10 雪恥
風は城の上を渡り、新しい旗の縁を鳴らしていた。色鮮やかな絹には、かつて見たことのない号が大きく記されている。征西将軍、領并州牧、督涼州軍事。涼州の一城にすぎぬこの冀城を、いまや関西一帯の根拠とするかのような名乗りであった。
吏舎の堂の壁からも、古い札は外されていた。かつて刺史や太守の名が記されていた板の代わりに、新たに彫られた馬超の称号が掛けられている。几の上には命令の札が積まれ、吏は筆を走らせながら、その末尾に征西将軍、督涼州軍事と改めて書き加えた。
城門の外には、日ごとに兵の列が伸びていく。冀城の旗のほかに、北から来た并州の騎の旗、西から来た涼州の諸県の旗が混じっていた。馬のいななきと鉄の音が土塁の外を満たし、行き交う伝令は、馬超の名を口にしながら各郡に号令を運ぶ。
その勢いに応じるように、遠く興国の方からも報が届いた。氐の王・千万が兵を挙げ、馬超に呼応して旗を翻したという。興国の城は山と谷に囲まれた要の地であり、そこにまで馬超の影が及んだと聞いて、冀城の士大夫の間には、言葉にしがたい重さが落ちた。
潼関での敗走から日も浅い。だが今、関西の地で兵を合わせ、諸城を震わせているのは、ほかならぬその敗将であった。冀城を拠り所とし、自ら征西と称して諸軍を統べるさまは、一度は折れた矛が逆に太くなって突き出されたかのようである。
簿の上でもまた、その変化はあらわれていた。冀城に属する兵の数は日ごとに改められ、周辺の県から差し出される兵の名が、列をなして書き入れられてゆく。かつて曹操の旗のもとに集っていた兵も、今は多くが馬超の旗下に名を連ねていた。
それは常ならぬことであった。許の都から下された印と命を離れ、一介の将がみずから官号を掲げ、涼州と并州をまたいで兵を動かしている。札の上では整えられた号であっても、その根に正しき命が通っていないことを、冀城に仕える者はみな知っていた。
楊阜は堂の隅に坐し、その書と旗とを見渡す。筆を執れば、手はいつも通りに動いた。租税の簿も兵の簿も、誤りなく整えねばならぬ。だが目の奥には、閻温の首と韋康の血が、まだ乾かぬまま残っていた。この冀城が馬超の号を掲げるたび、恥もまた日ごとに深く刻まれてゆくのを、楊阜は黙して見つめている。
日々の務めは、形の上では変わらなかった。朝が来れば吏舎に出仕し、几の前で簿を改め、印を押し、兵と麦の出入りを記す。命の出どころが丞相府から馬超の札に変わったほかは、筆の運びも印の重さも、昨日までと同じであるかのように見えた。
楊阜は、その同じ形を崩さぬよう心を配る。冀城を預かる者のひとりとして、軽々しく顔色を変えることはできぬ。吏たちの前で怒りや恨みの色を見せれば、城の内まで乱が及ぶ。筆を持つ手を保ち、馬超の名を記すときでさえ、あえて表情を動かさぬようにしていた。
堂の隅には、いつものように趙昂と楊岳、楊謨が控えている。三人とも言葉少なく、与えられた務めを淡々とこなしていた。だが、命を取り次ぐとき、あるいは簿を渡すとき、ふと視線が交わることがある。その一瞬のうちに、堂の中の重さと、誰も口にせぬ思いとが、互いの目の奥に映った。
韋康と諸郡の太守が斬られてから、まだ多くの日は経っていない。堂の柱には、あの日にしぶいた血の跡が薄く残っており、新たに塗られた漆の下から、ところどころに黒ずみが浮かび上がっている。楊阜は、几から顔を上げるたび、その跡を目にとめた。
この城で声を荒げることはたやすい。だが、怒りに任せて刃を抜けば、冀城の士民は再び約に裏切られ、今度こそみな殺しになろう。馬超の威勢が極まったこの時、正面から槍を交えるのは、恥を重ねる以外の何ものでもない。
ならば、いつか必ず来るはずの綻びを待つほかはないと、楊阜は思った。勢いは強くとも、根に正しき命を欠く旗は、いつかどこかで裂ける。そのときに矛を取ることこそ、誠の士の務めであると、己の内に繰り返し言葉を刻んだ。
日が傾くころになると、吏舎の庭には長い影が伸びた。筆を収め、印を箱に納め、吏たちが順に退出してゆく。趙昂は去り際に一礼し、楊岳と楊謨もまた頭を下げる。その礼には、かつてと変わらぬ敬意と共に、いつかこの恨みを晴らすべしとの、言葉にならぬ約束がふくまれているように思われた。
家へ帰れば、妻の臥す室に灯がともっている。病を得てから、妻は床を離れることが少なくなった。楊阜は几での顔とは別の柔らかな声であいさつを交わし、薬をすすめ、枕元に坐る。外では旗が鳴り、城のどこかで兵の足音が絶えぬ。室の中にも、その響きがかすかに滲んでいた。妻の細くなった指を両手で包みながら、楊阜はその顔を見つめる。守るべき家と、晴らすべき恨みとが己の中で重なり合っていた。
妻の容体が急に傾いたのは、ある朝のことである。いつものように薬を口に含ませようとすると、唇はわずかに動いただけで、声はほとんど出なかった。額に手を当てれば、熱はすでに遠のき、肌の下から力が抜けてゆくのが分かる。呼気は浅く、胸の上下も目を凝らさねば見えぬほどであった。
楊阜は、その手をしばらく握っていた。幾たびも乱をくぐり、槍と矢の下を生き延びてきたが、目の前の命ひとつ救い得ぬことを思い知らされる。妻は一度瞼を上げ、夫の顔を見た。その眼に浮かんだのは、家の行く末を託す思いと、長く連れ添った者への労わりである。
やがて、細い息は絶えた。室の灯は同じように燃えているのに、そこに横たわる身からは、もう温もりが失われつつある。楊阜は帛を直し、その顔に触れた。涙は出ず、ただ胸の奥に、重い石がひとつ落ちるのを感じた。
冀城にあって妻を葬ることはできぬ。父祖の墳のある郷里に送り、礼に従って葬らねばならぬ。それは夫としての務めであると同時に、考の道でもあった。楊阜は、床の傍らでひと夜を明かしたのち、衣を改めて吏舎へと向かう。
吏舎の堂では、いつものように札が積まれていた。陽は帷を透かして几の角を白く照らし、吏たちは筆を運んでいる。
楊阜は几の前に進み出て、深く拱手した。
「妻が病没いたしました。父祖の地に送り、葬儀を行いたく存じます。一時帰郷の暇を賜りとうございます」
奥には馬超が坐している。新たに掲げられた号にふさわしく、衣と佩刀はきらびやかであるが、その眼差しには冷たい光が宿っていた。楊阜の言を聞き終えると、しばし黙して見下ろし、やがて口を開く。
「義山殿の勤めは、日ごとに見ている。妻を葬るのは孝の道よ。礼を尽くしたく願う心、よく分かった」
そう言ってから、わずかに身を乗り出した。
「ただ、一門ことごとく外に出せば、城を預かる側として心もとない。岳には冀城に留まってもらおう。道中のこともあろうから、従弟の謨を伴って行くがよい」
声は穏やかであったが、その言の選び方には、楊氏一門の手綱を離すまいとする計りが滲んでいる。堂に列する者たちも、その意を悟りながら、誰ひとりそれを言葉には出さぬ。
楊阜は深くうなずいた。
「お心のままに」
堂を辞し、廊に出ると、趙昂が足を止めて待っていた。柱の陰には楊謨の姿も見える。
「妻を郷里に葬ることになった。謨を伴うことは許されたが、岳は冀城に留め置かれる」
楊阜が簡潔に告げると、趙昂はうなずいた。
「ここは任せよ。義山殿が刻まれた恨みを忘れぬかぎり、我らもまた、このままにはしておかぬ」
楊謨もまた一歩進み出て、拱手する。
「道中の務め、微力ながらお支えいたします」
出立の日、冀城の門には、あの日と同じ鎖がかかっていた。楊阜と楊謨が馬を曳いて近づくと、鎖は引かれ、吊り扉がゆっくりと持ち上がる。開いてゆく門の向こうには、土と煙の匂いを含んだ空気が広がっていた。
振り返れば、吏舎の屋根と堂の柱が見える。韋康と諸郡の太守が血を流した場も、閻温の首が約の印とされた日も、みなあの中に収まっていた。
門の内側に楊岳が立っている。その顔には、兄の行く先と、自らの行く末とを共に量る色が浮かんでいた。趙昂も列に加わり、黙って二人を見送っている。
楊阜は、門の内に残る二人の姿をひとわたり見やり、軽くうなずいたのち、楊謨の馬と並んで手綱を握り直した。
この帰郷は、妻を葬るための道であると同時に、雪辱を果たすための第一歩でもある。冀城の門をくぐり出たとき、楊阜は、もはや以前と同じ身ではないことを、歩みの重さに感じていた。




