永遠という名の罠
「永遠に生きられるって、考えたことある?」
同僚の矢島がそう言い出したのは、会社の休憩室でのことだった。私——草薙直人——は缶コーヒーを手に、少し疲れた表情で彼の顔を見た。
「ないな。どうせいつかは死ぬんだし」
「だからさ」矢島が身を乗り出してきた。「もうそれが変わるんだよ。NeoCorp社がついに『エターナルマインド』をリリースするって」
「あぁ、あの脳とサーバーを接続するやつか」
「接続どころじゃないよ!意識そのものをデジタル化して保存するんだ。体は交換可能になる。老いも病気も死も、すべて過去のものになるんだぜ」
私は苦笑いした。「何言ってんだよ。そんなの金持ちだけのサービスだろ」
「それがさ」矢島の目が輝いていた。「最初の1年間は無料なんだ。無料トライアルっていうか、市場拡大戦略らしいけど。もう俺、申し込んじゃったよ」
「無料で?」
「ああ。もちろん1年後からは月額が発生するけど、でも考えてみなよ。不老不死だぜ?」
私は思わずため息をついた。これまでもNeoCorp社は様々な「革命的」サービスを提供してきた。交通インフラの完全民営化、食料配給システム、さらには住居提供サービスまで。政府が形骸化した今、彼らは私たちの生活のほとんどあらゆる面を支配していた。
「無料プランには何か制限あるんだろ?」
「まあね。広告を見せられたり、匿名化されたデータ提供に同意する必要があるけど。でもタダだぜ?永遠の命がタダだ!」
休憩時間が終わり、私たちは自分のデスクに戻った。しかし、矢島の言葉は私の頭から離れなかった。
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その晩、私はアパートに帰って一人で夕食を食べながら、携帯端末でNeoCorpの「エターナルマインド」についての公式発表を確認した。
『人類史上最大の変革——死の克服』と華々しいヘッドラインが躍る。
>「エターナルマインド」は革命的な脳内チップを用いて、あなたの意識をデジタル化します。体は老いても、意識は永遠に。事故で体を失っても、新たな体への移行が可能に。初年度無料キャンペーンに今すぐ申し込みを!
公式サイトには成功事例として数名のモデルケースが紹介されていた。末期がんから「復活」した男性、事故で体を失いながらも新たな体で生きる女性。彼らの笑顔が画面から私を見つめていた。
スクロールを続けると、細かい条件が記載されたページにたどり着いた。
>無料プランでは、あなたの意識データの一部が匿名化された状態でNeoCorp社のサーバーに保存され、サービス向上のために利用されます。また、システム維持のため、1日12分間の広告視聴が義務付けられます。
さらに小さな文字で:
>有料プランへの移行後の月額料金は、利用者の状況に応じて個別設定されます。契約解除後のデータ取り扱いについては別途規約をご確認ください。
何か引っかかるものを感じたが、次の瞬間、矢島からメッセージが届いた。
「どうだった?すごいだろ?俺、明日手術受けるんだ。一緒にやろうぜ!」
私は深く考えることなく、「エターナルマインド」の申し込みページを開いた。指をスクリーンに滑らせると、大きな「無料体験に申し込む」ボタンが現れた。
一度きりの人生。それが無限に広がる可能性。
私は、迷いながらもボタンを押した。
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手術は驚くほど簡単だった。
NeoCorp社の最新医療施設で、私は半日だけ過ごした。局所麻酔の下、特殊なナノマシンが右脳と左脳の接合部に集中し、髪の毛ほどの細さの特殊なインターフェースを埋め込んでいく。痛みもなく、目に見える傷跡も残らない。
「これで、あなたの意識はNeoCorp社の量子サーバーに常時バックアップされます」医師が笑顔で説明した。「何か異常があればすぐに検知されますし、万が一の場合でも、最新のバックアップから別の身体に移行することが可能です」
「本当に...不死になるんですか?」私は半信半疑で尋ねた。
「そうですとも。既に二百人以上の方が、事故や病気で本来なら亡くなるところを、新たな身体で生き続けていらっしゃいます」
帰り際、看護師から小さな箱を渡された。
「こちらは緊急ボタンです。万が一の事態が起きた時、これを押せば最寄りのNeoCorp医療施設が自動的に対応します」
私はその小さな装置を懐に忍ばせ、施設を後にした。
何も変わらないような気もしたが、確実に何かが変わった。今の私は、草薙直人という存在が、単なる肉体を超えて存在するようになったのだ。
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手術から一週間後、矢島と私は久しぶりに外で食事をした。
「どう?何か変わった?」彼は興奮した様子で尋ねた。
「正直、普段は何も感じないな。たまに脳の奥で微かな振動を感じる気がするけど...」
「それそれ!俺もあるよ。あと、朝起きた時に昨日の記憶が鮮明すぎるっていうか」
私は頷いた。確かに最近、記憶の質が変わったような気がしていた。まるでHD画質の映像のように、昨日何を食べたかまで鮮明に思い出せる。
「あとさ」矢島が声を潜めた。「悪夢を見なくなったんだよね」
「え?」
「前は時々見てたんだ。仕事のプレッシャーとか、親が死んだ時の記憶とか...でも今はない。何か、ネガティブな感情が薄められているような」
私は眉をひそめた。「それ、ちょっと怖くないか?記憶や感情が...編集されてるみたいで」
「でもいいじゃん。辛い記憶なんて消えてくれた方が楽だよ」矢島はワインを一口飲んだ。「それより、もう試した?」
「何を?」
「緊急ボタン」彼の目が好奇心に輝いていた。「押すと何が起きるか知りたくて...昨日、軽く押してみたんだ」
「本当に?何かあったのか?」
「すぐにNeoCorp社から連絡があって、状況確認があった。問題ないって言ったらそれで終わり。でもさ、押した瞬間、なんか頭の中で『スナップショット』みたいなのを感じたんだ。多分、その時点での意識の完全バックアップが取られたんだと思う」
私は感心しつつも、どこか不安を感じていた。自分の意識が他者の管理下にあるという感覚。それは自由の一部を譲渡したということではないのか。
しかし、その不安はすぐに薄れた。無料で得られる不死の恩恵と比べれば、些細な代償だろう。
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そして、あの事故が起きたのは、手術から3ヶ月後のことだった。
矢島と私は休日を利用して山登りに出かけていた。彼は学生時代から登山が趣味だったが、私は初心者だった。
「この景色、最高だろ?」山頂近くの断崖で矢島が叫んだ。「こういう瞬間を永遠に記憶できるんだぜ。素晴らしくないか?」
彼の興奮に笑いながら、私も景色を眺めようと一歩前に出た。その時だった。足元の岩が突然崩れ、私は重心を失った。
「直人!」
矢島の叫び声が聞こえた気がした。私の体は空中に投げ出され、眼下に広がる谷底へと落ちていった。
恐怖、驚き、そして奇妙な諦め。様々な感情が脳内を駆け巡った。
「これで死ぬのか...いや、死なないんだよな。今はもう...」
そう思った瞬間、世界が暗転した。