09 惨禍
門の鎖が鳴りやみ、吊り扉が開き切ると、光が一度に流れ込んだ。朝の空気には土と鉄と煙の匂いが混じっている。
楊阜は列の中ほどに立ち、前に進む韋康の背を見つめていた。韋康の衣は城上の風にさらされて色を失っているが、その歩みには乱れがない。左右には郡太守らが従い、その後ろに州中の士が続く。
城門を出ると、土塁の向こうに馬の列が広がっていた。槍の穂は陽を受け、旗は力強く翻っている。冀城を取り巻いていた軍勢がひとところに寄せ集められていた。
中央にひときわ目立つ騎がある。馬超であった。
韋康が足を止め、拱手して声を上げる。
「涼州刺史・冀城の韋康にございます。城を開き、一城の士民は元より、各郡の太守と共に孟起殿の麾下に降り、罪を謝したく存じます」
楊阜は頭を垂れ、その言の一つ一つを胸の内でなぞった。ここで一歩退くのは節を売るためではない。籠もる命を守るためであると、自らに言い聞かせる。
馬超はしばらく黙って列を見下ろしていた。やがて馬を一歩進めると、口もとに笑みを浮かべる。
「元将殿の名は潼関の前から聞き及んでおる。今こうして城を開き、士民を連れて降るは、情ある振る舞いと言えよう」
声には柔らかな調子があった。周りの将たちも、安堵したように顔を見合わせる。
降れば命は取らぬと馬超は言った。閻温の首を槍に掲げながら、その口はまた情けを口にした。あのとき胸に起こった疑いはいまは粥よりも薄い。飢えと疲れの中で、人の心はわずかな望みにすがろうとする。
馬超は続けた。
「士と民を惜しむ心は俺とて同じよ。これより冀城の兵と民は、みな俺の旗下に入れ」
韋康が顔を上げる。
「恐れながら、一つ願いがございます。これまで槍を交えた罪は、すべてこの韋康一身の上に負わせていただきたく存じます」
短く息を呑む気配が列に走った。自らを罪人として差し出す言は軽くはない。楊阜は、背中越しに韋康の決意を感じ取っていた。
馬超は眼を細め、やがてうなずく。
「元将殿の願い、おおよそ分かった。約した以上、民や兵をむやみに殺すことはせぬ」
その言を聞いたとき、胸の奥で固まっていたものが、わずかに解けるのを楊阜は覚えた。閻温の首は失われたが、その節義が冀城の命を繋いだのかもしれぬと、そう思いたかった。
ただ、馬超の眼の底には、測りがたい翳りがある。その影を、楊阜は言葉にすることができないでいた。
そののち、冀城の主だった者は堂に集められた。帷は巻かれ、外には馬超の兵が盾を並べている。楊阜は列の端に立ち、几の前へ進み出た韋康の背を見守った。諸郡の太守が左右に並ぶ。奥には馬超が坐し、その脇には漢中から来た張魯の将が控えていた。楊昂である。
韋康が拱手し、声を上げた。
「これまで孟起殿に弓を引きましたるは、国家の命に従いしゆえにございます」
馬超は堂を見回して口を開く。
「だが、これを罰せずにおけば、涼州の諸城はどう思う。俺は城を開いた功を無にはせぬ。士と民は殺さぬと約した。……だが城の主と諸郡の長は、ここで責を取らねばならぬ」
韋康の手が衣の裾をつかんだ。己ひとりの首で収まらぬと知った色が、その指先にあらわれる。
馬超が脇の男を振り向いた。
「楊将軍」
「は」
「公祺殿は俺に兵を貸し、公と共に事を成せと言われた。韋康と諸郡の太守をここで斬れ。これをもって涼州に示しとしよう」
楊昂の眼に、一瞬ためらいがさす。
「孟起殿。降れば命を取らぬと仰せでしたが」
思わず洩れた言に、列の中から短い息が上がった。
「我らは城を開いて降ったのだ。これでなお斬られるとは、約束が違うではないか」
太守の声が重なろうとしたとき、馬超の声がそれを断ち切る。
「黙れ。俺が約したのは士民の命だ。城を誤らせた主まで許すとはいつ言った」
楊昂は短く息を吐き、うなずいた。
「承知仕りました」
剣が抜かれる音が響き、楊阜は思わず一歩踏み出しかける。閻温の首を掲げて迫った約の言が、今まさに踏みにじられようとしていた。この場で声を上げねば、二度までも辱めを受けることになると、胸の内で叫びが起こる。
その袖を、後ろから強くつかむ手があった。趙昂である。
「義山殿。ここで飛び出せば、冀城に残る命が絶える」
楊阜は歯を食いしばり、足を止めた。
韋康は、振り返って列を見た。共に城を守ってきた顔が並んでいる。この結末を招いたのは自分であると、悔恨が胸を満たした。
「孟起殿。せめて士民へのお情けだけは、お忘れなきよう願います」
言を残し、韋康は首筋を伸ばす。諸郡の太守らも互いに顔を見合わせ、前へ出た。
「獣にも劣る男よ」
声が血の気の失せた堂に響いたのち、刃の音に消える。
楊阜は眼を閉じ、拳を固く握りしめた。袖をつかむ趙昂の手に、さらに力がこもる。
幾日かののち、冀城の空気はなお重く沈んでいた。吏舎の堂にはもはや韋康も諸郡の太守の姿もない。簿の上に並ぶ名は、そのまま死人の記録となっている。風も声を潜めているようであった。
楊阜は几の前に坐し、乾いた筆を指で押さえていた。堂の隅には趙昂と楊岳、楊謨が控えている。誰も口をきかぬまま、外から聞こえる足音に耳を澄ましていた。
伝令がひとり、塵にまみれた顔のまま膝をつく。
「義山殿。夏侯将軍の軍、確かに冀城の救援に向かわれておりました」
その言に、堂の空気が揺れた。楊阜は顔を上げる。
「いつ、どこまで来ておられた」
「顕親を発し、冀城まで二百里余りの地に至ったところで、馬超の軍と行き合われたと聞きます。戦いは激しく、しかも汧の氐が背後で蜂起した由にて、やむなく軍を返されたとか」
趙昂が息を吐いた。
「では、伯倹殿の文は確かに届いていたのだな」
伝令は深くうなずく。
「はい。夏侯将軍は、冀城を見捨つるにはあらず、と申されておりました」
言は慰めの形をとっていたが、楊阜の胸には冷たく沈む。閻温は闇の水を抜けて命を賭し、夏侯淵は軍を率いて道を急いだ。どちらも冀城を孤立させまいとした。だが、その二つの心は、わずかな時のずれに阻まれて交わらなかった。
堂の壁に掛けられた地図には、冀城と顕親と汧の名が並んでいる。そのあいだの二百里余りの地は、今や血と敗走の跡でつながれているに違いなかった。
「このままにしておけようか」
楊阜は心の内でつぶやく。閻温の首、韋康の血、諸郡の太守の屍。そのどれもが報いられず、ただ血生臭い記憶として涼州に残るのみである。
「義山殿」
趙昂がそっと口を開いた。
「いつか、この日のことをただす機会もあろう」
楊阜はうなずいた。だがその眼には、今ただちに剣を取る色はない。冀城の土には、守るべき民と家がまだ残っている。
今は恥を刻むほかはない。韋康と閻温の名を心に掲げ、この辱めを忘れぬこと。それが、この日この場に生き残った者に課せられた務めであると、楊阜は悟った。




