The hotel
気づけば僕は、豪奢な装飾の施された回廊の真ん中に立ちすくんでいた。両脇には、無数の客室と思われる扉が並んでいる。
甚だ疑問だった。どうしてこの空間は、夢の中のように景色が入れ替わるのだろうか。プールにオフィス、そしてホテルときた。
この不可思議な変化に何の脈絡も見つけられないまま、ただ移ろう景色に翻弄されている。
やはりここは、現実ではなく夢の中なのかもしれない。
そう考える他ない。
よく考えなくてもわかる。誰がプールの隣にオフィスなんて作る?どうしてそこにホテルを建てた?考えれば考えるほどに意味がわからない。
やはりここに脈絡なんてない。現実ではない、どこか別の空間なのだ。
過ぎ去るドアを流し見しながら、僕はさりげなくまた頬を抓ってみる。でもやっぱり痛いだけだ。夢からは少しも覚めない。それどころか、意識がはっきりしてきた。
夢の中のようなのに、感覚としては現実に近い。奇妙な感覚だ。
ドリームコア……と言ったか。そんなものをどこかで聞いたことがある気がする。
夢の中のような景色……のことだっただろうか。そういうサブカルには疎いが、その不気味な画像がやけに鮮明に思い出される。
「気味が悪い」
そう思った。
段々と気分が悪くなっていったのを覚えている。このまま直視していると、まるで自分が自分で無くなるような気がしたのだ。
いけない。思い出したらまた体調が悪くなってきた。
苦しむ身体をいなすように少し猫背になりながら、僕は変わらず人気のない回廊を歩いていた。
そういえば、先ほどから並んでいる扉の部屋番号が変わっていない。
『四〇四』
そう書かれたプレートが、歪に光っていた。
まさか、同じ場所をループしていたりしないだろうな、なんて自分の足取りを疑ってみる。何回廻ってみても、そこにあるのは微かな僕の足跡だけだ。
その先には何もないことを確認する。
「ん?」
ふと、一室のプレートが少しずれているのが気になった。
そのままドアノブへ手を伸ばす。扉を押し、客室の中へと入る。その後に何が起こるかなんて考えもしないで。
中は、特に変わったところはないホテルの一室だった。強いて言う事があるなら、かなり高級そうな場所であることだろうか。
ベッドはかなり大きいし、テレビも大きい。
そして、誰も居ない割に中は驚くほど清潔に保たれていた。いや、誰も居ないから、と言ったほうが正しいだろうか。
どちらにせよ、ホテルとしてはかなり好感の持てるものだ。こんな空間に無ければの話だが。
ふらつく足でベッドへと向かい、その手触りを確かめる。ふかふかのふわふわだ。
さぞ寝心地は良いのだろう、と思う前に、既に僕の身体はその中に吸い込まれていた。
大学の講義が終わりバイトが終わり、疲れ果てた身体で自室のベッドへ飛び込んでいたのを思い出す。まさに、それと同じ感覚だ。
歩き回って慣れない疲労を抱えた身体は、やがてそのまま眠りについてしまう。
それは、先ほどまでの気絶のようなものではなく、しっかりとした「睡眠」だった。
――
はっ、と窓の無い部屋で目を覚ます。辺りを見渡しても時計は見当たらない。
時間を確認しようとスマホを取り出すも、とうに電源は切れてしまっていた。充電をしようにもまず充電器もコンセントもない。今度こそ、正真正銘のひとりぼっちになってしまったわけだ。
「……まあ、いいさ。」
ひとりぼっちは慣れてる。
軽く溜息をついて、僕は手元のリモコンでテレビの電源を付けた。
電源が付いたことには驚いたが、その後は予想通りというか、砂嵐のままだった。当然、そこから得られる情報なんて微塵も無い。頼れるものが何も無いまま、一人で歩かなければいけないのだ。
握りしめていたスマホをポケットに戻し、ベッドから立ち上がる。
まるで旅行の最終日のような名残惜しさも少しありながら、僕はまたあの回廊へと戻る。
また、何も変わらない殺風景に打ちのめされそうになる。
また、何かに殴られるような痛みが僕の頭を襲う。
「……まただ」
段々と強くなる痛みの中、なんとか意識を保ちながらも壁伝いに歩く。
ふと、慣れない感触が手に当たった。ひんやりと冷たい。金属だろうか。
そこで横を見ると、金属のフレームで枠取られた大きな扉があった。他とは違い、異様に豪華だ。
僕は瞬時に、この扉の先は他とは違うと確信する。
そして、その重い扉に身体が傾くほどの体重を掛けた。
ゆっくりと開く扉、その先にあったのはホテルのロビーだった。切り取られた空間に佇むフロントに、わざとらしく作られたような観葉植物。肝心の出入り口の前は鉄格子で塞がれてしまっている。
「これじゃあ出られないじゃないか……」
抱いていた微かな希望を吐き捨てる。まあ、これまでの事を考えればこれくらい想定の範囲内だろう。だからどう、という訳でもないが。
そして、当然のようにフロントに人の影はない。普通なら当たり前に誰かが立っているカウンター越しの空白も、やはり誰かがいないと寂しいものだ。
何も無いのを確認し、僕はその空間から去ろうとする。
ころん、と、何かが僕の足にぶつかって転がるのを感じた。
「……?」
足下に転がっていたのは、一本のペットボトル。中身は空だが、お茶が入っていた事を示すラベルは貼られたままだ。それどころか、ほんの少しだけ液体が残っている。
紛れもなく痕跡だった。
ここに来て始めて、誰かがいたであろう痕跡を見つけたのだ。
不思議なことに、誰かを見つけたわけでもないのにこれだけで自然と気力を取り戻している。
もしかしたら、この空間の生み出したものかもしれない。そんな考えも、確かにあった。
それでも今はそれ以上に、「誰かがいたかもしれない」ということが分かったのが本当に嬉しかったのだ。
「会ったら話をしよう。そして、二人で笑い合おう」
なんて、知りもしない誰かに思いを馳せる。それが現実かも分からないのに、僕はまたその境界に幻想を視てしまっている。
幻想だっていい。いい加減、そろそろ夢でも見させてくれ。
自然と顔が綻ぶ。ここに来てからずっと強ばっていた身体が、心が。少しだけ解れるのを感じた。
「よし、行こう」
立ち上がった僕は、ふらつく足でまた大きな扉をくぐる。
なんとも運の良いことに、すぐ目の前にはエレベーターがあった。
ボタンを押すと光が点滅し、すぐに扉が開く。その中では、妙に陽気な音楽がかかっていた。
この状況でこんな曲を聴かされても、と少しうんざりする。きっとここを造った奴はたいそう性格が悪いのだろう。いつか文句を言ってやろう、絶対。
そうして中へ入った僕は、たった一つそこに在ったボタンを押す。不自然なことに、何も書かれていなかった。
エレベーターのボタンならば、普通は何階とか書いている筈だ。
どこに行くのかわからない。そんな恐怖はあった。
でも、これまでもう何度も経験してきた。
扉を開ける度、その先には何の脈絡もない空間が広がっていた。
きっと、まだ出られないのだろう。
だったら、進むだけだ。
チーン、と鳴る音がエレベーターの到着を告げる。
そのころにはもう、オーディオの音色は崩れ去っていた。
その重い扉が、ゆっくりとスライドしていった。