14 列母
土煙はまだ野の上に薄く残っていた。馬超の軍は旗を収め、鹵城の方角を振り返らずに歩を早める。
馬超は鞍上で手綱を締めた。冑の羽は折れ、鎧には血と泥が重なっていたが、眼は冴えている。冀城にさえ戻ればよいと考えていた。あの城には妻子と一族がおり、兵も蓄えてある。そこで態勢を立て直し、再び楊阜らを討てばよいと。
やがて遠くに城壁の影が見えた。だがその上には、見慣れぬ旗が翻っている。曹の字の旗であった。
濠の向こうに近づくと、石門の上に並べられた首級が目にはいる。髪を乱した女や若い男、幼さの残る顔々。その中に、妻と一族の面影が見えた。
馬超の指が手綱の上で白くなる。冀城に残した妻子と一族は、もとよりこの地の民と運命を共にするはずの者たちであった。それを、趙衢や龐恭らが曹の名に媚びて斬り捨て、首を旗の下に並べている。冀の城も人もいつの間にか自分の手を離れ、仇の威を飾る具にされたかと思うと、胸の奥で炎が荒れ狂った。
城壁の上から矢が一本、土の上に落ちる。兵の列の中に見知った顔がふたつあった。趙衢と龐恭である。かつて冀城を守った士が、曹の旗の下に立ち、冷ややかに馬超の軍を見下ろしている。
己が名を掲げた城に近づくことすら許されぬと知り、馬超は馬の首をねじ向けた。ここで無理に攻めかかれば、傷ついた兵をさらに土に埋めるのみである。冀城を取り戻そうとする限り、その血は尽きまいと感じた。
冀城も人もいつの間にか自分の手を離れている。楊阜と姜叙の名が、鋭い棘のように心に残る。
ならば、別の地で答えを取ればよい。
馬超の脳裏に歴城の名が浮かんだ。姜叙の一族がそこにいることは知っている。胸の内で何かがささくれ立っていた。
「軍を歴へ向ける」
馬超は短く命じた。旗が翻り、隊列が向きを変える。冀城の石壁と門上の首級は背後に遠ざかっていく。だがその光景は絵となって眼の裏に焼き付き、容易には消えなかった。
やがて歴城の姿が現れる。丘の上の城であった。城門の内外には慌ただしい人影が行き交い、城壁の上には混乱の気が漂っている。楊阜と姜叙が馬超を退けた報は、ここにも届いているに違いない。
馬超は槍を掲げた。
「攻め寄せよ」
号令が野に響き、鼓が鳴る。馬と歩兵が一斉に前へ出て、歴城を包むように走り出す。土煙が立ちのぼり、矢と石の音が石壁に散った。
城門が破られ、街の音は一度に止む。叫びと足音が渦を巻き、やがて土煙の中に沈んだ。
馬超が城中に入ったときには、抵抗の火は踏み消されていた。兵は道の両側に並び、槍の穂の血は乾きかけている。
姜叙の邸の門は倒れ、庭には倒れた家人の影が散らばっていた。
「生きておる者は縛って連れてこい」
馬超の言に、兵たちが屋内へと散る。ほどなくして、数人の女と若者が縄目をかけられ、庭へ引き出された。その先頭には、白髪をきちんと束ねた老女がいる。
「姜叙の母か」
問う声にも、老女の眼は逸れぬ。
「お前が馬超か」
老女は言った。
「ようも顔を見せたものよ。お前は父に背いた逆子、主君を殺した凶賊じゃ。天も地も、どうして長い間お前を許しておこうか」
庭の空気がぴんと張る。
「それなのに潔く死にもせず、よくも平然と人を見たものよ。冀でどれほどの血を流し、いくつの家を焼いたか、覚えてもおるまい」
馬超の眉間に皺が寄った。
「黙れ」
そう言い捨てたが、老女の声は止まらぬ。
「馬超よ。わしはお前を恐れぬ。冀の土には、お前に背を向けた若者らが立っておる。姜家と義山は、主のために命を賭してお前の軍を破った。乱を起こした賊の名など、やがて土に埋もれよう。残るのは、義を守った者らの名よ」
縄をかけられた若者たちが、母を支えようと身を寄せた。老女はそれを制し、まっすぐに馬超を見上げる。
「今に見よ。馬も刃も、やがて行く所を失う日が来る。お前の行く先には、天も地も道を開いてはくれぬわ」
馬超の胸の底で、何かが弾けた。冀城の石上に並べられた首級と、曹の旗の影が脳裏によみがえる。怒りは言葉に変わらず、ただ舌の裏で鉄の味となった。
「斬れ」
短く命じると、傍らの兵が剣を抜く。老女は一歩も退かぬまま、空を仰いだ。
「息子らに伝えよ」
老女はつぶやく。
「母は、賊の前に膝を折りはせなんだと」
刃が振り下ろされ、白髪が宙に舞った。続けて若者たちの声が上がり、それもすぐに断たれる。
庭には静寂が戻った。誰も口をきかず、兵たちは血を踏まぬよう目をそらして立ち尽くす。やがて命じられるままに屍を運び出し、倒れた門柱を避けて庭の隅へと運んでいった。
馬超は振り向かず、踵を返す。その胸にはなお、老女の言葉の棘が重く残っていた。足音が敷石に響き、それが遠ざかるにつれ、歴城には沈黙が降りていく。
それから幾日も経たぬうちに、野の空気はまた重くなった。歴城に立てられた馬超の旗は長くは続かず、各地から集めた兵も、戦の傷と飢えでじりじりと減っていく。
馬超はついにこの地を離れた。漢中へ走り、張魯のもとに身を寄せたとの報は、ほどなく冀にも届く。張魯が兵を貸し与え、馬超が再び兵をまとめたという噂が、人の口から口へと伝わってゆく。
州の堂に新たな報が積まれた。楊阜はなお床に伏しており、堂には趙昂と尹奉が坐している。
「馬超が再び兵を起こし、祁山に向かいつつあります」
斥候の言に、堂の空気がわずかに揺れた。
趙昂は報を受け取り、行をひと筋追う。祁山は西方を扼する要である。ここを破られれば、冀を守る柵に大きな口が開く。
「まずは援軍を請うほかあるまい」
趙昂が言うと、尹奉がうなずいた。
「夏侯将軍に書を飛ばし、祁山に軍を遣わすよう願い出ましょう。それまでのあいだは、我らが城を守り抜くより道はありますまい」
その言葉は、堂にいた者の胸に重く落ちる。戦で疲れた兵と、まだ煙の匂いが残る地である。だが今ここで腰を折れば、冀は二度と立ち上がれぬと誰もが知っていた。
その夜、趙昂は筆を執り、灯の下で書簡をしたためる。
『逆賊・馬超、張魯の兵を合わせて祁山を囲まんとす。兵糧すでに乏しく、士卒もまた疲弊の色濃し。然れども、なお城を死守し、援軍を待ち受くる覚悟なり。一日も早く軍を発し給わらんことを、切に願い奉る。』
尹奉はその文を改め、印を押した。
書簡が発たれたのち、趙昂と尹奉は祁山に向かう。城の石壁は古く、周囲の村々にはまだ戦の傷が残っていた。だが城門の上には楼が組まれ、矢石を備える兵の影が増えている。
趙昂の妻・王異もまた、城に上がった。軽い鎧をまとい、髪を後ろで束ねている。
「馬超が再び来るなら、あの日と同じ顔では来ますまい」
王異は、遠くの山の端に目をやった。
「冀で血を浴びた賊よ。今度は、この城の下で止めねばならぬ」
趙昂は妻の横顔を見る。冀城陥落の折、彼らの子・趙月は馬超に捕えられ、今も行方は知れぬ。だがその名を、この場で口にする者はいなかった。
「城門は開けませぬ」
王異は言う。
「馬超がいかなる言を弄しようとも、門を開けば、義が土に伏すのみ。援軍が来るまで、この城を枕に討たれる覚悟を定めましょう」
石の上を渡る風が、三人の衣をかすめた。




