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11 義憤

 帷が揺れ、光の中に塵が舞っていた。楊阜は手綱を家人に預け、息をととのえて門の口をまたぐ。


 幼い日を過ごした姜家の廊は、記憶より狭く見えた。柱の節も石段の欠けも昔のままだが、胸にあるものだけがかつての少年とは違っている。


 奥から履の音がして、姜叙の母が現れた。白いものの増えた髪をきちんと束ね、まなざしは若い日のまま澄んでいる。


 「義山か」


 その一声で張り詰めた心が揺れた。楊阜は膝を折り、頭を垂れる。


 「久しくご無沙汰をいたしました」


 母は肩に手を置いた。骨ばった掌に、育てられた年月の重さがある。


 「顔をお上げ。冀から戻ったと聞いたが、道中はどうであった」


 冀城の名に、堂の柱に残る血の黒ずみが眼の裏に浮かんだ。言葉をのみ込んだとき、脇の戸から室の内に姜叙が入ってくる。


 「義山、よく来たな」


 母は二人を坐に招いた。


 「冀のことを聞かせておくれ。何やら不穏な噂は届いて居るが、韋州牧や諸将の行く末も、正確なところはまだ知らぬのだ」


 楊阜は膝の上で指を組み、しばしうつむいていたが、やがて口を開く。


 「冀城は、いまや征西将軍と称する馬超の根拠となりました。みな約を信じて門を開きましたが、その約は破られ、元将殿も諸郡の太守も堂前で血を流しました。城には賊の号が掲げられております」


 母は息をのみ、姜叙も身を乗り出しかけては、なお姿勢を正した。


 「それは……いや、お前の命だけでも助かったのだ。そう嘆くな」


 姜叙の言には弟を気づかう色がある。楊阜は顔を上げ、母子を順に見た。


 「城を守りながらまっとうすることができず、主君を失いながら死ぬこともできなかった。そのような身で、どの面を下げて天下に生きながらえましょうか」


 母の眼に光るものが浮かぶ。楊阜は、それを振り切るように言を継いだ。


 「馬超は父に背き、君に背き、州の将をみな殺しました。これは私ひとりの憂いではなく、一州の士大夫すべての恥であります。冀城があの旗を掲げ続けるかぎり、その恥は日ごとに重くなるばかりです」


 姜叙は口を開きかけたが、言葉を飲み込む。


 「叙兄上は兵を擁してこの歴城を守っておられる。にもかかわらず賊を討つ心を持たれぬなら、それは昔の趙盾ちょうとんが君を弑したと史に記されたのと、何が違いましょうか」


 趙盾の名に母の身がわずかに震え、姜叙の眉にも怒りとも悲しみともつかぬ影がよぎった。


 楊阜はなお言葉を重ねる。


 「馬超は強く、兵も鋭い。だがその旗の下には道義がありません。父子の倫を裂き、主臣の礼を乱し、約を破って城を血で染めた。その勢いは、見かけほど固くはないはずです。義を同じくする者が槍を合わせれば、裂け目は必ず生じます」


 やがて、母は身を起こした。


 「叙よ」


 鋭い呼びかけに、姜叙は背を伸ばす。


 「この子は幼いころからお前の後を追って育った。今、その義山がここまで言うておる。父祖の地を踏みにじり、約を破って笑う者を前にして、兵を預かる者が黙していてよいものか。義山の計に従いなさい。そうせねば、この母は、お前にもこの家にも顔向けできぬ」


 姜叙は拳を握り、俯いたままうなずいた。


 「分かりました。義山と共にこの恥を晴らそう」


 その言葉を聞き、楊阜は頭を垂れる。育ての家の一室で、恥を返すための一歩が踏み出されたのである。


 数日ののち、姜家には見慣れぬ顔がいくつも並んでいた。戸は内から固く閉ざされ、灯は一つだけが几の上を照らしている。壁ぎわには槍と甲が立てかけられ、外の見張りには、信の置ける兵を少数のみ回した。


 楊阜の左右には、同郷の姜隠きょういん尹奉いんほうが坐していた。その向かいには、姚瓊ようけい孔信こうしんが並ぶ。奥まった席には、武都から来た李俊りしゅん王霊おうれいの姿もあった。どの顔にも、冀城から伝わる報を聞いて以来の沈んだ色が宿っている。


 「冀城で起こったことは、すでに耳に入っておりましょう」


 楊阜が口を開くと、狭い室の空気がわずかに張りつめた。


 「元将殿は約を信じたがゆえに殺され、諸郡の太守もまた馬超の刃に倒れました。冀は今、賊の号をいただく城となっている。……これをただ見ていることができましょうか」


 李俊が拳を几に押しつける。


 「武都にも、あの日のことは伝わっておる。兵も民もみな、歯噛みしておるわ」


 王霊もうなずいた。


 「だが正面から兵を興せば、今はなおこちらが劣る。関中の諸県が揺れる折、軽挙しては民を再び乱に巻き込むばかりだ」


 室の隅で灯の火が揺れる。誰もが同じ思いを抱きながら、その一歩を踏み出せずにいた。


 楊阜は、その沈黙を裂くように言を継ぐ。


 「だからこそ、義を同じくする者が心を合わせねばなりませぬ。馬超の勢いは、外から見れば盛んに見えましょう。だが父を殺され、子を奪われた家は数知れぬ。約を破られた城もまた、多くあります。兵は力に従いますが、民は義に従うものです」


 姜隠が応じた。


「里の者どもも、冀での所行を聞いてからは、馬超の旗を見るたび顔をそむけておる。言葉には出さずとも、心は決しておらぬわけではない」


 尹奉もまた、胸の前で手を組んで言う。


 「このまま賊の号を許せば、子や孫の代まで恥を残すことになりましょう。身を賭しても、いま一度、州に正しき主の名を掲げねばなりませぬ」


 姜叙が、席を正して口を開いた。


 「歴城の兵はひとまず私が預かる。表向きは馬超の命を奉ずる形を取りながら、内では義山の策に従おう。冀と武都、安定、南安が呼応できれば、たとえ兵の数が劣っても賊の旗は揺らぐはずだ」


 李俊と王霊は顔を見合わせ、やがてうなずく。姚瓊、孔信も次々と拱手し、各々の郡の士をまとめることを約した。姜隠と尹奉は、郷里の士大夫や旧知の将へ、ひそかに心を通わせる役を担うことを請う。


 灯の明かりは弱かったが、その下で交わされた言葉は強かった。札に記すこともできぬ約束が、ひとりひとりの胸に刻まれる。冀城で流された血と、掲げられた偽りの号を思えば、退く道はすでに閉ざされていた。


 「今日ここで名を連ねた者はみな、涼州の命運を共に背負う者と思ってくだされ」


 楊阜の言に、諸人は黙って首を垂れる。室の中に、衣が触れ合う乾いた音が小さく響いた。


 夜が深まるにつれ、姜家の灯はひとつ、またひとつと消えていく。坐を辞したのちも、楊阜はなお几の前に残り、札を前に筆を執っていた。その端にはすでに、楊岳の名と、安定・南安にいる士の名が小さく記されている。


 戸口の方で衣の音がした。入ってきたのは従弟の楊謨であった。


 「お呼びにございますか」


 楊阜は顔を上げ、楊謨を見る。その眼には、あの日の血の色が薄く影を落としていた。


 「冀へ戻ってもらう。趙昂殿と岳に事の次第をすべて伝えよ。歴城と武都、安定、南安が心を一つにすること、時が至れば一斉に兵を挙げること、そのために今は形を乱さぬこと」


 楊謨はひとつひとつの言を逃さぬように聞き、うなずく。


 「兄上のお心、余すところなく申し伝えます。冀の者もまた、このまま賊の号をいただいているつもりはないはずです」


 楊謨は深く拱手した。その仕草には、冀に残してきた者たちの顔が重なっている。


 翌朝、まだ空が白むころ、歴城の門が開いた。見送りに出た者は多くはない。姜叙は楊謨の馬の首に手を置く。


 「冀の城を頼む。岳と共に、時を違えぬよう備えを整えておいてくれ」

 「歴城のみな様も、どうかご無事で」


 短い言葉を交わし、楊謨は馬の腹を軽く蹴った。蹄の音が城外の土を打ち、やがて朝靄の中に小さくなってゆく。


 同じころ、別の道には、安定へ向かう使いと、南安へ向かう使いが、それぞれ帛に包んだ書を抱えて出立していた。梁寛や趙衢、龐恭の名は、すでに書簡の中で楊阜の筆に触れている。今はその筆跡が、峠を越え、河を渡り、各郡の邸の几の上に届くのを待つばかりであった。


 門の上には、まだ馬超の号を記した旗が翻っている。その下で、歴城の兵はこれまでと変わらぬ顔で出入りを続けていた。だが、土の道を行き交う人の流れの中には、目に見えぬ細い糸が張り巡らされてゆく。


 楊阜は去ってゆく従弟の背を見送ったのち、目を閉じた。義の刃は、今ようやく形を得ようとしている。冀の城でも、安定の邸でも、南安の郡庁でも、同じ思いを抱く者が几の前に坐しているはずであった。


 未だ刃は抜かれぬ。旗も改まってはいない。されどその日を約した心は、すでに各地でひそやかに呼応を始めていた。


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