13 血戦
鼓の音が遠くから返ってきた。鹵城の門前には土煙が薄く立ちこめ、出撃のために編まれた隊列が並んでいる。
姜叙の軍が中央に陣を取り、その左右に楊阜の兵が翼のようにひろがっていた。槍の列の後ろには楊家の旗が七本、間を置いて立っている。深い色に染め抜かれた楊の字が、風にかすかに揺れた。
対する平地には、馬超の軍が波を打っていた。金で縁取られた超の軍旗が中央に高くそびえ、その下には精鋭の騎兵が馬を並べている。甲冑の輝きは鋭く、そのひとつひとつが刃先のように眼を刺した。
馬超は軍の前に進み出た。鞍上に身を起こし、槍を横に支えている。冑に挿した羽が陽を受けて白く光った。
「楊阜」
太い声が野を渡る。
「何ゆえ俺を裏切った」
楊阜は前に歩み出て、槍の列の前に立った。鎧の紐を締め直し、馬超を正面から見据える。
「裏切ったのはお前の方であろう、馬超」
楊阜の眼の底に、いくつもの顔が浮かんだ。冀城の外で晒された閻温の首。みなを守り抜こうとして血に伏した韋康。約を信じて門を開き、屍をさらした諸郡の太守たち。さらに鄴で一門ことごとく刑場に引き立てられたと聞く馬騰の一族の姿が重なる。
「伯倹殿の首がいずこにかかっていたか忘れたか。我が主・元将殿の血がいずれの地に染みておるか忘れたか。諸郡の太守は、いかなる屍をさらして倒れた。それを招いたのは誰だ」
馬超は鼻先で笑った。
「俺が刃を向けたのは逆臣・曹操ただ一人よ。冀の連中が勝手に慄き、俺を離れたまでのこと」
楊阜は冷ややかに受ける。
「ならば問う。鄴にいたお前の父とその一族は、いかなる罪で誅せられた。馬超よ。お前が兵を挙げたがゆえに、寿成殿らは刑場に引き出されたのだ。それをも他人のせいと申すか」
馬超の眼の奥に、わずかに陰が走った。
「俺の父を殺したのは曹操だ」
低い声で言い捨てる。
「馬超。お前が刃を向けたのは曹公のみにあらず。この州この郡、この地に住む人々の背であった。元将殿も諸城の太守も、みなお前を信じて門を開いた。義と信を踏みにじったのは誰か」
楊阜の言葉は、槍の穂の上を越えて馬超に届いた。
「お前はかつてこの地と民を守っていた。しかし今や、友を斬り、主を辱め、父祖をも塗炭の中に沈めた。今日ここに戦うは旧きを忘れたためではない。忘れぬがゆえに刃を執るのだ」
野をわたる風が一瞬止み、馬超は槍の柄を握り直す。
「言はこれまでだ。剣で語れ、楊阜」
鼓が鳴り、号令の声が両軍にひろがった。姜叙の軍がじりと前へ出て、槍の先が一斉に下がる。楊家の旗もまた、主の背を追うように前へ進んだ。
楊阜は足元の土を踏みしめ、剣を抜く。狙うはただひとつ、中央に立つ馬超の首である。
鼓の響きが一段と高まり、土の上を走る足音が重なっていった。姜叙の軍が正面で槍を支え、楊阜の率いる左の翼が、斜めに敵陣の腹を衝くように前へと進む。槍の穂が列を成し、楊家の旗がその上に影を落としていた。
ぶつかり合いは一息で形を失った。最初の衝突ののち、列はほぐれ、人と馬とが入り乱れる。泥にまみれた甲冑が押し合い、槍が折れ、刃が石を噛んだ音が耳に残った。楊家の旗の一本が、いつの間にか傾き、その根元に膝をついた兵の姿が見える。
誰の名であろうとも、いまは数えてはならぬと、楊阜は己に言い聞かせた。名を呼べば足が止まる。止まれば、その名の下にある家々が土に埋もれる。義を語った口だけでは、冀の地を守ることはできぬと知っている。
剣を振るうたび、肩と腕に重さが増した。刃の腹にこびりついた血と泥は、振り払っても離れぬ。敵兵の槍を払いのけて踏み込めば、脇腹を鋭い痛みが掠めた。甲冑の隙間に熱いものが流れ込み、衣の下でじわじわと広がってゆく。
その痛みは冀城の石に散った血と重なった。あのとき守りきれなかったものが、今日ここで背を押している。
足元には倒れた兵の手が伸び、破れた旗の端が絡みついた。楊家の旗が二本、三本と影を失い、そのたびに胸の奥で何かが折れる。折れるごとに、前へ出る足どりが逆に固くなってゆく。七本すべてが土に伏したのちに、自らも倒れるならそれでもよいと、どこかで覚悟していた。
腿にも刃が入り、血が草の上に大きな跡をつくる。膝が一瞬揺れたが、楊阜は地を踏みしめて体を支えた。呼吸は荒く、身体の奥で熱がうねる。それでも視線は、常に戦場の奥を探り続けていた。
土煙の向こうに、金の縁をもつ軍旗がちらと見える。超の一字が、揺れる布の隙から覗いていた。その旗の周りには、飾り冑を戴いた騎が幾騎も固まっている。馬のいななきと蹄の音が重なり、そこだけが他と違う色を帯びて見えた。
あの中心に辿り着かねば、今日の戦は何度くり返しても終わらぬ。姜叙が正面で支えてくれている。その間に自らが腹を断ち、馬超の首をここで地に落とすほか、冀の民に示すべき答えはないと、楊阜は信じていた。
剣を前に突き出し、楊阜はなおも一歩を踏み出す。肩、腕、脇腹、腿、どこからともなく血が流れ、足跡のうしろに赤い点を連ねていった。意識の端で、鼓の音がかすれ、鼓舞の声が遠のいてゆく。それでも視界の中央には、ただひとつの旗と、その下にいるはずの男の影が、鮮やかに残っていた。
土煙の幕の向こうで、金の縁取りが大きく揺れる。楊阜は最後の力を振りしぼり、その方角へと身を向けた。耳の奥では、自らの脈の音と血の滴る音がはっきりと聞こえる。
前を塞ぐ槍を払い、肩越しに迫る刃を半身で外す。踏み込むたびに傷口がひらき、熱いものが鎧の内側を伝って落ちた。全身に鋭い痛みが残り、五つの火種が一つずつ身を焼いているようである。
その先に、馬超の姿が見えた。白い羽根を冑に挿した若武者が、馬上で振り向く。周りには親衛の騎が盾のように並び、その槍の穂が一斉にこちらを向いた。
「馬超!」
楊阜は叫び、ただ前へ出る。剣を低く構え、足を運ぶたびに土が跳ねた。視界の端では、楊家の最後の旗が大きく揺れ、次の瞬間には折れ曲がって土に伏せる。
これでよい、と胸のどこかが答えた。旗がすべて倒れようとも、自らが地に伏せようとも構わぬ。そのかわり、この一太刀は必ず馬超に届かねばならぬ。
楊阜の突進に、馬超の側の騎が二、三人、馬を乗り出してきた。槍の列が壁のように迫る。楊阜は最初の一騎の槍を刃の腹で払い上げ、馬の首筋めがけて切り下ろした。馬が悲鳴をあげて倒れ、その隙間に楊阜の躯が滑り込む。
親衛の輪は一瞬、乱れた。馬超の眼が見開かれる。血と土にまみれた楊阜の鎧は、もはや人の姿とも思えぬ。にもかかわらず、その歩みは止まらぬ勢いでこちらへ迫ってくる。
このままでは、正面で受けねばならぬ。馬超の胸に、つかの間の寒さが走った。自らの手勢の乱れと、背後の地形とを一瞥する。ここで長く戦を引き延ばせば、囲みを崩されると悟った。
短く合図が飛ぶ。親衛の騎が一斉に楊阜と楊家の残兵を牽制しながら身を翻した。中央の旗が揺れ、馬超の軍勢は徐々に後ろへと引き始める。
楊阜は、その動きが退きの形であると知った。喉の奥で熱いものがこみ上げる。ここで討たねば、馬超はまたどこかの地で約を違え、誰かの背を血で染めるかもしれぬ。足を前に出そうとしたとき、膝から力が抜けた。
地面が不意に高くなり、次の瞬間、視界が傾ぎ、片膝が土を打つ。手をついた指の間から血が滲み、土とまじり合って黒く光った。肺の奥で風が逆巻き、息を吸うのも苦しくなる。
それでも楊阜は、剣の柄から手を離さなかった。かすむ視界の先で、馬超の軍旗が小さくなってゆく。守勢に回った姜叙の軍が、なお形を保っているのが見える。馬超の首を断たねば、死ぬことは許されぬと心の底でつぶやいた。
遠ざかる超の旗が、やがて土煙の中に沈む。鼓の音も次第に弱まり、代わりに風の音と、あちこちから上がる呻きが耳に残った。
楊阜は立ち上がろうとした。膝は笑い、背の傷が再び開く。それでも、馬超の背を追い、前に進む。韋康の顔、閻温の首、諸郡の太守の眼が瞼の裏に浮かんだ。誰かが慌てた声で楊阜の名を呼び、その身体を支える。やがて楊阜の意識は沈み、闇の底に沈んでいった。




