いていたが、ここでゆるやかに口を開いた。


 「関の東に在る者は、誰もがその二人の行く末を案じておる。この西にいる我らとて、無縁ではあるまい」


 堂の空気が、わずかに改まった。笑いはそのままに、言葉の底に別の色が混じる。


 「義山」


 韋端は、坐のまん中にいる楊阜を見た。


 「おぬしは都で、袁と曹、それぞれの旗の形を見てきたであろう。関西の者が耳をそばだてておるこの問いを、今夜はひとつ、聞かせてもらいたい」


 卓の上の酒が、ふと静まった。誰も杯を持ち上げず、火の音だけが器のあいだで小さく鳴る。


 視線が自然と楊阜のもとに集まった。若い者も年長の将も、それぞれに杯を指先で転がしながら、その口を待っている。


 楊阜は、ひと息だけ置いた。堂の梁に映る灯の揺らぎを見上げ、すぐにみなの顔へと視線を戻す。


 「袁公のことから申しましょう」


 声は大きくないが、よく通った。


 「寛大にして人を容れ、名門の旗の下に群英を集めておられる。だが、果断さに乏しく、策略を好まれるが、いざというところで決を下しきれぬご気性と見えました。果断がなければ威は立たず、決がなければ、後の手立ては乱れます。いまは兵も地もなお広く、強盛に見えましょう。されど、天下をつかみとる器ではありますまい」


 言葉の一つ一つが卓の上に石を置くように落ちていく。趙昂は思わず杯を持つ手を止め、楊岳は兄の横顔を見た。


 「では、曹公はいかがであろう」


 韋康が口をはさんだ。声には鋭さがある。


 「曹公は、雄大な才と遠い先まで見る知をお持ちです」


 楊阜は、今度は迷いなく答えた。


 「機を逃さず、決すべきときにはためらわぬ。法令は一つ筋が通り、軍兵はよく鍛えられております。また、人のうちに潜む力を見出すことにかけても、他に比べる者がない。常ならば名を挙げぬような者をも抜擢されるが、任ぜられた者はそれぞれに、よく職を果たしております」


 閻温がうなり、尹奉が小さく首をかしげる。


 「世に聞く評と、あまり違いはないようにも思えるが」

 「違うのは、積み重ね方でありましょう」


 楊阜は、卓の上に指を置いた。


 「袁公は力を集めるが、その力同士が互いに肩をぶつけている。曹公は、異なる力をそれぞれの場所に納める。前に立つ者も、後ろを支える者も、みな一つの枠の中に置かれていると感じました」


 姜叙が、そこで初めて口元に微笑をのぞかせる。


 「義山の言は、情よりも先に筋を立てる」

 「私はただ、都で見たものをそのまま並べているだけです」


 楊阜は否むように首を振った。


 「されど、その並べた果てに見えるものは、一つしかございません。いずれ天下を手中にするのは曹公に相違なく、袁公の旗は、やがて大河のうねりの中に沈むでありましょう」


 堂の中に沈黙が降りた。外の闇は濃さを増し、格子の向こうには、冀の城壁が黒く浮かんでいる。


 「この西までは、すぐに波は届かぬかもしれぬ」


 韋端がゆっくりと杯を持ち上げた。


 「だが、いずれ関のこちらにも風は変わろう。そのとき、我らはどこに立つべきか」


 誰も応えぬ。答えを知る者も、持つ者もいない。ただ、涼州の夜を渡る風の気配だけが、遠く石の上を過ぎていった。


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