15 援軍
祁山の城に、夜の帷はまだ降りきらぬ。城外の野には松明が点々と並び、その中央に馬超の旗が立っている。
馬超は陣の前に進み出た。冑の下の顔には疲れが刻まれていたが、声には鋼の張りがある。
「趙昂、尹奉、よく聞け!」
号する声が野と城壁にこだました。やがて楼に人影が現れ、矢盾のあいだから趙昂と尹奉、そして王異の姿がのぞく。
馬超は手を上げた。配下の兵が一人の若者を突き出す。縄目をかけられた顔には、幼さが残っていた。
「この者が誰かは、申さずとも知れていよう」
趙昂の指先がわずかに震える。王異は唇を固く結び、夫の袖を握る手に力を込めた。
「今、この者の命は、門を開くか否かお前らの一念に懸かっておる」
馬超はあざ笑うように言う。
「城を出て降れば、一族の命までは取らぬと約そう」
城上はしんと静まり、兵の鎧の音が止む。王異が一歩進み出ると、楼の風がその髪をかすめた。
「馬超よ。我らは主君の城を守る身である。義を捨てて賊に膝を折るくらいなら、ここで果てる方がましだ。子の命を盾に取るなど、堂々たる将のなすことではあるまい」
趙昂もまた声を張る。
「子はすでに我らの手を離れた。いかなる目にあったとしても、その責めは我らが負おう。だが、城門を開いて主を裏切ることはできぬ」
馬超の眼に怒気が走った。
「よくも軽々しく申す」
彼は趙月の髪をつかんで引き寄せる。若者の眼には恐れが宿っていたが、口は固く閉ざされていた。
「最後に言いたいことはあるか」
問う声に、趙月は城上を見上げる。楼の影に父と母の姿があった。
「父上、母上!」
若い声が夜気に届く。
「どうか、私に構わず城をお守りください!」
剣が抜かれ、野の空気が凍った。ひと筋の光が走り、趙月の首が土の上に落ちる。城上からも城外からも息を吞む音がした。馬超は血に濡れた刃を振り払い、祁山の城をにらみ据える。
王異は楼の上で拳を握り、唇を噛んだ。何かが裂ける思いがしたが、涙は落とさぬ。
「見たか、馬超。我が子は、主君と城のために死んだ。これが臣下の道よ」
言葉は石と木に吸われ、やがて城の内に沈んだ。門は閉ざされたまま、松明の煙が夜空に細く立ちのぼる。
祁山の城にとって長い一夜であったが、この夜の重さを感じていたのは、城上の者だけではない。別の野にもまた、同じ戦の行方をはかる者がいる。
朝の薄明かりの中、夏侯淵の帷幕では届いたばかりの書簡が几上に開かれていた。趙昂が祁山に向かう前に認めた救援を求める文である。その字の一つ一つには、冀で流された血の色が滲んでいるように思えた。夏侯淵は拳を握る。
「将軍」
将が口をひらいた。
「曹公のおわす鄴まで報を上げ、命を待つのが筋にございましょう。四千里の道のり、勝手に軍を動かしては、のちの咎めを招きかねませぬ」
別の将も続ける。
「敗れれば、この一帯に賊を放つことになりましょう。まずは命を仰ぎ、兵と策を整えてからでも」
夏侯淵は黙って聞き、視線を書簡に落としたまま動かさなかった。
冀城の名が重く鳴る。救援は間に合わず、韋康も諸郡の太守も馬超によって斬られた。楊阜らが立ち上がり守った義に対し、己は未だ何も成し得ていない。
「四千里と申したな」
やがて夏侯淵は顔を上げた。声の底に硬いものが通っている。
「往き返りを合わせれば、いかほどの日を費やすか。命を待つうちに、祁山の城はどうなろう」
将たちは言葉を失った。
「冀で失ったものを、俺は忘れておらぬ」
夏侯淵は書簡を指で押さえる。
「あの時、援軍は間に合わなかった。今度もまた、間に合わぬままで良いと言うか」
「しかし、規矩を乱しては」
なおも言おうとする声を、夏侯淵は遮った。
「曹公は鄴におわす。ここから先を託されたのは、俺だ」
彼は立ち上がり、甲冑の紐を締める。
「儁乂を先鋒とし、俺は兵糧を監する。狹道を抜けて祁山に向かう。祁山が持たねば、冀も長くは持たぬ」
将の一人がなお口を開きかけたが、夏侯淵は手を挙げて制した。
「負ければ、この首を差し出すまでだ」
その言に将たちは互いに顔を見交わし、やがて一人が拱手する。
「妙才殿のご決断に従いとうございます」
他の者も次々に拱手し、夏侯淵はうなずいた。
「ただちに軍を整えよ。遅れて冀の城を見るようなことは、二度とせぬ」
帷のすき間から朝陽が差し込む。旗の縁は白く輝き、鼓の音は次第に近くなっていった。
軍は狹道を抜けて進む。山の腹を削ったような細い路で、崖の上から見下ろせば、旗も人も一本の筋に見えた。先鋒の張郃は、馬を下りて歩を運びつつ、谷の向こうをうかがう。
やがて渭の水が、谷の底に銀の帯を引いた。対岸の高みには、馬超の旗が立っている。羌や氐の騎が列をなし、槍の穂が陽を返していた。
張郃は立ち止まり、兜の下の眼を細める。数は少なくないが、陣の形には迷いが見えた。旗は行きつ戻りつし、馬の列も落ち着かぬ。
馬超は、その陣頭に坐していた。冀で見た曹の旗と首級の影が、なお眼の裏に残っている。姜叙の母を斬り、趙月を斬ってもなお荒れは収まらぬ。だが、集め得た兵は羌と氐の数千にすぎず、長く囲みを保つには心許ない。
対岸に新たな旗が現れた。馬超の胸に浮かんだのは、冀で背を向けた城壁の影である。
ここで川をはさんで戦えば、敗れたときの退き道は乏しい。祁山の囲みも、たちどころに崩れる。羌と氐の心は、そこまで固くは結ばれていない。
「退くぞ」
馬超は短く告げた。配下の者が驚いた顔を向ける。
「馬将軍、祁山は」
「ここに留まれば敵の挟撃を待つのみだ」
それ以上の言葉はなかった。旗が翻り、馬の首が一斉にめぐる。渭の岸に立った旗は、土煙の中に遠ざかっていった。
張郃は、敵が背を向けたのを見ると、無闇に追い立てはしなかった。まず渭の渡しを確かめ、橋の板と岸の固さを改める。やがて慎重に軍を渡してゆくと、先ほどまで馬超の軍が用いていた陣地を一つ一つ押さえた。
野には、捨てられた槍や盾、城を囲むために作られた梯や車の類が残されている。穀を積んだ車も、そのまま道の脇に並んでいた。
「これをすべて収めよ」
張郃は命じる。
「祁山にも、沿道の城にも、糧は乏しかろう。賊が寄せていた器もまた、城を守る盾となる」
兵たちは、車を引き起こし、器具を改めた。荒れた野に、再び軍の列が整ってゆく。
夏侯淵の本隊が追いついたときには、渭の岸の陣はすでに曹軍の旗に改まっていた。夏侯淵は馬上からあたりを見回し、短くうなずく。
「馬超も、ここでは刃を交えずに退いたか」
今度は、間に合った。祁山の城はまだ立っている。夏侯淵は自らの判断が正しかったのだと胸を撫でた。
夏侯の旗が近づくのを見ると、城門の上に人影が現れた。趙昂である。傍らには尹奉と王異が立っていた。
「終わったのか」
誰かがぽつりとつぶやいた。ひと息に張り詰めていた空気がゆるみ、槍を握る手に汗が滲む。
夏侯淵は城の前で馬を止め、城上を仰いだ。言葉は交わさず、ただ旗を高く掲げる。祁山の城門は、固く閉ざされたまま、その旗を受けた。




