The pool
太腿に当たる感触にふと懐かしい感覚を覚え、ポケットに手を入れる。
取り出したのはスマートフォン。別に救われたわけでもないのに、その見慣れた画面に安心してしまう。
さっきプールで溺れてしまっていたが、問題はない。何故なら、僕のスマホは防水仕様だから。
と言っても最近のものは大抵そうだろうが、それでもスマホが水没するなんてことは滅多にないのでこの仕様には感謝してもしきれない。もしかしたら、僕よりスマホの方が水の中が得意だったりしてな。
……なんて、乾いた笑いを溢してみる。こんなことをしても、一緒に笑ってくれる人は一人もいない。
その瞬間、物凄い孤独感に襲われる。
こんなことになるなら、余計な事をしないほうがよかった。
……そんなことよりも、僕はスマホに用があるんだ。
はっとして僕は再びその画面を見つめる。
自分が何処にいるのか分からないなら、とりあえずは地図アプリを見るだろう。
そうして僕の指はアプリの並ぶ画面を動き回る。いつも触っていたはずなのに、手が震えてうまく操作ができない。
やっとたどり着いたグループ化されたアプリたちの奥底。地図アプリ自体はあまり使わないものの、こうして場所だけはどうしてか覚えている。
内部化、と言ったか。スマホは僕たちの身体と一体化していて、もう既にその境界はなくなっているのかもしれない。
もしそうだとして、今の僕は本当に僕なのだろうか。
なんて少し哲学的になりながらもアプリを開く。
「……」
ぐるぐる回っている。ロードが終わらない。
そしてそれに続いて映し出される『インターネットに接続されていません』の文字。
まさかと思って画面の左上を見る。
『圏外』
確かに、そう書かれていた。
「クソッ!」
湧き出る怒りに任せて壁を殴る。当然、びくともしない。
まあ、こんな訳のわからない場所でネットが繋がる方がおかしい。相場はこんなもんだろう、分かってたさ。と言葉を並べて納得してみる。
納得なんて、できるはずもないが。
そのまま壁伝いに床に座り込む。今になって、また深い不安に押しつぶされそうになっている。
誰も助けてくれないのに、本当にここから出られるのだろうか、と、絶望だけが僕の隣を歩いている。
荒くなる息を抑えつけるように、僕はそのまま少しの眠りについた。
――
「誰かー。誰かいませんかー」
目を覚ました僕は、もしかしたら誰かいるかもしれない、一緒に行動できるかもしれないなんて考えている。
考えてみれば、今のところこの空間に食料も水も見つけてないのに体力を消費するのはあまりよくない。つくづく自分の馬鹿さを痛感する。
「はあ……」
溜息を漏らしながら、変わらない殺風景な白の中を歩いていた。
足音と、水の流れる音が闇の中に消えていく。強い塩素臭は、小さいころに通っていたスイミングスクールのことを思い出させる。
天井に空いた小さな穴から微かに流れ込む光は、まるでこちらを照らす気がないようだ。
空調か何かか。どこからか、低い音が響いてくる。煩わしいほど、不気味なほど不自然に反響する。ふと見つめた足元の薄汚れたタイルが不快で、すぐに目を上げた。
また、小さい頃のスイミングスクールの事を思い出している。
石造りの床のタイルの隙間が、よく汚れていた。更衣室の床の、不自然に凹んだところに溜まった水が不快で堪らなかった。
だから、プールというものにあまりいい思い出はない。今こうしてあまり泳げなくなっているので、いよいよ通っていた意味もない。
僕の親はなんて無駄なことをしたんだと、また束の間の回想に浸っている。こうでもして目の前の現実を見ないようにしないと、どうにかしてしまいそうだ。
ところでさっきから僕は何度も見ているわけだが、どうしてかこの空間は同じような殺風景が延々と続いている。
どこまで行っても真っ白なプール。気が狂いそうだ。
一体いつまでここを彷徨い続ければ良いのだろう。
稀に見る、水底へと続く銀色の手すりさえ愛おしく感じてしまうほど、僕の心は次第に白に吞まれていった。
「……ん?」
不意に、視界の奥に何かが映った。それは、ひどく平面的なこの空間で一際目立つ立体構造。
螺旋階段が、そこにあったのだ。
「どこか別の場所につながっているかもしれない。あわよくば、出口に」
そう直感した僕は駆け足でその場所へと向かっていく。
その空間はほかの場所よりも明るくて、まるで祝福されているように感じた。ここが出口なのではと、そう信じ込んでしまうほど。
壁まで延びる僕の影を見送り、階段の上を覗く。
そこにあったのは、ただの天井だった。
期待した、僕が馬鹿だった。
結局、何もないんじゃないか。
「……クソが」
何もないなら、どうしてこんなものをここに作ったのだろうか。
紛らわしいものを作るな、と怒りが湧き出る。
でも、それよりも何か言いようのない不安が次第に強くなっていくのを感じた。
僕は、それを暈すために怒りを増幅させていたのかもしれない。
不気味で、仕方がないのだ。
普通ならば、こんな意味もないものを作らない。それなのに、どうしてこんなところに意味ありげに螺旋階段があるのか。僕には全く理解できない。
何かわからないから、理解できないから怖いのだ。
何処にも続かないその階段の行く先を眺めながら、僕はまた荒くなった呼吸を抑える。
心臓の拍動が速くなる。そこには何もないのに。広がっているのは、タイルの敷き詰められた天井だけなのに。真っ白なタイルが。
「っ、あああああああああああああ!」
おかしい。なんなんだこの場所は。
早く、ここから出ないと
「そんなことはわかってんだよ!」
意味もなく叫んで、そのまま走り出す。
どこに行くべきかなんて、わからないのに。
僕は一体、どこへいこうとしているのだろう。
――
「はあっ、はぁっ、」
息を切らして走り回る。
途中、さっきと同じような螺旋階段がいくつかあった。
また天井に向かっていくもの、それから床に空いた大きな穴の闇に吸い込まれていくようなもの。
全部、全部信用できない。
また、突然天井が低くなる場所もあった。
電灯がないのか、完全な暗闇に包まれている。
そんな中で、水に「何か」が浮かんでいるのが見えた。それが何なのかは、知りたくなかった。
気が付けば逃げるように走っていた。
クネクネと不自然に曲がりくねった道を、ただひたすら道なりに一方向に進んでいく。
気持ち悪い、気持ち悪い。
構造が、色が、匂いが。全部気持ち悪い。
言いようのない不安、それは確実に恐怖へと変わり僕を蝕む。
怖い、怖い、怖い、こわい、こわい、こわい
ここから出たい。
――
「はあ……はあ……げほっ」
息を切らした先、非常用出口のような、銀色の扉の前で立ち止まった。
ようやく見えた、出口らしきもの。
僕は迷わずそのノブに手をかける。捻ってドアを引いた先、その奥に微かに光が見える。
戻れる。
そう思った。