Fall into the liminal
ほんの好奇心というか。正直に言えば、これと言った動機なんて微塵も無かった。ただ単純に、夜風に当たりたいなんて思ったのだ。
そうして飛び出した夜の街は、驚くほどに静けさに支配されていた。不思議なほど、感じたことの無い感覚が僕を襲うのだ。
静寂すらうるさく感じてしまうような夜闇の中、僕は特に考えずに近場の公園へと向かった。
歩みを進めれば、次第にそこには見慣れた遊具が見えてくる。単色の、ありきたりな赤い滑り台。上下左右が壁に囲まれるタイプのものだ。
ふと、僕はその中に滑り込みたくなった。深夜の冷えるような空気の中、何処にも流れない風を切ってみたくなったのだ。
手を掛ける手すりは、幼少期ぶりだがいつにも増してひんやりとしていた。どこか遠くに灯る光を掴んでいる感覚。この先に落ちていくなんて、当の僕は行き場の無い希望ばかりに駆られて目の前すら見えなくなっていた。
そして、そのまま吸い込まれていく。その仄暗い穴に。
不透明に囲まれた空間。はっきりと、境界で区切られている。はっきり言って、あまり心地良くは無い。小さい頃ならば、早くここから出たいと願ったはずだ。
誰もいないような妙な空気に当てられ、僕は急いで下へと滑り落ちる。
落ちる。
落ちている、はずなのだが。一向に終わりが見えない。
開ける筈の視界は、未だに闇に包まれたまま。
なんだか突然恐ろしくなって、 僕は走り出すようにその落下を速めた。はやくここから出たいと、頭の中に鳴り響くその声は次第に大きくなっていった。それが、なにも無いこの空間に反響するほど。
なにも、聞こえないのに。
――
その瞬間、僕の身体は水底に沈む。深く堕ちて、青に染まっていく。
身体に流れ込んで来る塩素臭。それに耐えきれずに息を漏らしてしまう。
「ぐっ……!うぐっ、」
なんとか水面に上がる。それと同時に激しく咳き込んだ。その衝撃でまた沈んでしまいそうだ。
「がっ、うっ、ぐぁっ、」
藻掻き続け、なんとか手で陸地らしきものを掴む。そのまま残りの力を振り絞ってその上へと上がった。
「はあ……はあ……がはっ、」
水の混じった深い呼吸、こんなものでも酸素は自然と僕の身体を巡るらしい。
徐々に力を取り戻す身体で、僕は立ち上がるのだった。
でも次の瞬間から、僕は目の前の現実を受け入れられずにいた。
……いや、これは「現実」なのか?
目の前に広がるのは大きなプール。それも、底が見えないほどに深い。
その青以外は無機質な白で包まれている。微かに灯る電灯の光も弱く、全体的に薄暗くて気味が悪い。
「……なんだよ、これ」
確かに僕は、夜の公園で滑り台に身を任せた筈だ。どうして今、こんなところにいるのか。
悪い夢でも見ているのかと思い、頬を抓ってみる。
痛い。
もっと強く抓る。もっと痛い。
眠りに落ちた友人、或いは兄弟を起こすように、さらに大きく肌を抓った。ひっぱたいたりもしてみた。
それでも残念なことに、僕の目は覚めなかった。
先ほどと同じように、僕は目の前の現実を受け入れられずにいる。
今自分が何をすべきなのかも、何もわからないのだ。
「はやくここから出たい」
と声が反芻する。それは、あの滑り台にいたときと同じ感覚だった。
突然、どうしようもない不安に襲われる。
「早く、ここから出なければ」
思い立った僕はまず自分の来たであろう方向へ向く。来た道を戻ればきっと元の場所に戻れると思ったからだ。
そこには確かに、僕の滑ってきたのと同じような滑り台があった。
でも、それは一つじゃ無かった。
まるで絵の具をぶちまけたような、色とりどりの穴が暗闇を覗かせる。
七つ。数える限り、それだけの出口があった。
僕が来たのは赤色の筈だ。
僕は赤色の滑り台に駆け寄り、中を覗く。どうにかしてここを上れば、きっと戻れる筈だ。
……なんて考えは、甘いだろうか。
いや、戻れるに違いない。そう信じて上へ上がっていく他なかった。
――
三十一回。わざわざ数えているのが馬鹿らしい。
どうにも、上がった先は同じような空間へ繋がっているようだ。そして僕はその先でまた同じような滑り台を見つける。そしてまた上がる。それの繰り返し。
僕は悟った。僕の思うような方法で、ここから出ることは出来ない。
ひどい絶望感に襲われている。こんな感覚は、生まれて初めてだ。
何もわからないまま訳の分からない空間に放り出され、挙句の果てには出られないときた。
これを繰り返したところで、僕は戻れるのだろうか。その頃には、僕は僕でいられるのだろうか。何も、わからなかった。
「早くここから出たい」
声が煩く響く。気付けばそれは声となって口から漏れ出ていた。
滑っていたあのときから感じていた言いようのない不安。それが今になって耐えきれなくなってしまったのだ。
「……ここから出ないと」
無意識のうちに僕の身体は立ち上がる。とにかくこの不安から、恐怖から脱却したいという願いだけで動いている。まるで機械仕掛けの人形だ。
「はあ……はあ……」
整わない呼吸のまま辺りを見渡す。
すう、と大きく息を吸い、気持ちを落ち着ける。
息を吐く頃には、すっかり視界は拓けていた。
そうして僕は歩き出した。
塩素臭漂う無機質なプールを。