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短編

『東京23区』、草生えて森。

作者: きりま

 真夏の太陽は、舗装された道路を溶かしているようだった。そんな、じりじりと焼ける熱気の下を、一人歩く姿がある。


 女子生徒Aとしか言いようがない凡庸な自覚がある、かつら繁茂はんも。彼女が、ふらつくように足元がおぼつかない感覚を覚えるのは、何も暑さのせいだけではない。


 先週の進路相談で、担任教師に「もう一度よく考えなさい」と突き放されたばかりだ。夏休みを前に、進学か就職か、進学ならばどの方面に進むのか。卒業後の道をある程度でも想像しておけというのだ。

 確かに、それによって夏休みの活動内容も変わるだろう。友達も、どこかの夏期講習に参加すると話しているのを、ちらと聞いたのはいつの事だったか。


 まだ二年生だというのに、何を決められるというのだろう。そんな不満と焦りが刺すような陽射しと重なり、瞬く間に彼女の思考を炙った。

 今や彼女の頭の中は、どこまでも続く真っ白な砂漠を、陽炎の狭間を縫うように進んでいるようだった。


 進路という二文字は、思考の中核にぽっかりと開いた真っ白の空間となり、他のすべての考えを阻んでいた。何を考えようとしても、思考は白球に音もなく呑みこまれる。

 それから、うだうだと、暑さのせいにして過ごしている内に、返答の日が来てしまったのだ。


 繁茂は汗ばむ腕を翳して、容赦のない空を振り仰いだ。

 あと少しで校舎であることを示す、屋上から塔のように伸びた高い木を見とめ、彼女は溺れるような気持ちで大きく息をつくと、緩慢に辺りへと視線を向けた。


 ここは『東京23区』。

 そう呼ばれるが、《《一つの区画》》だ。繁茂が生まれる遥か昔には、それだけ区切る必要があるほどの繁栄があったという。

 しかし、現在の姿は違う。

 街は網のように張り巡らされた木々や森によって区切られ、残されたビル群などとは不釣り合いなほど静まり返っている。かつては道を埋め尽くすほどの人々が行き交っていたなど、繁茂には想像の埒外だ。

 街全体が、未来の停滞という深い森の中に沈んでいるかのようだった。


 学校が機能しているように、当然生活に必要な人類の営みはある。

 だからこそ、依然として繁茂のような悩みを持つ若者が消えることはない。

 彼女の重い足は、正門から脇へと逸れ、木々に飲み込まれ始めた古い区画へと向かっていた。

 そこは何か気落ちすると立ち寄っていた場所。

 しめ縄のような蔦に絡まれた古い体育倉庫の裏手。壁は分厚い根に覆われ、木々の異様な生命力が、この街を絡めとったのだと物語る。


 枝葉が陽を遮り、肌の熱と共に頭を冷ましていく。もう授業は始まっているのだろうが、構わない気持ちだった。

 繁茂は、頭の中と同じように時間を保留されたようなこの場所で、ついに言葉にならない感情を吐き出していた。


「どうでもいい。もう、考えたくない」


 心が折れて項垂れ、根の壁にもたれかかるように繁茂は手を伸ばした。そこには、蔦の隙間からわずかに顔を出していた錆びた金属のパイプ。折れて朽ちかけたパイプは、根が詰まるようにして絡みとられている。

 それは、過去の遺物。人類の戦いの歴史の跡だ。


 もう何の力も残っているはずのないそれに触れた指先に、静電気のような痺れを感じたと思えば、たちまち繁茂の全身を包み込み、視界が白く灼けた。


 ◇


 視界が晴れたとき、繁茂は地面に座り込んでいた。

 同じ場所、同じ体育倉庫の裏手だ。立ちくらみを起こしたのかもしれない。倒れていないということは、ほんの一瞬のことだったのだろう。頭を打たなかったことに、ほっとし、立ち上がろうとして、自分に違和感。手の平が撫でたスカートの丈は長い。

 それもそのはず、いつの間にやら着ていたのは中学二年のセーラー服。首筋に風が当たり手を伸ばせば、肩口までしかない髪。恐る恐る立ち上がれば、視線の高さが低い。

 先ほどは見下ろしていたパイプの残骸が、顔に近い位置にあった。


「中学生に、戻ってる……?」


 その事実に、なぜか繁茂の胸には安堵が溢れた。あの頃は何も考えなくてよかったのだ。卒業したら、自動的に同敷地内にある高校に通うだけだったから。


 木陰から手をかざしてそっと顔を出すと、校舎の窓に人影が見えた。日は高い。昼休み頃だろうか。そして、繁茂は、この意味不明な現状を考えることから逃れるように身体の向きを変える。木々に埋もれるような校舎へと足を進めた。


 高校時代と変わらず、中学の生徒の数も少ないのだが、予想通り昼時特有の懐かしい空気が階上から響いてくる。

 繁茂にとってはこれが日常だが、世の中に木々の問題が無かった頃の建造物である。彼女はしばしば、景観から垣間見える過去について考えてしまう癖があった。これだけの大きな校舎が必要なほどの生徒がいたことを、不思議な気持ちで想像しながら、人の声に向かって階段を上っていく。廊下で立ち話しているのだろう生徒たちの声は、大きな空間に反響しながら彼女の耳に届いた。


 自分の姿を考えれば、本当に向かってよいものかという不安も過ぎった。それもつかの間、二階の廊下に踏み出せば、記憶の中の中学生時代と変わらぬ光景がそこにあった。


「どこ行ってたの?」


 幼い顔が振り返り声をかけてきた。丸い顔立ちのボブカット。クラスメイトだ。


(本当に中学に戻ったみたい)


 繁茂はとっさに涼みに行っていたとごまかす。


「よく景色見てるもんね」


 違う、と、繁茂は心で返していた。

 正確には木々だ。

 彼女が指摘したように、中学時代もぼんやりと、木々の存在を見上げていた。

 そこで、自分が本当は何を思っていたのかに気付いた。


(そうだ。確かに私は、それが当たり前と納得しようとして、それでも何か嫌だなって感じてたんだ)


 特に怪しまれることもなく、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ったことで教室に入った。

 懐かしい自分の席で、中学の生物の授業を受ける。教壇の教師は、この奇妙に繁殖した木々が、人類の驕りと科学の暴走で生まれたことを語る。


 ある時、環境改善のためといって全世界が緑化の研究に取り組んだ。

 そして生まれたのが、短期間で成長する草などだ。その植物は、日光の他には空気中の水分で十分な成長を促せるものだった。このため、たとえ植えたのが荒れ地のような場所でさえ、過剰な栄養となってしまった。

 まるでチョコレートの噴水のように、どろりと膨らんでいき、その勢いのまま成長していく。

 何より問題は、文字通り爆発的な繁殖をしたことだった。

 見る間に瘤のように膨らみ、それが重なり合い、その急激な成長と圧力に耐えられず破裂してしまう。当初は大量の粉塵が発生することが問題となったが、真の危険はその後だった。当時の研究者は成長の限界を見誤った。巨大化が進めば、破裂には殺傷力が備わってしまう。一般的な民家などは耐えられず、次々と呑みこまれていく事態になってようやく、今度は軍を上げて除去に奔走する。あまりに広範囲のせいで、他への影響を考えれば枯葉剤を散布するわけにもいかず、従来の製品では効き目も悪い。そこで、特効薬として開発した薬液を巨大な注射針で刺して回るという長い奮闘の末、現状の平和を取り戻したのだ。


 初めて詳しく説明される授業だったと、繁茂はぼんやりと思い出していた。

 これが当たり前の時代に生きている繁茂だが、実際に他の生物とは育ち方も強度も違うことは理解できる。短時間で目に見えて成長し、街を覆いつくしてしまう植物など他にはない。

 今では国の剪定省が管理をしているが、追いつかない末端のご家庭では遺伝子工学製剤『Boundup』などが手放せない。

 そうして、現在はこの奇妙な共生を成している。このままでどうにかなっているなら、自分が考える事でもない。

 そう結論づけ、彼女は目に映っている未来の問題から顔をそむけた。


 当時の繁茂は、ただ木々を見上げることをやめ、目を閉じたのだ。


 そして今、閉じた目の裏で高校二年生の繁茂の思考が、過去の時点で放棄していたこの微かな疑問に向き合う。


 繁茂にとって、別に今の街の光景が嫌なわけではなかった。自然――と呼んでよいのか分からないが――の力強さに感動もするし、そもそも人類の失態だ。始まりは地球規模の環境改善のためだったとなれば、ただ滅ぼせばよいというものでもないだろう。

 捻じれて捲れた樹皮が折り重なり、覆いかぶさるように積み上がっていく木々は、再利用も苦労していると聞く。現在も焼却熱利用だったりお箸を作ったりと、様々な取り組みはされているが、繁茂は考えてしまった。


 それでもまだ、何か、できることがあるんじゃないかって――何故、自分は進路で悩んでいるのか。その答えを見つけていた。


 ▽


 まだ、何か、できることがあるはず。


 中学時代の繁茂が抱いた己への問いが、高校生の意識に伝わった。それこそが、見失ってしまっていた、自分自身の未来への可能性だった。

 その強い自覚が、自然と高校生の自分へと統合されていく。そして、視界が再び白く灼け、全身を内側から弾けるような振動が包んだ。


 繁茂が目を開くと、体育倉庫の裏手だった。暗がりの下、錆びた金属のパイプを見下ろす高さで指先を触れたまま、大きく息を吐いていた。

 今しがたの、生々しい時間が身体を廻っているようで、混乱した感覚を深呼吸で落ち着けていく。


 思わず掴んでいた、過去の遺物をまじまじと見た。

 それは遺伝子工学製剤や装置の改善を重ねる過程で初期に放置されたもの。人は繰り返す。良く言えば試行錯誤だ。必ず成功するとは限らなくとも諦めるわけにもいかない。過去の当事者たちも、そう考えていたのだろうか。


 着慣れた高校の制服に戻っている。


 だが、すべてが戻ったわけではない。

 全ての考えを空洞にしてしまう白球の空間は消えており、邪魔をするものはない。

 頭の中の景色は、もはや「どこまでも続く真っ白な砂漠」ではなかった。思考の砂漠には、鮮やかな緑色の、一つの確固たる芽が伸びている。


 人類の一人ではあるが、繁茂の起こしたことではない。責任を感じる必要は無いだろう。けれど、繁茂は取り組みたいと思ってしまったのだ。

 罪滅ぼしだとか、誰かのためにだとか、そんなことは関係ない。ただ自分が目にしたから、気になってしまったから――それが、自身の未来と重なってしまったから。


 繁茂は校舎に向かって歩き出した。放課後には進路指導室へ。その足取りには、以前のような迷いはない。




 進路指導室の扉を開け、担任の前に座る。教師が再び「何か考えられたかね」と問う前に、繁茂は口を開いた。


「先生。私、進路を決めました」


 その声は、凛として揺るぎない想いに満ちていた。


「この木々の研究を突き詰めます。人類の問題の一つに取り組むのもいいかなと思って。向き合うことに決めました」


 繁茂は一度言葉を切ると、視線をまっすぐ担任に向けた。


「バイオロジーの道へ進みます」


 繁茂は堂々と進路指導室を出た。

 担任は思った答えと違ったのか、呆気にとられたまま頷くと彼女を見送った。その様子がおかしくて、くすりと、笑いが彼女の口から零れた。

 外は灼熱の陽射しの中だというのに、汗ばむ肌に絡む熱さえ清々しく感じられ、繁茂は伸びをした。


 過去の体験を糧に、かつら繁茂はんもは、自分の意思で選んだ本当の未来へと、力強く足を踏み出した。


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