12 挙兵
鹵城の小高い丘には、まだ朝の陽は訪れていない。城外の平地には夜のうちに集められた兵が列をなし、槍の穂がかすかな星の光を受けている。
楊阜は城門脇の土壇に立っていた。背後には歴城から連れてきた兵と、姜家の旗を負う者の影がある。帷の下には、昨夜から幾度も改めた地図と書簡が並んでいた。安定、南安、武都の名が墨の筋のあいだからのぞき、いずれも時至らば槍を合わせんと応じている。
冀の堂前で血が土を染めたあの日から、胸の底には石のような重さが沈んでいた。主君を救うことも、賊の刃の前に身を投げ出すこともできぬまま、この地に生きる悔いである。
帷が揺れ、足音が近づいた。姜叙が鎧の紐を固く締め、土壇の上に姿を現す。
「兵の備えは整った。城外の諸隊も、それぞれ持ち場についた」
短い報告に楊阜はうなずいた。
「これより先は兄上と私が選んだ道。冀も安定も南安も、それぞれ己が城を賭けて立つことになります」
姜叙は、暗い平地をひとわたり見渡す。槍の列の向こうに、父祖の廟と歴城の家々の影を思い描く。
「共に元将殿らの雪辱を果たそう。今日ここで挙兵せねば、姜家は自らの墓前に顔向けできぬからな」
その言を聞き、楊阜は土壇の縁に歩み出た。冀城で破られた約と、堂前に倒れた人々の面影が、東の闇の底に浮かぶ。
「冀の城では、今も馬超の旗が風を受けておりましょう。……私は、あの日散った者たちの血を決して忘れはしませぬ」
丘の下で鼓がひとつ打たれた。闇を震わせるその音に、兵の列がわずかに動く。鎧の継ぎ目が小さく鳴り、馬の鼻息が白く上がった。
やがて東の空がわずかに白み始めた。槍の穂が淡い明るさを帯びる。歴城から持参した帛の旗が、土壇の傍に立てかけられていた。その布には、曹の一字が太く記されている。
姜叙が帛を取り、楊阜に手渡した。
「義山。この旗を掲げよ」
楊阜は両手で旗を受け取る。帛の重みは軽いが、その一字には城と人々の行く末が載っているようであった。旗竿を握る指先に力がこもる。
再び鼓が鳴り、城門の鎖がきしんだ。吊り扉がゆっくりと上がり始める。冷えた外気が帷のあいだから流れ込み、兵の間を走った。
楊阜は旗を高く掲げ、前を見据える。鹵城を根拠とする挙兵の意は、その一振りに集められていた。
一方、冀城の空には薄い砂塵がたなびいていた。城上の札には征西将軍の号が掲げられ、馬超の名を記した旗が風を受けて揺れている。城門の内外には騎の出入りが絶え、廊の壁には新たに打ち付けられた矢盾の跡が残っていた。
楊謨は吏舎の一隅で簿を改めるふりをしながら、人の動きをうかがっていた。歴城を発つ前に託された命は、すでに趙昂らに伝わっている。冀に残された者が立ち上がる日は近い。
午の刻、南安からの使いと称する一行が城門をくぐった。先頭に立つのは趙衢と龐恭である。塵をまとった衣の裾には、急ぎの旅路の跡が残っていた。
「南安の龐殿と趙殿が、馬将軍に急報を奉ると申しております」
やがて使いは吏舎の堂へと通される。堂の奥には馬超が坐し、その傍らには西涼から従った将たちの列が続いていた。
趙衢は几の前に進み出て、深く拱手する。
「鹵城に動きありとの報を、急ぎお伝えに参りました」
馬超の眉がわずかに動いた。
「鹵城に何の兵があろうか。あそこは小城にすぎぬ」
龐恭が一歩進む。
「小城にてございますが、そこを根拠に歴城の姜叙が兵を集めているとの風聞が、日に日に強うなっております。武都、安定にも文を飛ばしているとか。放置すれば、やがて冀の患いとなりましょう」
堂の空気が張りつめた。冀城を占めてからも関中の地はなお揺れており、馬超の旗は常にいずこからかの敵意を受けている。
楊謨は堂の柱の陰からそのやり取りを見つめていた。あえて危険を誇張して見せることが今は必要であった。鹵城を軽んじさせぬためである。
馬超はしばし黙し、やがて掌で几を軽く打った。
「冀の背を脅かす芽は、早いうちに刈らねばならぬ。こちらから兵を向ければ、あのような小城、一度に崩れるであろう」
趙衢がうなずく。
「冀の兵を将軍自ら率いて征すれば、御威名もいよいよ広まりましょう。南安の兵も、後詰としてこれに従いとうございます」
やがて馬超は立ち上がった。甲の金具が小さく鳴る。
「よし。数日のうちに兵をまとめ、鹵城に向かう」
命令はすぐに城内へと広がった。兵舎では馬を繋ぐ綱が解かれ、倉からは矢と鎧が運び出される。冀に残されるのは、守りの兵と、従者に囲まれた馬超の妻子一族であった。
楊謨は吏舎を辞し、趙昂の待つ邸へと急ぐ。路地には兵の足音が満ち、号令の声が交錯していた。
「いよいよ動いたか」
邸で報を聞いた趙昂は、息を吐いた。几の上には歴城からの書簡がひらかれており、その末尾には、鹵城における挙兵の日が記されている。
冀から馬超の旗が消える刻。その刻こそが、この城を取り戻すために約した日であった。
馬超の軍が冀城を発ってから幾日も経たぬうちに、城門の外には征西将軍の旗を追う塵の筋が遠ざかり、内には守備の兵と馬超の妻子一族の車が残される。
ある夜、更鼓が一打ち鳴ったのち、しばし途切れた。闇の中を、合図を知る者の足音が走る。北門の陰には梁寛と尹奉の姿があった。従う兵はいずれも、あの日の血を忘れてはいない。
「戸の鍵は、既に内より改めておきました」
尹奉が告げると、梁寛はうなずいた。門番の中にも心を通わせた者がおり、今夜は、その者らがわざと見張りの目を緩めている刻である。
短く合図を交わすと、一行は門楼へと駆け上がった。抵抗する兵もいたが、声を上げるより早く縛られてゆく。やがて重い閂が外され、吊り扉が半ばまで開いた。
暗がりの中に、別の旗の列が近づいてきた。先頭には趙衢、その後ろには南安から選りすぐった兵と、趙昂が集めていた城内の士が続いている。
「楊岳殿のいる院へ、先に人を回さねばならぬ」
梁寛の言に、趙昂は暗い道を指し示した。幽閉されている楊岳の屋敷は、吏舎の背後にある一隅の院であった。
一隊が院に向かい、縄を掛けられた戸を破って中に踏み入ると、痩せた男が立ち上がった。その眼の底には未だ光が残っている。
「岳殿。義山殿の意により、迎えに参りましたぞ」
その一言に、楊岳はうなずいた。
縄を断ち、衣の塵を払う間にも、城内のあちこちから押し合う気配と叫びが伝わってきた。門は次々と押さえられ、矢倉と兵舎には味方の札が打たれてゆく。趙昂ら冀の士は散在していた者どもを集め、各々の持ち場へと走らせる。
やがて冀城の中央の楼上から、曹の旗が掲げられた。これまで征西将軍の号を記していた旗は引き降ろされ、土の上に投げ置かれる。その脇には、鎧を奪われた守備の兵がひざまずかされていた。
城の一隅では、馬超の妻子一族が捕らえられていた。泣き叫ぶ声と罵りは、しばし夜気を乱したのち、次第に遠ざかっていく。罪状を読み上げる声が残り、その後には静寂が落ちた。馬超の妻子と一族は誅され、その首級は城門の上に懸けられる。
梁寛と趙衢、趙昂らは城上にのぼり、並べられた首級と足もとの古い血の跡とを黙って見つめていた。それは堂前で倒れた者への報いの印でもある。
遠く鹵城の方角では、まだ軍の旗が夜明けの空を進んでいる頃であった。この報が楊阜のもとに届き、冀城が再び一州の名に帰したと知るとき、馬超を討つために挙げた兵の槍先は、迷いなくその旗を指すことになるのだった。




