The office
そんなことは、なかった。そんなに甘くはなかったらしい。
やけに重い扉を開けた先待っていたのは良く見知ったあの世界では無かった。
いや、正確に言えば似通ってはいる。でもやはり、どこか違和感を拭いきれないのだ。
目の前に広がるのはだだっ広いオフィス。明かりのないモニターが並び、隣には不自然な程間の開いたデスクが同じ感覚で並んでいる。
そんな景色が、見渡す限り延々と続いているのだ。
扉の向こうの景色を思い出す。無限に、無機質な白いプールが続いていた。
今、また同じように。今度は違う景色が繰り返されている。
相も変わらず無機質で、人の気配は微塵も感じない。
また、孤独だ。
「クソッ!何でだよ!」
力任せに目の前のモニターを殴りつける。枝分かれした川の流れのようにヒビが入る。
そのまま止まらずにデスクを蹴りつける。ガシャガシャと、聞き慣れない激しい音が響いた。
全部壊れても、僕には何も残らない。ならいっそ全部壊してしまおうと暴れ回った。端から見れば、きっと僕は狂っていたかもしれない。
でも、仕方なかった。突然こんな空間に放り込まれ、また出られないなんて。耐えられるはずがないだろう。
「なんで、なんでだよ!」
床に散らばった何かの破片を踏みつけ蹴り飛ばす。抑えきれない苛立ちも怒りも、この先どこへ飛ばせばいいのかまったく分からない。ただそこにあるのは、砕け散った過去の残骸だけ。
「はあ……はあ……」
気付けば疲れ果てて床に伏していた。手と足が痛む。荒い呼吸はまた収まらず、もう何回も同じように抑えようとしている。
こんなところで無駄に体力を使うなんて、本当に馬鹿だな。と、また今更になって言葉を唱える。
「はあ……もう、いいよ。どうせ出られないんだから。」
最後の力を振り絞るように、目の前にあった何かの機械を投げる。ガン、と壁に当たって落ちた。そして、僕と同じように床に伏す。
ふと目を上げると、そこにはたくさんのガラクタが散らばっていた。
全部僕がやったんだと、今更になって罪悪感なんてどこにも無いが。むしろ、良いストレス発散なんじゃないか。どうせ誰もいないんだ、好きにしたっていいだろう。
「ははは」
自然と笑い声が出てくる。こんなに絶望に呑まれているのに、笑う気力はあるんだな。
「帰りてえよ……はは……はあ」
無気力に言葉が流れる。全部、誰にも届かず消えていく。
空調の音が、やけに不気味に響くのが気に障った。この空間を照らしているはずの電灯は不規則に点滅を繰り返すし、何故かデスクの並びは不均一。
不気味だ。
やっぱり、狂ってる。
何も考えずに立ち上がる。ただ目の前を見て、その奥の暗闇を見つめた。
明かりの付いていない場所がある。それがどうにも頭から離れない。
そのまま覚束ない足で歩みを始めた。
何回か、打つような痛みが僕の頭を襲う。いつもの薬を飲まないと。
「あ」
家に、置いてきてしまった。夜にふらっと外へ出たものだから、持っている筈などない。
痛みは治まらない。叩きつけるように、次第に大きくなっていく。
空調の音が、大きくなってきた気がする。暗闇は近く、明かりは遠い。
モニターには何かが映っている。何かはわからない。でも、僕を見ている。
やめろ、こっちを見るな。
痛い、痛い、痛い、
怖い、怖い、怖い、
どうしようもない恐怖が、僕の身体を両手で抑えつけていた。今まで苦しみを抑えつけた分、同じように苦しみに囚われている。
僕は、その場で頭を抱え蹲る。耐え難い痛みだけが、今の僕の全てだった。
電灯は次第に点滅を速める。もう何も見えないほど。
視界が揺らぐ。重く響く音は、ノイズのように僕の視界すら邪魔する。
だんだんと、何も分からなくなってくる。
そして、全部が無くなった。
――
「っ!?」
目を覚ました時、目に飛び込んできたのは真っ白な天井と明かりのない電灯。
未だ煩わしい音は鳴り止まない。
身体を起こし辺りを見回してみると、停電でも起きたのか、真っ暗闇に包まれていた。
先の見えない不安に押しつぶされそうにはなったが、幸い不思議なことに頭痛は止んでいた。
もう何回も、孤独と恐怖に襲われてきたと、再び深呼吸をして立ち上がる。
ここから出られる保証は何処にも無いけど、何故かこのまま進まなければいけない気がした。
……ここでずっと立ち止まっているよりは、動いた方が出口も見つけやすい。
どうしてこんな大切な事に気付かなかったのだろう。
きっと、それほどに僕の頭は恐怖に支配されてしまっていたのだ。
もう、なるべく立ち止まらないようにしよう。
そう決心して再び歩き始める。
一方向に歩き続け、空間の端に辿り着くことを願った。
そうして歩き続け、数えられないほどの時が経った。スマホの画面は、二時間と十六分の経過を示している。孤独というのは恐ろしいもので、時間の進みすら遅く感じてしまう。
そして僕はついに、目の前に木製の扉を見つけた。
ドアノブに手を掛け、恐る恐るその奥を覗き込む。
わかってはいたが、出口では無かった。
その奥には、オフィスの廊下らしきものが広がっていた。僕が出てきたのは、丁度その突き当たりの場所。
見れば、その先には何十、いや、何百もの同じような扉が広がっていた。その全てが、また同じような空間に繋がっているのだろうか。
……考えただけで吐き気がしてくる。もう、見ない先のことはなるべく考えないようにしよう。
そうして僕は先の見えない廊下をひたすら歩いて行く。
途中、いくつか窓があるのが見えた。外は暗闇で、その奥には何も見えない。
ふと、僕はこの窓ガラスを割って脱出できないかと考えた。今できうることでは最善ではないか。
すぐ傍にあった扉から再びオフィスへと戻り、そこにあった椅子を持ち上げる。
狭い扉に少し引っかかりながらも、なんとか廊下に出た。
あとは、これで割るだけ。
そうして僕は、疲れた腕で椅子を振り上げた。
意外にも、振り下ろした先の窓ガラスは普通に割れた。がしゃん、と音が誰もいない廊下に響く。
すぐに僕は椅子を置いて窓の外へ首を伸ばした。
変わらず、外は闇。僕の視界に入るものは何も無い。
下を覗き込んでも、どこまでも広がる闇が変わらず在るだけだった。
僕は試しにそこに椅子を投げ込んでみる。すぐそこに地面があるのなら、すぐに落ちた音が聞こえるだろうと思ったからだ。
「……」
十秒、二十秒と時間が過ぎていく。何も、音は聞こえない。いくら耳を澄ましても、聞こえてくるのは自分の息の音だけ。
それほどに地面が遠い場所にあるのか。或いは、外に地面なんて無いのか。
どちらにせよ、ここからは出ないようにするのが得策だった。
結局、どこからも外には出られない。このまま、出口の見当たらない不気味な空間を進んでいくしかないのだ。
そんなことを、下を覗き込みながら考えていた。
ここにはもう、僕の当たりたかった夜風はどこにもない。
息を呑んで、再び廊下へと身を戻す。
そしてまた向き合う。終わりの見えない廊下へと。
一歩、また一歩と進む。終わりが見えなくても、進むしか無いのだ。
早くここから出ないと、なんて、使命感にも似た妙な感覚を覚える。
そして僕はその度に、幾度となく折れかけた心をテープで繋ぐように修復する。
まだ完全に折れない内に。僕が、まだ僕でいられる内に、帰らなくては。
絶え間なく歩き続ける。まるで奥に吸い込まれるように。
夢中で歩いていた僕は気が付かなかった。
知らぬ間に、辺りの様相が変わっていたことに。