16 褒諭
戦の煙が薄れたのちも、胸の内に残るものは容易には消えなかった。涼州で流れた血の記憶は、人の心にこそ深く刻まれている。
馬超が囲みを解いて退いたとの報は、程なくして城々に届いた。さらに夏侯淵が兵を率い、長離・興国・高平へと転戦して韓遂らを逐い、涼州の地はようやく鎮まる。
だが、戻らぬものがあまりにも多い戦いであった。冀の城門を出入りする履の音は細く、往時のような市の賑わいもまだ戻らぬ。門の内側には、二度と戻らぬ者の席がそのまま残り、卓の向こうには空のままの箸が置かれている。
戦が終わったと聞いても、声を張り上げて喜ぶよりも、失われた名を心の内で呼ぶ者の方が多かった。その名のいくつかは、主であり友であり、血を分けた者であった。そうした名を胸に抱いたまま、冀の人々は、新たな日々に向き合おうとしている。
その日、吏舎の堂には、いつもより多くの人影が集まっていた。奥の刺史席の脇に楊阜が退き、姜叙、趙昂、楊岳、楊謨、尹奉らとともに坐している。几のあいだには吏が並び、後ろに冀と諸郡の将が控えていた。彼らの眼差しには、まだ戦の陰が残っている。
戸口で履の音が止まり、伝吏が声を張った。
「曹公の使いが到着されました」
使いは進み出て礼を尽くすと、巻かれた詔書を几の上に捧げ持った。
「丞相・曹公の言を伝え奉る」
使いは、声をととのえて読み始める。
「馬超・韓遂ら逆を為し、西方の民を脅かす。楊阜、姜叙、趙昂、楊岳、楊謨、尹奉。その身を以て義を起こし、城を守りて賊を退ける。功大なるをもって、それぞれ列侯の位を加え、恩を示す」
名を呼ばれた者の多くは、一度眼を伏せてから顔を上げた。
趙昂は祁山の夜を思い返していた。城上で子の声を聞いたこと、その首が土に落ちたときの赤。姜叙の胸には、母と弟らの顔が浮かぶ。楊岳と楊謨もまた、父祖や兄弟の名を胸の内で呼んでいた。楊氏も姜氏も趙氏も、あまりに多くを失っている。
詔の文が読み終わると、堂には静寂が落ちた。視線はやがて、ひとり楊阜へと集まる。
楊阜はしばし眼を閉じていた。耳に残るのは自らの名ではない。韋康の声であり、閻温の叫びであり、冀の城の石に染み込んだ血の音である。主君が和を請うた日のこと、その前に進み出て賊の刃を受けることも出来ず、ただ遠くから見ていた己の姿が、胸に鋭く刺さっていた。
やがて彼は立ち上がり、几の前に進み出る。
「楊義山、言を願い上げます」
使者が姿勢を正した。
「承ろう」
楊阜は深く拱手し、それから口をひらく。
「私は、主君の存命のあいだ、その難を防ぎとどめることが出来ませんでした。冀の城が囲まれた折、元将殿は和を請う道を選ばれました。私はその前に進み出て止めることも、賊の刃を受けることも出来ず、ただ城の一隅で血の流れる音を聞いていたにすぎませぬ」
誰かが息をのむ気配がした。楊阜は言を継ぐ。
「主君が斬られたのちも、私は節義を守って死ぬことが出来ませんでした。主君と城をともにすることもなく、生き永らえておるのです。義に照らして申せば、身を退き士列を去るのが本来にございましょう」
彼は後列に並ぶ顔々を、ひとわたり見やった。
「冀で流れた血は、決して少なくはありませぬ。みな、それぞれ父祖や子らを失いました。それほどまでに多くの命を費やしながら、なお私は馬超を誅するに至っておりませぬ」
趙昂が拳を握り、姜叙は眼を伏せる。
「法に照らして申せば、冀を守り切れず、州牧を失った罪は、むしろ誅されるべきところでございましょう。そのような身でありながら、今さら爵と禄を賜ることは、とても相応しきこととは存じませぬ」
楊阜は、あらためて深く頭を垂れた。
「ゆえに、関内侯の封を、私は辞退いたします」
堂の空気が、弦のように張り詰める。
やがて、使者は言った。
「丞相の詔は涼州の義を嘉するものです。これを辞するは、いささか国命に背くところともなりましょうが、その心はしかと承りました。この旨は、余さず曹公に伝えましょう」
楊阜は拱手する。
「お手を煩わせます」
それ以上の言はなかった。詔を受ける者も、辞する者も、それぞれ拱手して席を立つ。堂を出ると、陽はすでに高く昇っていたが、その温さが胸に届くには、なお幾ばくかの時が要るように思われた。
幾日か過ぎて、風の匂いが少し変わり始める。冀の城の石にも、冬のとがった冷たさではなく、和らいだ陽が触れるようになっていた。書簡を運ぶ伝吏の姿も、日ごとに増えている。
その日、楊阜は吏舎の一隅で、諸県から上る簿を改めていた。筆を置く指先に、墨が薄くついている。閻温の名を記した簿を閉じると、戸口の方で履の音が止まり、声がした。
「義山殿。鄴より、丞相・曹公の文にございます」
楊阜は立ち上がり、声の方に視線を向ける。伝吏の手には、巻かれた書簡が載せられていた。
「読み上げてくれ」
一人の吏が前に出て封を割り、文を伸ばす。
「そなたは諸賢と肩を並べて大きな功を立て、その名は西方の里々に、立派な語り草として伝わっておると聞く。昔、子貢が賞を辞したとき、仲尼はこれを聞き、それは人の善行をさまたげるものだと評された」
言葉がゆっくりと室にひろがっていった。楊阜は視を伏せたまま、その一字一字を受ける。
「今、そなたはみずからの罪をことさらに重く言い立て、爵禄を受けるには及ばぬと申しておる。だが、そなたらが義旗を挙げて賊を追い払わねば、西方の民はいずこに身を寄せることができたであろうか。立てた功を恥とまぜて隠すは、かえって善の働きを鈍らせ、のちに続く者らの志を折ることになるのだ」
その言葉に、指先がわずかに震えた。冀の城門で倒れた者たちの顔が、ひとりひとり胸に浮かぶ。主君も、友も、血を分けた者も、その列の中に混じっている。
吏はなお文を継いだ。
「姜叙の母は、ことの起こりに当たって、まず叙に義を勧められた。その明智、まことにこの上なきものと言うべきであろう。昔、楊敞の妻が節を守ったと伝えられるが、これと比べても、姜叙の母の賢さは、おそらくなおその上にあると言ってよい」
そのくだりに至ると、楊阜は初めて顔を上げた。遠い許から涼州の一隅にいた老母の心にまで、都の主の眼が届いている。そのことが重く沁みた。
「賢なるかな、賢なるかな。そなたと姜叙らの立てた義は、きっと良き史官が筆を執り、後の世に書きとどめよう。どうか心をひらき、国の命にしたがってこれを受けられよ。」
読み上げる声が止むと、室には、先ほどよりも深い沈黙が落ちた。外では春の風が帷を鳴らしている。その音が、紙の上の墨の黒さをいっそう際立たせるようであった。
楊阜は、しばしその場に立ち尽くしていた。冀の城を守りながら主君を失い、生きながらえてもなお自らを恥じていた日々が、ひと筋の線となって己の中を通り抜けてゆく。
「義に果てた者は、史の一節として生きるか」
もらした言は、自らの耳に届くだけであった。
「曹公の御意、謹んで承ります」
彼は膝を折り、几の前で深く拱手する。その姿を、吏たちは黙って見守っていた。やがて楊阜は立ち上がると、書簡を受け取り几の端に置く。
戸を出ると、城の敷石には淡い陽が差していた。戦の前と同じ世には戻らぬ。それでも、冀で守られた義が筆に記されるというなら、流れた血もまた、ただ土に吸われただけではない。
城の上を渡る風は穏やかであった。




