堕落
トライアル期間の終了と同時に、私は最も安いスタンダードプランを選択した。月額¥45,000、給料の約35%がNeoCorp社に流れる計算になる。
最初の数ヶ月は何とか支払いを続けることができた。貯金を切り崩し、外食を減らし、余計な出費はすべて削った。しかし、その生活は次第に重荷になってきた。
そして、追い打ちをかけるように、会社から人員削減の通達が来た。
「市場競争の激化に伴い、組織のスリム化を図ります」という美しい言葉の裏に、冷酷な現実があった。社員の20%が解雇される。
リストに私の名前はなかったが、給与の10%カットが全従業員に適用された。これで、エターナルマインドの支払いは給料の約40%を占めることになる。
矢島は解雇リストに名前があった。
「どうするんだ?」私は心配して尋ねた。
「知らないよ...」彼は虚ろな目でコーヒーを見つめていた。「今の貯金じゃ、せいぜい3ヶ月しか支払えない」
「他社に転職は?」
「試してるよ。でもどの企業も不況で採用凍結してる。それに、エターナルマインドユーザーの採用に慎重な会社もある。『死なない社員は昇進枠を塞ぐ』って言われたよ」
皮肉な話だった。不死が手に入った代わりに、雇用市場での価値が下がる。
一方で、NeoCorp社は着実に成長を続けていた。エターナルマインドの利用者は全世界で5億人を超え、彼らの「基本的生存権」を握るNeoCorp社の力は絶大だった。
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私の経済状況は徐々に悪化していった。
給与カットに加え、インフレが進行し、実質的な収入は更に減少した。借金をしながらなんとか支払いを続けていたが、限界が見えていた。
それでも、「データ提供型プラン」に落ちるのだけは避けたいと思っていた。同僚の一人がそのプランに移行した後、彼の様子が急に変わったからだ。
「何か...変わったことある?」ランチタイムに私は彼に尋ねた。
「特にないよ」彼は笑顔で答えたが、その目は笑っていなかった。「ただ、時々頭が...空っぽになる感じがするかな」
「どういう意味?」
「うーん、説明しづらいんだ。数分間、意識がどこか別の場所に行ってる感じ。戻ってくると、少し疲れてる」彼は肩をすくめた。「小さな代償さ。死ぬよりマシだしね」
後日、別の「データ提供型」の同僚が、突然発作を起こして倒れるのを目撃した。彼は数分間、激しく体を震わせた後、何事もなかったかのように立ち上がった。
「大丈夫か!?」
「ああ...心配ないよ」彼は少し混乱した様子で答えた。「たまにあることなんだ。彼らが...深く潜りすぎると起きる」
「彼らって?」
「NeoCorp社のデータマイナーたち」彼は小声で言った。「俺たちの脳を...調査してるんだ。特に感情が強く出る時の神経回路に興味があるらしい」
私は恐怖を覚えた。そういえば、最近「データ提供型プラン」のユーザーが増えていた。彼らの多くは、突然の感情爆発や、短期的な人格変化を経験しているという噂があった。
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そして、ついに私も限界を迎えた。
3ヶ月分の支払いが滞り、NeoCorp社からの最終通告が届いた。
>お客様のアカウントは重大な延滞状態にあります。72時間以内に未払い金をお支払いいただけない場合、自動的にデータ提供型プランに移行されます。
私は恐怖に震えながら、最後の手段として親に連絡を取った。しかし彼らも、既にエターナルマインドの支払いで苦しんでいた。
「すまない、直人...私たちにも余裕がないんだ」父の声は申し訳なさそうだった。
72時間後、私の意識に変化が訪れた。
まるで脳内に別の存在が侵入してきたような感覚。私の思考、記憶、感情がすべて透明になり、誰かに観察されているような気分だった。
NeoCorp社からのメッセージが届いた。
>データ提供型プランへの移行が完了しました。あなたの意識データは現在、NeoCorp社の研究部門および提携AIシステムによって活用されています。通常の生活への影響を最小限に抑えるため、主な活用は睡眠時間中に行われます。
その日から、私の睡眠は変わった。夢を見なくなった。いや、正確には夢を「覚えていない」。目覚めると、異常な疲労感と、何かを失ったような感覚が残る。
時々、日中でも「欠落」が発生するようになった。数分から数十分の記憶が突然消失する。その間、私の体は動いているようだが、意識はどこか別の場所に行っている。
矢島も同じ状況だった。彼は解雇後、新しい仕事を見つけられず、すぐにデータ提供型プランに移行していた。
「なあ、おかしいと思わないか?」ある日、彼が震える声で言った。「俺たち、モルモットになってるんじゃないか?」
「どういう意味?」
「俺が『欠落』している間、意識はどこにあると思う?NeoCorpの実験室さ。彼らは俺たちの恐怖、怒り、喜び...あらゆる感情反応を研究してる。人工知能に人間らしさを学ばせるためにね」
彼の陰謀論めいた話は、以前なら笑い飛ばしていただろう。しかし今は、不気味なほど説得力があった。
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ある晩、私は激しい悪夢から目を覚ました。
悪夢の中で、私は狭い金属製の部屋に閉じ込められ、様々な恐怖シナリオに繰り返し晒されていた。火災、溺死、高所からの落下...そして最後に、自分自身の解剖を観察するという恐ろしい体験。
冷や汗で体が濡れたまま、震える手で水を飲もうとした時、画面にNeoCorpからのメッセージが表示された。
>お疲れ様でした。あなたの恐怖反応データは、当社の感情AIの開発に大いに貢献しました。明日から新しい感情スペクトラムの検証を行います。
私は激しい吐き気を覚えた。これは合意していたことなのか?契約書のどこかに書いてあったのか?
次の日、矢島に会うと、彼もまた同様の経験をしていた。しかし彼の「実験」はより過酷だったようだ。
「もう耐えられない」彼は震える声で言った。「毎晩、殺される夢を見る。様々な方法で。そして何より恐ろしいのは...夢の中で感じる『観察されている』感覚だ」
私たちは静かに、互いの状況を理解し合った。不死を得たはずが、永遠の実験台になっていた。
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そして、ついに「労働貢献型プラン」への通知が届いた。
>データ提供型プランでの貢献期間が6ヶ月を超えました。あなたの負債状況を鑑み、より効率的な債務返済のため、労働貢献型プランへの移行を提案します。週20時間のリモートワークにより、あなたの負債は効率的に減少します。
一見すると良い提案に思えた。実験台になるよりは、働いて借金を返す方がマシだ。
しかし、詳細を読むと不安が増した。
>労働内容:NeoCorp社指定の業務
>勤務形態:リモート(意識接続型)
>報酬:既存債務からの控除
>契約期間:債務完済まで
「意識接続型」とは何か?問い合わせると、自動応答が返ってきた。
>意識接続型勤務では、あなたの意識は専用のバーチャル環境に接続され、指定された業務を遂行します。物理的な体は安全な状態で維持されます。
つまり、私の意識だけが「出勤」し、何らかの仮想空間で働くということらしい。
矢島はすでにこのプランに移行していた。会った時、彼の目は虚ろで、極度の疲労感を漂わせていた。
「どんな仕事をしてるんだ?」私は恐る恐る尋ねた。
「...言えない」彼は小声で答えた。「契約で口外禁止になってる。でも...人間にしかできない判断業務だ」
彼の様子から察するに、それは精神的に過酷な仕事のようだった。
「週に20時間って書いてあるけど...実際はどうなんだ?」
「時間の感覚が...違う」彼は言葉を選びながら話した。「向こうでの8時間は、こちらの1時間くらいに感じる。だから週20時間と言っても...」
彼はそれ以上話せなかった。契約違反になるからだ。しかし、その表情から十分に想像できた。彼らは時間の流れを操作し、より多くの労働を搾取しているのだ。
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結局、私にも選択肢はなかった。
データ提供型プランでの「実験」はますます過酷になり、私の日常生活にも支障をきたすようになっていた。常に疲労感があり、時々突然の恐怖や怒りの発作に襲われる。
NeoCorp社の提案を受け入れ、労働貢献型プランに移行した。
初日、私は自宅のベッドに横たわり、特別なアプリを起動した。
「労働接続を開始します。リラックスしてください」
世界が溶け、私の意識は光のトンネルを通過するような感覚を経験した。そして次の瞬間、私は白い部屋に立っていた。
「草薙直人さん、労働貢献プログラムへようこそ」
機械的な女性の声がどこからともなく聞こえた。
「あなたは今から、NeoCorp社の特殊分析部門の一員として働いていただきます。具体的には、AI判断の検証と修正を担当します」
部屋が変化し、無数のスクリーンに囲まれたワークステーションが現れた。
「これから表示される映像やテキストを分析し、人間としての判断を入力してください。各判断に対して、詳細な理由や感情的反応も記録されます」
そして恐ろしい作業が始まった。
スクリーンには様々な状況が映し出される。事故現場、争い、時には暴力的な場面。それぞれについて、「この状況で最も適切な行動は?」「この人物の表情から読み取れる感情は?」「この状況は道徳的に許容できるか?」などの質問に答えていく。
時には、明らかに答えにくい倫理的ジレンマも提示された。「五人を救うために一人を犠牲にすべきか?」「どちらが苦しんでいるように見えるか?」
私の判断、そして何より私の感情的反応が詳細に記録されていく。これがAIの学習データになるのだと理解した。彼らは人間の道徳的判断、感情反応を収集し、より「人間らしい」AIを作るために利用しているのだ。
8時間後、接続が終了した。現実世界に戻ると、たった1時間しか経っていなかった。矢島の言った通りだった。
週に3回、各8時間(現実時間では約1時間)の労働。これが私の新しい生活リズムとなった。
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労働貢献型プランで働き始めて3ヶ月目、私は不穏な変化に気づき始めた。
仮想空間での作業内容が変わってきたのだ。単なる判断業務から、より複雑な状況の「経験」へと変化していた。
「今日のセッションでは、緊急状況下での人間の反応を記録します」
そう告げられた後、私は突然、バーチャルな戦場に放り込まれた。爆発音、銃声、叫び声。あまりにもリアルな恐怖体験。
別のセッションでは、極限状態での倫理判断を迫られた。「限られた資源で誰を救うか」「自分の命か、多くの見知らぬ人々の命か」。
これはもはや単なる労働ではなく、心理実験だった。そして恐ろしいことに、私の債務は思ったほど減っていなかった。むしろ、「追加サービス料」や「管理費」などの名目で、新たな請求が発生していた。
ある日、仮想空間での業務中に、見覚えのある顔を見かけた。矢島だった。彼も同じような判断業務を行っていたが、彼の表情は完全に虚ろだった。
「矢島!」
彼は一瞬、私の方を向いたが、すぐに視線を戻した。まるで私を認識していないかのように。
セッション後、現実世界で彼に連絡を取ろうとしたが、返信はなかった。数日後、彼のアパートを訪ねると、既に退去した後だった。
「彼はNeoCorpの施設に移ったようです」大家が言った。「多くの人がそうしています。債務が一定以上になると...」
不安が増した。行方不明になる知人や同僚が増えている。彼らはみな、エターナルマインドの重度の債務者だった。
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そして、私にもついに「最終通告」が届いた。
>お客様の債務状況が危機的水準に達しました。標準的な返済方法では、今後127年かかる計算となります。
127年。不死を得た代償は、永遠の債務だった。
>債務解決のため、「総合債務解決プログラム」をご提案します。NeoCorp社の特別施設で集中的な債務返済活動に参加いただけます。
添付されたパンフレットには、清潔で近代的な施設の写真と、「最短5年で債務解決可能」という謳い文句があった。
しかし、電話での問い合わせで、その真実が明らかになった。
「『特別施設』とは、具体的にどういう場所なのでしょうか?」
応答は冷淡だった。
「債務解決のため、お客様の身体と意識を当社の戦略的目標達成のために活用させていただきます」
「それはつまり...?」
「詳細は機密情報です。ただし、当社が関与する企業間競争において、人間の判断力と適応力は依然として貴重なリソースです」
電話を切った後、私は震えが止まらなかった。「戦略的目標」「企業間競争」...これが意味するのは「企業間戦争」ではないか。
かつての国家間戦争が、今や企業間の争いに取って代わられている。市場シェア、資源、テリトリーをめぐる闘争。そしてNeoCorp社は、債務者を「兵士」として使っているのではないか。
逃げなければ。しかし、どこへ?