許し父
その日の昼休み過ぎ、栄太郎のデスクの電話が鳴った。
「はい、もしもし」
「北島栄太郎さんでいらっしゃいますか?」
聞き馴れない男の声だ。栄太郎は一瞬、何かの電話セールスかと疑った。
「はい、そうですが」
「突然のお電話、失礼致します。私は県の笹熊福祉事務所の澤井と申します」
栄太郎はその名前を聞いて、嫌な予感がした。その澤井さんは続ける。
「実はお父様の長太郎さんが、お亡くなりになりました」
「ふーん、父が?」
そう言う栄太郎の口調は、かなり突っ慳貪だったかもしれない。
「お父様と栄太郎さんとの関係が悪かったことは、私も存じ上げております。ただ、お父様は身寄りが他にいないんですよ。お葬式だけでも上げて戴けないかと思いまして」
「あんな奴、父親でも何でもありませんよ!」
栄太郎は口調を荒げた。受話器に自分の唾がかかるのがわかる。
「それでは、せめてお骨だけでも引き取って戴けませんでしょうかね? 私どもは葬儀まではできても、お骨までは預かれないんですよ」
その相手の言い分がわからないでもない栄太郎だったが、その言葉がやや事務的に聞こえた。栄太郎は生活保護の地区担当員として葬儀絡みでは苦労も重ねてきた。だが、彼と父との確執は簡単に解れるものではなかったのである。この時の栄太郎は完全に頭に血が上っていた。
「いい加減にしてください。何で今更他人の骨を引き取る必要があるんですか?」
後々考えれば、それはケースの親族に言われ続けてきた台詞なのだが、どうしても言わずにはいられなかった。
「そうは言ってもね、お父様、最後は栄太郎さんに会いたいって言っていましたよ。好きだったお酒も断って、いつも家族の写真を眺めていたんですよ。最後は湯鶴町の自宅で亡くなっているのを、ヘルパーさんに発見されたんです」
そう言う澤井の声は、どことなくしみじみとしていた。だが栄太郎には父が酒を断ち、家族を思い出す姿など想像できない。
「ちょっと、考えさせてください」
「お父様は明日、荼毘に付されます。できれば今日の夕方までにご連絡戴けますか?」
「わかりました」
栄太郎は電話を乱暴に切った。同時に胸の中にドロドロとした感情が渦巻く。
栄太郎は父が湯鶴町で生活保護を受けていたことは知っていた。栄太郎が生活福祉課に勤務する以前の話だが、笹熊福祉事務所から、栄太郎のところに「扶養届」なる文書が送られてきたこともある。もちろん栄太郎は、扶養はできないし、する気もない旨を記載して返送した。
ちなみに郡部は県の福祉事務所が生活保護を所管している。湯鶴町は笹熊郡にあたるから、笹熊福祉事務所が生活保護の所管をしているのである。
栄太郎は湯鶴町の土井というところで生まれ、高校生の時までそこに住んでいた。
土建屋で働いていた父は、酒を飲んでは、よく母の昭子に暴力を振るった。雨で仕事が休みの日など、朝から酒を飲んでは絡んできたものだ。母の話では、給食費が酒代に消えたこともあったらしい。
今で言えば、父、長太郎の暴力はドメスティック・バイオレンス(配偶者・恋人からの暴力)と言ったところだが、当時はそんな言葉もなかった。
長太郎の昭子に対する暴力に理由などなかった。「家事が遅い」だの「酒が足りない」だの、ただ因縁をつけては、ひたすら暴力を振るっていたのだ。昭子はただじっと、長太郎からの言われ無き暴力に耐えていたのである。栄太郎もまた、そんな昭子が殴られるのを黙って見て、怯えながら耐えるしかなかった。子供心にも、自分が大人になったら、父のようにはなるまいと思ったものである。いわゆる反面教師というやつだ。
だがそんな昭子も、ついに堪忍袋の緒が切れる時が来た。栄太郎が高校を卒業すると同時に、栄太郎と一緒に帰帆市に家出したのだ。栄太郎は持立市にある大学に進学が決まっていた。学費の面では母の昭子に苦労をさせたと思う。身を潜めたのは安いボロアパートだった。栄太郎も必死にアルバイトをして学費を稼いだものだ。
湯鶴町の家も安い平家の借家だったので、住めば都だった。
その後、昭子は長太郎との離婚に向けて、裁判を起こすことになるが、それからが長い道程だった。家庭裁判所の調停まで二年はかかったと思う。
栄太郎が帰帆市に来てからは、一度も湯鶴町に足を向けていない。湯鶴町は昭子や栄太郎にとって「鬼門」だったのである。そればかりではない。いつしか、西へ向かうことさえ、忌み嫌うようになっていた。
だがここのところ、昭子もようやく明るさを取り戻してきた。今は午後のみ、スーパーで清掃のパートをしている。六十を過ぎた母の年齢から考えれば、使ってくれるところがあるだけでも有り難い。いわゆる、生きがいとしての仕事だ。
問題は先程の福祉事務所からの電話を、どう母の昭子に伝えるかだ。栄太郎は虚ろな目を天井に泳がせた。
その数分後、栄太郎と高橋係長は市役所の裏手、灰皿の前にいた。
「そうか……。親父さんが湯鶴町で生保をな……」
高橋係長が煙を吐き出す。
「まあ、この仕事に関わっているんだ。最後くらい面倒見てやれよ」
「はあ、でも自分の気持ちがついていかなくて……」
「親族の気持ちがわかっただろう。そして、お前は無縁仏に入れられた仏さんを目にしてきた。その哀れな末路も知っているはずだ。それに香山新吉の時、兄にごり押ししたのは誰だっけ?」
高橋係長の目はいつになく厳しかった。
「はあ……」
栄太郎はため息のような、気のない返事をする。確かに今まで見てきた孤独死で最後は無縁仏に入れられ、生きていた証さえも抹消されていくようなケースをいくつも見てきた栄太郎であった。しかし、だからと言って父親の存在を許せるわけでもなかった。栄太郎の心はいっぺんに何色もの絵の具を流し込んだような、混沌の色を湛えていた。
「後悔だけはするなよ」
そう言って、高橋係長は煙草を揉み消した。その台詞は以前に栄太郎が高津貴に言った台詞と同じだった。栄太郎は缶コーヒーをズズッと啜った。
ギィーッ……。
建て付けの悪い、安普請のドアが開く音がこだまする。どうやら昭子が帰宅したようだ。
「母さん、お帰り」
「あら、栄ちゃん、帰っていたの?」
昭子が驚いたような顔で栄太郎を見た。
「ああ、今日は残業しなかったんだ」
「そうよね。いつも栄ちゃん、残業大変だもんね」
昭子がスーパーのビニール袋から夕食の食材を取り出し、冷蔵庫に入れる。その後ろ姿が平凡で、どこにでもありそうな幸せだった。
栄太郎は怖かった。もし長太郎の死を昭子に伝え、この平凡な幸せが、一瞬で脆くも崩れ去ったとしたら。そう思うと、躊躇わざるを得なかった。
それでも昭子の耳には一応入れておかねばなるまい。栄太郎は意を決し、昭子の背中に声を掛けた。
「あのさあ。さっき、福祉事務所の澤井さんって人から電話があったんだけど、親父が死んだらしいよ」
昭子の背中が一瞬、ビクッと跳ねた。開け放した冷蔵庫の冷気が伝わる。昭子の手にはネギが握られたままだ。
「そう……」
昭子はそう呟くと、ネギを冷蔵庫に仕舞った。そしてそのまま俯き、固まってしまった。
沈黙の時間が流れる。張り詰めた空気が、異様に重かった。
「福祉事務所は骨を引き取ってくれって言っていたけど、あんな奴の骨を拾ってやらなくてもいいよね?」
緊張に耐え切れず、思わず栄太郎は昭子に同意を求めた。これが榮太郎の本心だ。
しかし昭子は「はあーっ」と深いため息をつくと、意外な言葉を返したのである。
「あんな人でも、栄ちゃんのたった一人の父親なんだよ。私にとっては、もう赤の他人だけどね。お骨を拾ってやるか、やらないかは、栄ちゃんが自分で決めて頂戴」
昭子は栄太郎に背中を向けたまま、力のない声で言った。
栄太郎は混沌とした自分の気持ちが、更に掻き乱されたような気がした。
「だって、母さんにあれだけ暴力を振るった親父じゃないか。僕だって耐えていたんだ。母さんが殴られているのを、ただ怯えて見ているしかないのを。僕だって辛かったんだ。だから、あんな親父なんか死んだって関係ないさ。そうさ、あいつは親父なんかじゃない!」
栄太郎は一気に巻くし立てた。
昭子は何も言わず、そのまま台所へ行き、夕食の準備を始めようとする。
「母さん、何か言ってくれよ!」
本当はこれ以上、昭子を追い詰めてはいけないことは承知していた栄太郎だった。しかし、意外な昭子の言葉に混乱を来した栄太郎の頭は、目の前にいる母に救いを求めるしかなかったのだ。
「だから言っただろう。お前の父親のことなんだから、お前が決めなさい。もう大人なんだから」
「そんなこと言ったって……」
「ひとつだけ言っておくわ」
昭子がやるせない顔をして振り返る。その表情は長太郎と暮らしていた時の、暗く淀んだ昭子の表情だと栄太郎は思った。栄太郎はこの時、少しばかり母を追い詰めてしまったと後悔した。
「何だい?」
「お父さんとお母さんはね、あれでも好いて一緒になった仲なんだよ。あんな人でもね、逃げる時は本当に後ろ髪を惹かれる思いだったんだよ。あの人はね、誰かが側についていなきゃ、だめな人なんだよ」
昭子がエプロンで瞼を拭った。目尻にできた小皺が光っている。
栄太郎はまだ昭子が長太郎を愛していることを知った。しかしこの時、正直なところ、栄太郎には母の気持ちが理解できなかった。ただ、昭子が栄太郎に長太郎の遺骨を拾ってほしいと訴えているような気がしてならなかった。昭子の願いとならば、聞いてやらねばなるまい。栄太郎はそんなことを思った。
(澤井さん、まだ残業しているかな?)
栄太郎は電話の受話器を持ち上げて、自分を確かめるように数字を押す。電話のコールが異様に長く感じられた。
「お待たせしました。笹熊合同庁舎の警備の者ですが……」
無骨な男性のしわがれ声に後押しされて僕は言った。
「時間外に済みません。福祉事務所の澤井さんをお願いします」
翌朝、喪服に着替えた栄太郎は電車に飛び乗った。長太郎の火葬は十三時半から、二カ瀬町にある火葬場で執り行われるという。湯鶴町は二カ瀬町に隣接する自治体で、水道や火葬場などは合同となっていた。
朝の電車は混み合っていた。百日台駅から乗っても、既に空いている席はない。昨夜はあまり眠れなかったので、二カ瀬駅まで立ちっぱなしは少々きつい。
だが帰帆駅でドッと人が降りた。栄太郎は対面式シートの窓側に座ることができた。以前は硬く、座り心地が悪かったシートも、今は改良されている。しかしお尻の辺りがモゾモゾとして、座り心地が良いわけではなかった。それは栄太郎が長太郎に会いに行くのを、心の奥底で拒んでいるからに他ならない。決してシートのせいではなかった。
帰帆駅を過ぎると、左手には海が広がる。深い青に太陽の光が眩しく反射し、銀をちりばめたようだ。栄太郎は思わず目を細めた。磯場には波が豪快に打ち付けられる。
観光客にとっては絶景であるこの景色も、今の栄太郎にとっては重苦しい、淀んだ景色に過ぎない。磯場に打ち付ける白波もまるで牙のようだ。それは線路が進むにつれ、僕の心に重くのしかかってくる。
ふと、深海の海底に降り積もるマリンスノーのイメージが栄太郎の中に浮かんだ。それは決して綺麗なものではなく、栄太郎の胸の中に降り積もりながら、淀んでいく澱だった。
二カ瀬駅に着いた時、栄太郎はどうしようもない不安に駆られた。
(ついに来てしまった……)
そんな思いでホームを踏み締める。電車が去った後、弓なりに曲がるホームを見渡すと、まばらな人影が改札へと降りていく。喪服を着ているのは栄太郎くらいだ。
(そうだ。誰も親父の葬儀に来たりはしない。来るはずがない)
そう思いながら栄太郎は階段を下った。駅は高津栄子の調査で訪れた時と変わりはなかった。そう、昔と変わったことと言えば、いつの間にかエスカレーターとエレベーターが設置され、改札も自動改札になっている。
火葬場は二カ瀬駅のちょうど駅裏あたりにある。歩けば四、五分といったところか。
(まだ早いな)
何せ、朝食を済ませてすぐに家を飛び出してきたのだ。長太郎の火葬の時間は十三時半だ。時計を見るとまだ午前十一時だった。
(どうしようかな?)
こういう時の時間つぶしは一番困ると栄太郎は思った。
食欲はまったくなかったが、駅の脇の売店でサンドイッチを二つと缶コーヒーを買う。まだ胃の中には朝食が残っている感じだった。
それでも何か物事の前には、しっかりと食べておかねばならない。小さい頃、食費が父の酒代に消え、ひもじい思いをしたこともあった栄太郎であった。
食事は愛を表すという人もいる。いつも家の食事は貧しかった。それでも昭子は工夫して、栄太郎に精一杯の愛情を注いでくれた。だが、食べ盛りの栄太郎には少ない量だったのである。それは片親しかいない寂しさに、どこか似ていた。
だから栄太郎の食へのこだわりはトラウマのひとつなのかもしれない。そう、満たされないお腹と心を常に一杯にしておかないとならないという、強迫観念に近いものとでも言えるだろうか。
栄太郎はサンドイッチと缶コーヒーの入ったビニール袋をぶら下げて、駅前の地下道を潜った。魚の絵が描かれたその地下道は、その暗さと相俟って、まるで深海の中にいるような気分だ。栄太郎は先程の心に降り積もるマリンスノーのような澱を思い出す。
地下道を抜けると栄太郎は迷った。二カ瀬漁港の方へ行こうか、それとも海岸の砂浜の方へ行こうかと。
結局、僕の足は海岸の方へ向いた。なだらかな坂を下り、二カ瀬町役場の前を通る。そして今度は少し急な坂を下れば海岸だ。坂の途中で湾曲した砂浜が見えてきた。
そこは砂浜だ。坂から見ると奥の方にゴロタ石の岩場が少しある。この海岸も夏になれば海水浴客で賑わう。
栄太郎は小学校高学年から中学校くらいにかけて、よくこの辺りまで自転車できた。
栄太郎は砂浜に下りる階段に腰を降ろした。
寄せては返す波を、ただボーッと眺める。二カ瀬道路の橋がのどかな風景を邪魔しているようにも思えるが、これを名所とする声もある。
(物は考えようだな……)
自然と人工物が織り混ざった風景に、ふと、そんなことを考えたりもした。
栄太郎はビニール袋からサンドイッチを取り出すと、頬張った。シャキシャキのレタスの食感が心地よい。
砂浜では一人の老婆が何かを拾っていた。貝殻のような乙女チックなものではないだろう。手にしているのはどう見てもゴミだ。
(ゴミ拾いかな?)
そう思いながら栄太郎は眺める。老婆は黙々とゴミを拾っている。
栄太郎に気付いた老婆が、人懐っこい笑顔を湛えて近づいてきた。だがその視線は栄太郎の手にあるサンドイッチへと向けられている。
「縁起の悪そうな服を着ている割には、美味しそうなもの食べているね。あたしゃ、もう二日、何も食べていないよ」
ボサボサの白髪頭に、皺だらけの老婆は笑顔でそう呟いた。その言葉に切迫感はなかったが、空腹であることに違いはないだろう。
「よかったら、お婆ちゃんも食べる?」
栄太郎は残りのサンドイッチを差し出した。
「あたしゃ、これでも若いんだよ。『お婆ちゃん』なんて呼ばれる齢じゃないんだ」
老婆のプライドは思ったより高いようだった。それでも笑顔は絶やさない。
「でも、ありがとさん。せっかくだから、もらっておこうかね」
狡猾だが、どこか憎めない老婆は、皺だらけの顔を更に皺くちゃにして笑った。
栄太郎も思わず苦笑して、サンドイッチを渡してしまった。
「あー、やっとオマンマにありつけたよ。あんた、いい男だね」
「それはどうも」
どうやら老婆にとって、サンドイッチが一番の収穫だったらしい。彼女は重たそうな体を引きずりながら、漁協本部の向こうへと消えていった。その風景がまるで昭和時代の映画フィルムのようであった。
栄太郎が老婆を見送っている間も、海からの潮風は栄太郎の髪を撫で続けた。
何故か老婆の姿が心に焼き付いた。毒づきながらも礼を言い、僕を「いい男」と呼んでくれた老婆とのひとときは、火葬場に向かう前のちょっとした息抜きになったような気がした。
栄太郎は海をもう一度、見渡すと海岸を後にした。
駅に戻って歩道橋を渡り、二カ瀬中学校の前から駅の裏の方へ回って歩く。この辺りも、栄太郎が昔はよく自転車で来た場所だ。
栄太郎は火葬場の前で立ち止まった。小綺麗になった火葬場は何だか父には不釣り合いな気がする栄太郎だった。
栄太郎は火葬場の前で立ち止まり、呼吸を整えようと、大きく深呼吸をした。それは大きなため息だったかもしれない。先程の老婆との会話で少し気持ちが和んだとはいえ、やはり棄てた父と対面するのは緊張するものだ。
「北島栄太郎さんですね?」
火葬場の入り口にいた喪服姿の若い男が歩み寄って来た。いかにも温和そうな好青年といった印象だ。齢の頃は栄太郎とそれほど変わらないだろう。
「はい、そうです……」
「初めまして。笹熊福祉事務所の澤井です。先日はお電話で失礼致しました」
澤井が深々と頭を下げた。慇懃なお役人のイメージとは程遠いと思ったが、栄太郎は自分も公務員で生保の地区担当員をしていることを思い出し、思わず苦笑した。
「いえ、こちらこそ。あんな父のために、いろいろとしてくださってありがとうございます」
栄太郎も失礼のないように丁重に頭を下げた。
「さあ、中でお父様がお待ちですよ」
栄太郎は澤井に促され、火葬場の中へと足を踏み入れた。ここまできて足を留めても仕方あるまいと思った。火葬場の中にカツカツと革靴の音が異様に大きく響いた。
既に棺は釜の前に安置されていた。焼き上げた骨を入れる骨壷も、味気無いシンプルなものだが用意されている。
火葬に立ち会うのは栄太郎と澤井、葬儀屋の本山葬祭ともう一人、若い女性がいた。その女性はハンカチで目頭を押さえている。
(一体、誰だろう?)
そんな榮太郎の疑問に答えるように、澤井が女性を紹介してくれた。
「こちらがお父様を発見してくださった、ヘルパーの阿部さんです」
阿部がハンカチで顔を押さえながら会釈する。
「どうも、父がお世話になりました」
一体、あんな父を世話する物好きなヘルパーなどいるものだろうかと、栄太郎は阿部の顔をまじまじと見つめた。
「さあ、それでは故人との最後のご対面でございます」
葬儀屋が棺の蓋を開ける。一瞬、栄太郎は長太郎の顔を見るのを躊躇った。だが栄太郎に遠慮をしているのだろう。澤井も阿部も歩み寄ろうとはしない。仕方なく栄太郎は棺の中を覗き込んだ。
長太郎はそこに横たわっていた。生活保護の葬儀では花はつかない。絹に似せた布に包まれて父は眠っていた。
それは穏やかな顔だった。口元に薄っすらと笑みさえ浮かべているではないか。
これがあの、毎日酒を飲んでは怒り狂い、母親に暴力を振るっていた父の顔とは思えない栄太郎だった。そう、その顔はまるで悟りを開いた仏のような、別人の顔だったのである。
栄太郎は自然と長太郎に向かって手を合わせた。特に意識したつもりはなかった。何故か長太郎の顔を見ていると、合掌せずにはいられなくなったのだ。
続いて澤井と阿部が覗き込み、合掌をする。
「本当、最後に息子さんに会えてよかったわね」
阿部さんが涙ながらに呟いた。
「父の死因は何だったんですか?」
栄太郎が澤井に尋ねた。
「死亡診断書には心不全と書かれていました。司法解剖も行政解剖も行われなかったので、事件性はないと警察は判断したのでしょう」
澤井さんは淡々と答えた。
「でもね、長太郎さんは最後の方はかなり弱っていたのよ。お風呂に入るにも、トイレに入るにもかなり辛そうでした。本当はもっと援助できればよかったんでしょうけど、要支援2では限界があったのよ」
阿部が涙ぐんだ声で言った。
「要支援2……」
「介護保険の基準ですよ。その人の介護度を定めた基準でサービスの量が決まっているんです。ああ、そういえば北島さんも生保の地区担当員でしたね。このくらいのことはわかっていますね」
栄太郎が頭を掻いた。どうやら長太郎にはそれほど手厚い介護はなされていなかったようだ。
「それでは、そろそろお別れです」
葬儀屋のその言葉で、長太郎の棺が閉じられた。
重々しい音を立てて釜の蓋が開く。自動扉だが、何せ人を焼く釜だ。その音はたとえ、あんな父を焼く釜とはいえ重いと思った栄太郎だった。
栄太郎は合掌して長太郎を見送った。
長太郎を火葬している間、栄太郎たちは待合室で待つことになった。
阿部が気を利かしてお茶を淹れてくれた。啜ってみると、市役所のお茶と大差のない味だった。いや、この時、栄太郎の味覚は麻痺していたかもしれない。
「これね、長太郎さんが最後に握り締めていた写真よ」
阿部がそう言って差し出したのは、一枚の写真だった。栄太郎が小学校六年生の時、湯鶴サボテン公園で撮った家族の写真だ。確か通りがかりの人にシャッターを押してもらった記憶が榮太郎にはあった。栄太郎はわざと大きな口を開け、おどけた顔をしている。長太郎は真面目そうな顔でカメラを見つめ、昭子はにっこりと笑いながら栄太郎の肩に手を置いている。それはカラー写真だが、既に色あせてセピア色に近い。
「これを父が握り締めていたんですか?」
「長太郎さんはね、奥様のことは諦めていたみたい。でも、あなたのことだけは諦めきれなかったようで、いつも栄太郎、栄太郎って取り憑かれたように呟いていたわ。よっぽど悔いが残っていたのね」
「でも、何で笑っていたのかな?」
「最後にその写真を眺めたからじゃないかしら」
写真ひとつで笑って死ねるだろうかと、栄太郎は疑問に思った。
「心不全っていうのは、いわゆる心臓麻痺なんですよ。そいつは相当に苦しいらしいんです。それでも安らかな顔で眠りについたというのは、やはりその写真のお陰なんじゃないですかねえ」
澤井がしみじみと言った。
「お父様の生活態度は真面目でした。お酒はもちろん、タバコも吸わない。いつも謙虚でね。私が訪問すると、お国の世話になって申し訳ないって、いつも泣いていましたよ」
澤井の口から出た言葉は、栄太郎の知る長太郎とはまるで別人であった。しかし、先程見た顔は、穏やかではあったが確かに長太郎の顔だった。
「父は病院には通っていたんですか?」
「脳梗塞を患いましてね。湯鶴病院に入院していたことがあるんです。リハビリで単身生活が営めるくらいまで回復しましたが、左半身に少し麻痺が残りましてね。それでヘルパーさんに入ってもらったんですよ」
「なるほど……」
「じゃあ、父はずっとひとりだったんですか?」
「ええ、もちろん。女の人の影は見えませんでしたね。いつも寡黙に小説を読んだりしていてね。どちらかというと、家に閉じこもりがちでしたかね」
あの長太郎が小説を読むなど信じられないと思う栄太郎であった。記憶にあるのは下劣な雑誌ばかりだ。昭子と栄太郎が逃げ出した後の長太郎は、どうやら栄太郎の知っている父ではなくなったらしい。
「父は改心したのかな?」
栄太郎が唸るように呟いた。
「改心というより、もぬけの殻といった印象でした」
阿部がやるせない表情でお茶を啜った。
呼び出しがかかり、釜の蓋が開いた。中から薄茶色の骨が係員により引き出される。
それは頑丈そうな骨だった。かつて土建業で鍛えた体ということもあるだろう。大腿骨の辺りなど、そのままの形で残っている。何度も昭子を蹴りつけた足の残骸がそこにあった。
「これが、親父の骨」
栄太郎は思わず、そう呟いた。
「そう、あなたのお父様の骨ですよ」
澤井が栄太郎に寄り添うようにして言った。後ろでは阿部のすすり泣く声が聞こえる。
(もぬけの殻か。確かに親父の残骸だな)
そんなことを思いながら、栄太郎は澤井と箸で骨を摘まむ。
係員が残りの骨の説明をしながら、手際よく骨壷に収めていった。薄い頭蓋骨が一番上にきている。
「これは埋葬許可書です。これがないとお墓に埋葬できませんから、大切に保管しておいてください」
係員が栄太郎に埋葬許可書を手渡した。栄太郎はその封筒を受け取るのを一瞬、躊躇ったような気もする。しかし気がついた時には、しっかりと受け取っていた。
(この骨をどうしよう……)
栄太郎はこの時、長太郎の遺骨を母の元へ持ち帰ってもよいものかと、まだ迷っていた。おそらく、ようやく落ち着きを取り戻した昭子の心を、激しく揺さぶるに違いなかった。
澤井が埋葬許可書の上に先程の写真を乗せてくれた。どうやら待合室のテーブルに栄太郎が置き忘れていたようだ。
その写真を見て栄太郎の心は決まった。
「明日、お父さんの家の片付けをするんですが、もしよかったら一緒に来てもらえませんか?」
澤井が静かに言った。
帰帆市職員の場合、肉親の死亡では一週間の忌引きが貰える。栄太郎が手伝うことは可能だ。
栄太郎は片付けを笹熊福祉事務所に任せる後ろめたさと、父が人生の終焉を迎えた場所をこの目で確かめたい気持ちが入り混じり、了解しようと決めた。
「わかりました。是非、僕にも手伝わせてください」
「それでは十四時に家の前に来ていただけますか? 家の場所、覚えていらっしゃいますよね?」
「はい」
栄太郎は力強く頷き返した。
父の家の片付けの約束までし、百日台まで戻ってきた栄太郎だが、いざ自分のアパートの前まで来ると、足取りが重くなった。錆びた階段を一歩一歩上る。親父の遺骨が異様に重かった。
部屋のドアの前までは来たものの、開けるのをつい躊躇ってしまう栄太郎であった。向こうには昭子がいるのだ。長太郎にさんざん痛め付けられてきた昭子が。
それでも、ここまで来て引き返すわけにはいかない。栄太郎は思い切ってドアを開けた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
落ち着いてはいるが、どこか力の抜けたような昭子の声が返ってきた。
昭子は栄太郎を出迎えてはくれなかった。奥の六畳間にいるのだろう。それでも栄太郎は長太郎の遺骨を昭子に見せようと、足を進めた。
(これは僕の務めだ)
自分にそう言い聞かせるが、心臓の鼓動は鳴り止まない。
襖は閉められていた。
ゆっくりと襖を開けると、昭子は西日のあたる部屋でひとり、正座をしていた。
「それがあの人のお骨かい?」
そう呟いた昭子の顔が随分と老けて見えた。
「ああ、親父の遺骨だよ……」
栄太郎は昭子の前に長太郎の遺骨を置いた。昭子はそれをじっと眺めている。その瞳は潤んでいるようだった。
「それと」
僕はポケットから一枚の写真を取り出した。阿部にもらった湯鶴サボテン公園での写真だ。
「親父は死ぬ時、これを握っていたそうだよ。その死に顔は笑っていた」
栄太郎がそう言うと、昭子は堰を切ったように泣き崩れた。長太郎の遺骨にしがみつき、横隔膜が壊れてしまうのではないかと思うくらいの勢いで泣いた。号泣とは、まさにこのようなことを言うのだろう。
そして昭子は何度も「ごめんね、ごめんね」という言葉を繰り返す。この時、母は心の奥底で、まだ父のことを愛しているのだと栄太郎は思った。でなければ「赤の他人」とまで言った人間に、ここまでの涙を流せるものだろうか。
どうやら自分が両親と過ごした時間と、母が父と過ごした時間は違うらしい。何だか、そんな気が栄太郎にはした。
「このお骨、どうしようか?」
「この人には実家なんてないも同然だからね。今更お墓に入れてもらえるかどうか」
母が力なく呟いた。
「やっぱり、我々の手で供養して、お墓に入れてあげるのがいいのかな?」
「栄ちゃんが許してあげられるんなら、そうしておやり。こんな人でも無縁仏じゃ可哀想だからね」
昭子が涙を拭いながら言った。その目は慈愛に満ちた優しさを湛えている。母の唇が「おかえり」と動いたのを、栄太郎は見逃さなかった。
やはり父の遺骨を持って帰ってきて正解だったと、栄太郎は思ったものだった。
その夜、栄太郎は父の遺骨を枕元に置き、母と一緒に寝た。家族三人で寝たのはいつ以来だろうかと考える栄太郎であった。
昭子の布団からすすり泣く声が聞こえた。
栄太郎は長太郎の火葬で疲れているはずだった。それでも何故か寝付けない。母への心配と父への複雑な思いが入り混ざり、寝苦しい夜だった。
二人とも眠りについたのは日付が変わってからだっただろうか。
翌日の電車も混み合っていた。やはり帰帆で窓際の席を取る。今日のシートはしっかりと栄太郎の体重を受け止めてくれた。
帰帆を過ぎて見る海の景色は昨日と変わらない。輝く海も、寄せる白波も見る者が見れば、心打たれる景色だろう。
ただ、今日は栄太郎の胸の中に降り積もる澱はなく、適度な緊張感と期待感が心を支配していた。
そんな気分で眺める海はいいものだ。
湯鶴駅は昔とあまり変わっていなかった。変わったことと言えば、売店が小綺麗になったことと、二カ瀬駅と同じようにエスカレーターやエレベーターが設置されたこと、自動改札になったことくらいか。
栄太郎は改札を右に出て、信号の角にある「味の大東」というラーメン屋へ向かった。ここは昔、家族でよく食べにきた店だ。
お店に入ると「いらっしゃい」と、若く元気なお兄さんが声を掛けてカウンターへと案内してくれた。
自分では今まで湯鶴町という地は鬼門だと思っていたが、ここだけはホッとすると栄太郎は思う。何故ならば、ここでよく、家族揃って外食をしたからだ。そしてここで父が酒を飲む時はいつも機嫌がよく、笑いが絶えなかった。栄太郎にとって「味の大東」は、湯鶴町で唯一、家族の楽しい思い出が詰まった場所と言っていい。
それに店員の愛想のよさも昔と変わらない。栄太郎はここのワンタンメンが好物だ。もっとも子供の頃は量が多すぎて、残りを長太郎が食べていた記憶もある。
程なくして僕の目の前にワンタンメンが運ばれてきた。
ラーメンを啜り、まるでギョーザのようなワンタンを口に入れると、自然に涙が込み上げてくる。長太郎はここで飲む酒のように、何で家でも楽しく飲めなかったのだろうか。そう思うと栄太郎の食べるワンタンメンのスープに涙が垂れた。
「ティッシュ、ありますよ」
お店のお兄さんがティッシュボックスを取ってくれた。ささやかな心遣いが嬉しかった。鬼門と決めつけていた故郷に温かく迎えられた気が榮太郎はした。
腹ごしらえを済ませた栄太郎は海の方へ向かって歩き始めた。長太郎の家、そう、栄太郎の育った家は湯鶴駅から海の方へ向かった土井というところにある。近所は平家の借家が多く、長太郎の家も借家だ。手入れをしていなければ、かなり老朽化していることだろうと栄太郎は思った。
土井は道路が碁盤の目のようになっており、しばらくこの地に足を運んでいなかった栄太郎は、道に迷ってしまった。昔はなかったコンビニエンスストアも建っている。
栄太郎はコンビニエンスストアでペットボトルのお茶とスポーツドリンクを買った。澤井たちへの差し入れだ。きっと力仕事となれば汗も掻くだろう。
しばらく土井の辺りをウロウロしていると湯鶴町役場の文字が書かれたトラックを見つけた。そしてその前にある平家こそが、長太郎の家だった。
澤井が栄太郎を見つけて手を振った。
「こんにちは。ありがとうございます」
上下をジャージに纏った澤井の顔は晴れやかだった。昨日の喪服姿と対照的で、頭に巻いた手拭いがどことなく可笑しかった。
男の人が二人、もう既に家の中で作業に取り掛かっている。
「息子さん、来ましたよ」
澤井の声で二人が僕の方を向いた。二人とも爽やかな笑顔をしている。
「こちらは湯鶴町役場の福祉課の柏木さんと室伏さん」
「どうも、父がお世話になりました」
僕は深々と頭を下げた。
「いえいえ、どういたしまして。この度はご愁傷様です」
二人とも汗をタオルで拭いながら、会釈する。
玄関から覗いただけでも、部屋の中は乱雑なのがわかった。これを片付けるとなると、相当に骨の折れる作業になるだろう。それに何とも言えない異臭が漂っている。それは死臭と腐敗臭か何かの入り混じったものなのだろうか。
似たような臭いを嗅いだことが栄太郎にはあった。独居老人の高山真治が亡くなった時の臭いだ。
それでも栄太郎は気を取り直し、靴を脱いで家の中へ上がろうとした。
「あっ、靴は脱がない方がいいですよ。相当汚れていますから」
柏木が栄太郎に声を掛けた。見ればみんな靴のまま家の中へと上がっている。父の家は自分の家でもあると栄太郎は思っていた。だから、そこを土足で踏み荒らされたような気がして、少し嫌な気分になった。だから榮太郎だけは靴を脱いで上がった。
メリッ……。
足が沈むのがわかった。そして濡れたような感触が靴下を通じて栄太郎の足の裏に伝わる。
「あーあ、だから言ったのに」
既に畳は腐り、何かで濡れている。湿り気の正体が何であるかはわからない。しかし確かに濡れている。
それでも我慢して榮太郎は奥へと進んだ。
部屋の中は一面に下着類や洋服が散乱していた。食べたまま丼ぶりなどもあるようだ。
「単身の割には荷物が多いんだよな」
室伏がぼやくように呟いた。重いタンスを澤井と一緒にトラックへと運んでいる。以前は昭子の洋服などが入っていたタンスだ。
母は「あの家に置いてきた物に未練はない」といつか言っていたが、果たして本心だろうかと栄太郎は疑問に思っていた。昨日の母の様子を見ていると、少し不安になってくる栄太郎であった。
栄太郎は本棚に目をやる。そこには池波正太郎や藤沢周平などの時代小説がぎっしりと詰め込まれていた。週刊誌の類いは一切見当たらない。
「こんな物、出てきましたよ」
柏木が差し出したのは、何冊かのアルバムだった。
僕は感慨に耽るようにアルバムを次から次へと捲った。アルバムの中では長太郎は真面目そうな顔を装い、昭子は絶えず笑っている。栄太郎はおどけていることが多い。それはいつも暗くなりがちだった家庭の雰囲気を少しでも明るくしようという、子供心ながらの努力だったのかもしれないと栄太郎は思うのだった。
一段と古ぼけたアルバムがあった。まだ栄太郎が生まれる前の、長太郎と昭子だけが写っているアルバムだ。まだ二人とも若い。そこにいる二人は本当に幸せそうな笑顔を湛えていた。
(これだけは捨てられないな)
栄太郎はアルバムを全部、バッグに仕舞った。少しバッグが膨れ上がり、パンパンになってしまった。それにかなり重い。しかし、帰りには心地よい重みになっているかもしれない。そんな気が栄太郎にはした。
栄太郎も荷物の搬出を手伝おうと腰を上げた。すると、何か布のようなものに足を取られた。
「うわっ!」
栄太郎は思わず素っ頓狂な声を上げた。よく見ると、栄太郎の足を掬ったのは一枚のブリーフだった。
(これが親父の着ていたパンツ……)
栄太郎の足を掬ったブリーフを摘まみ上げる。するとそれには大便と小便の染みが付着していた。
栄太郎は阿部の「トイレに入るのも辛そうだった」という言葉を思い出した。おそらくトイレにも行けず、漏らしてしまったのだろう。苦しそうにもがきながら、這いずり回る父の姿が瞼の裏に浮かんだ。それでも最後には昭子と栄太郎を見つめ、苦しみを堪え、笑って死んだ長太郎。
「お、お父さん……!」
急に製鉄所の溶鉱炉のように胸の中が熱くなり、一気にドロドロに溶けた鉄が吹き出しそうだった。それは涙腺を緩めて、栄太郎の頬を伝わる。栄太郎はこの時、込み上げる嗚咽を抑えることができなかった。
「うっ、うっ……」
父を棄てた大人が恥も知らず、泣き崩れた。栄太郎の胸の中の溶鉱炉は、灼熱の涙を次から次へと作り続け、流し続けた。それは止まることを知らなかった。
だが、そんな榮太郎を笑う者は誰もいない。
トラックから戻った澤井が、栄太郎の肩にポンと手を添えた。その手の温もりが暖かかった。ほんわかと優しい「気」の流れのようなものが伝わってくる気が栄太郎にはした。
「北島さんは優しい息子さんですよ。ほとんどの場合は拒絶されますからね」
栄太郎はクシャクシャの顔のままで振り返った。澤井は優しそうな笑顔でそこに立っていた。栄太郎も知っている。澤井と同じ仕事をしているのだ。家族から拒絶されるケースは今まで数多く見ている。
「それにしてもお父さんの場合、発見が早くて良かったですよ」
澤井がしみじみと言った。
「発見が遅れると、大変ですよね」
栄太郎は涙を拭いながら相槌を打った。
「そりゃ、見られたもんじゃありませんよ。ムシに食われたりしてね」
「ああ、ありましたよ、そういうの。地区担当員になってすぐだったかなぁ……」
「ウジムシは嫌ですね。以前に死後一カ月くらい経った仏さんを発見したことがあるんですけど、ミイラのようでね。布団と密着した部分だけ溶けかかって、ウジムシが溜まっていたんです。あれは強烈だったなあ。目玉なんか食われて無くなっていてね。しばらくの間、食べ物が喉を通りませんでしたよ」
澤井が顔をしかめた。高山真治の死に様が重なった。だが、その話を聞くと、父がそのような状態でなく、あの安らかな笑顔のまま発見されて、まだよかったと思う栄太郎だった。
「残したい物があったら言ってください。後で取りに来てもいいですから」
澤井がそう言った。栄太郎は大便と小便の付着したブリーフと、汗の染み込んだランニングシャツをビニールに包むとバッグに入れた。そう、高津貴が母親のパンツを仕舞ったように。
不思議とそれが汚らしいとは思わなかった。
「いや、これだけでいいです。今の家は狭いですから」
「じゃあ、あとの物は処分しますよ」
栄太郎は一呼吸置いて頷いた。
栄太郎が幼い頃に沢山シールを貼った机も、室伏とトラックへと積んだ。話によると、二カ瀬町の山の上にあるゴミ処理場に廃棄するのだとか。栄太郎は思い出が軋む音を立てて壊されるような気がしたが、こればかりは仕方がない。
「あー、これ終わったら大東で手羽先とチャーシューをつまみに一杯いくかなあ」
室伏が背伸びをしながら呟いた。
「ああ、あそこのワンタンメン、美味しいですよね。でも、あそこで飲んだことはないなあ」
澤井の顔からは汗が滴っている。それは早くビールでも飲みたいと訴えているようだ。
栄太郎は先程食べた「味の大東」のワンタンメンの味を思い出した。そして楽しかった家族の思い出を。
(そうだ。思い出は胸の中にあればそれでいい。それで十分じゃないか)
栄太郎はそう自分に言い聞かせていた。
ふと、がらくたの山の中にフライパンがあるのを見つけた。昭子が昔使っていた鉄製のフライパンだ。僕は何げなくそれを手にした。どうやら長太郎は、昭子と栄太郎が逃げた後も、ずっとこのフライパンを使い続けていたらしい。
生活保護費が少ないことくらいは栄太郎にだって理解できる。おそらく長太郎は自炊していたのであろう。このフライパンを使って料理をしていたに違いない。鉄に染み込んだ油が独特の光沢を放っている。
一体、父はどんな気持ちで、このフライパンを使っていたのだろうかと栄太郎は思う。侘しさを噛み締めながらも、去った家族の思い出にしがみつきながら、ひとり台所に立つ父の背中が栄太郎には見えた。
「すみません。このフライパンも持って帰ります」
さすがにフライパンまではバッグに入りきらない。それは手で持っていくしかない。電車の中でフライパンを剥き出しにして帰るのは少々恥ずかしいが、栄太郎はどうしてもこのフライパンを持ち帰りたかった。
家の片付けが終わったのは夕方だった。
みんな最後には汗だくだった。トラックも家とゴミ処理場を何往復しただろう。
栄太郎は長太郎のために沢山の人が関わり、尽くしてくれたことを知り、感謝の気持ちで一杯だった。
きっと父も葛藤があったと思う。そして自分を責め続ける、悔悟の日々を送ったに違いないと栄太郎は思った。そんな哀れな父の姿を見て、ここまで多く人たちが関わってくれたのだろうと推測する。同時に、澤井と同じ生活保護の仕事をしながら、今まで父に何もしてこなかった自分が急に恥ずかしくなった栄太郎だった。かと言って今更できることは限られている。
「あのー、澤井さん。父の葬儀代や片付けの費用なんですけど、私が出しますよ」
栄太郎は声を忍ばせ、澤井の耳元で囁いた。
「ああ、片付けは費用がかかっていませんよ。すべて自前ですからね。葬儀の費用は……、弱ったなあ。本山葬祭さんに福祉でやるって伝えちゃったんですよ」
頭を掻きながらも、澤井の顔は笑っていた。
その後、栄太郎は子供の頃によく遊んだ公園に立ち寄った。公園の隅に大きな、赤いタコや魚の形をした遊具がある公園を、みんなは「海底公園」と呼んでいた。
栄太郎はベンチに腰を下ろし、遊ぶ子供たちに目をやる。無邪気に遊ぶ子供たちに、幼い日の自分が重なった。
タコの近くで男の子が泣いていた。どうやら母親に叱られているようだった。栄太郎はその母親を見た。それは栄太郎にとって忘れることのできない顔だった。
(あれは、昌子じゃないか……)
その母親は小学校三年生の時に、二カ瀬小学校から転校してきた青木昌子に間違いなかった。
昌子は転校生ということで、最初はクラスでからかわれたり、仲間はずれにされたりしていた。子供の社会とは、ある一面で大人の社会より残酷なものである。
昌子の家はこのタコ公園のすぐ近くにあった。栄太郎はひとりで彼女が海底公園で遊んでいるのを、よく見かけたものだ。
栄太郎は子供心にも昌子に同情していた。学校で理不尽な仕打ちを受ける彼女の姿に、家で辛い思いをしている自分自身の姿が、どことなく重なって見えたのだ。
ある日、栄太郎は思い切って海底公園で遊ぶ昌子に「一緒に遊ぼう」と声を掛けてみた。彼女は少し強張った顔をしたものの、すぐにニコッと笑い、「うん」と頷き返してくれた。あの時の嬉しそうな彼女の笑顔は今でも忘れない栄太郎である。
それからというもの、海底公園が昌子と栄太郎の遊び場になった。
どこかお互いに惹き合うものがあったのだろう。ここでは嫌なことを忘れ、まるで傷を舐め合うように、暗くなるまで遊んだのだ。
昌子とは小学校から高校まで一緒だった。別に正式に交際をしていたというわけではないが、相変わらず仲は良かった。昌子と一緒にいると、家庭での嫌なことを忘れられ、ホッとできたのだ。栄太郎が自然に振る舞える居心地のよい場所。それが昌子との時間と空間だった。
だから帰帆市へ引っ越した時、父から逃げられた解放感と同時に、栄太郎は心の寄り処を失ったような気がした。それは何も告げずに去った、昌子への罪悪感を伴って……。
昌子はヒステリックな金切り声で子供を叱り付けている。男の子はベソをかきながら泣いていた。
「ママー、ごめんなさいー!」
だが昌子は膨れっ面を崩さない。
栄太郎はベンチから腰を上げると、男の子の前にしゃがんだ。そして頭を撫でてやる。
「大丈夫だよ。ママだって許してくれるよ。ママにとって君は宝物なんだ。君にとってもママは宝物だよね?」
「うわーん!」
男の子は大泣きをしながら、昌子の腰に抱き着いた。昌子は困ったような顔をしながらも、そっと男の子の肩を抱いた。
栄太郎は顔を上げ、昌子の方を見る。昌子は目の前にいる男性が誰だかすぐに気付いたのだろう。口に手を当て、目を丸くしながら「あっ!」と叫んだ。
「栄ちゃん……?」
「そうだよ」
栄太郎は笑顔を返した。昌子はまだ信じられないといった表情をしている。
「久しぶりだね」
しかし昌子は答えることなく、そのまま固まってしまった。
夕暮れの公園にやるせない空気が流れた。
どれ程の沈黙が続いただろう。突然、昌子の頬から一筋の涙がこぼれた。
「どうしたの? ママー」
昌子は子供の肩に手を置きながらも、ボロボロと涙を流し続けている。
「栄ちゃん、やっと帰ってきたてくれたんだね」
そう言った時には、昌子の顔はクシャクシャに近かった。
昌子と栄太郎は公園のベンチに座った。男の子はまた無邪気にタコの遊具で遊びだしている。
「実は親父が死んでね」
栄太郎から話を切り出した。
「そうなの。お父さんから逃げたっていう噂を聞いていたけど、本当だったの?」
「ああ、お袋がいつも親父に殴られていてね。それで逃げたんだ。俺は今、川崎の製鉄所で働いているんだ。お袋と二人暮らしさ。親父はこの湯鶴町で生活保護を受けていたんだ。福祉事務所から連絡があってね」
「そんなお父さんでも、最後を看取ったの?」
「まさか。孤独死ってやつさ。今日は家の片付けに来たんだ。でも不思議なものでなあ、親父の死に顔を見たり、家を片付けたりしているうちに何だか親父が哀れに思えてさ」
「そう……」
昌子が寂しそうに呟いた。栄太郎はその声に、思わず昌子の横顔を見た。夕陽に照らされたその横顔は、ひとりで寂しそうに遊んでいた、あの時の昌子の横顔にそっくりだった。
「ところでマーちゃんの旦那さんって、どんな人?」
栄太郎がそう尋ねると、昌子は一呼吸置いてから口を開いた。
「別れたわ」
「えっ?」
「もともとチャランポランな人だったの。まあ、子供ができちゃったから、何となく一緒になったって感じかな。でも、あいつは変わらなかった。結局、あいつ、覚醒剤に手を出して逮捕されてね。それで離婚を決意したのよ」
昌子は無表情に語った。
「じゃあ、今は母子家庭なのかい?」
僕は昌子の顔を覗き込むようにして尋ねた。
「うん。実家に身を寄せているの。私もクッキー屋で働いているけど、それだけでは食べていけないから、結局、今でも親のスネを齧ってる」
そう言う昌子の視線は宙を泳いでいた。おそらく自分でも、この先どうしたらよいのかわからないのだろう。
「はあーっ、私たち、これからどうしたらいいんだろう? 最近、ちょっとしたことでイライラして、ついあの子に八つ当たりしちゃうのよ。栄ちゃんの言う通り、あの子は宝物なんだけどね」
昌子が頭を抱え、掻き毟った。昔から自慢の長く、ストレートの髪が乱されていく。それはまるで己自身を傷つけているかのようだ。昌子を良く知る栄太郎としては、見るに忍びない光景であった。
「はあー、何で栄ちゃん、私の前から突然、消えちゃったのよ?」
「えっ?」
唐突な昌子の問いかけに、僕は一瞬、言葉を失った。
「あれからというもの、私の人生、狂いっぱなしよ」
「マーちゃん、もしかして僕のこと……」
「当たり前じゃない。男って本当に鈍いんだから」
昌子の瞳がまた潤みだした。
「ごめんよ」
ジーンズの上で硬く拳を握る昌子の手の上に、栄太郎はそっと掌を置いた。拳がプルプルと震えるのがわかった。
「うわあああーん!」
突然、昌子が大声を上げて泣き出した。男の子は母親の異変を逸速く察知し、タコの遊具から駆け寄ってきた。
「ママーッ、どうしたの?」
子供の不安げな表情が切ない。
「何でもない、何でもないのよ……」
昌子は子供にそう言うが、時折、ヒックヒックと肩が痙攣している。
「大丈夫だよ……」
僕が男の子の頭を撫でてやった。
「この子の父親が栄ちゃんだったらよかったのに……」
栄太郎はその言葉に心臓がドキッとした後、ギューッと締め付けられた。
夕日に照らされた昌子の涙は悲しくも、どこか美しい。
僕は男の子の顔をまじまじと見た。あどけなく、可愛い顔をしているではないか。
「君、名前は?」
「光一」
「いくつ?」
「みっつ」
男の子は栄太郎の質問に素直に答えてくれた。その瞳はまだ穢れを知らない、無垢の瞳だ。
「ねえ、携帯電話、持ってる?」
栄太郎が昌子に尋ねると、彼女はジーンズのポケットから、デコレーションされたいかにも女の子らしい携帯電話を取り出した。
「よかったら、番号とアドレスの交換をしようよ」
昌子は「への字」になった口元を緩め、少しはにかむように笑うと、「うん」と小さく頷いた。だが頬は化粧が落ち、グショグショだった。
お互いに携帯電話を弄くる。その間、僕は子供の頃、昌子がよくうちに電話を掛けてきたことを栄太郎は思い出していた。
(そう言えば、あの時も昌子から電話が掛かってくるのを、ウキウキしながら待っていたっけ)
栄太郎はあの頃から昌子のことが好きだったのかもしれない。単に幼なじみという言葉では片付けられない、思慕のような感情を抱いていたのだ。黒電話の前で齧り付くようにして、昌子からの電話を待っていたあの頃の感情が沸々と甦る。
「今日は会えてよかったわ。よかったら電話して」
そう言う昌子の顔は晴れやかだった。栄太郎は初めて声を掛けた時の、あの笑顔に似ていると思った。
「必ずするよ。でも僕たちには黒電話の方がお似合いかもな」
「着信音だけでも黒電話にしておこうか?」
「あっ、それいいかも」
二人で和やかに笑った。
「ところで、どうしたの? そのフライパン」
やはりフライパンは昌子の目にも異様に映るらしい。
「片付けた荷物の中にあったのさ。お袋が使っていたやつでね。僕たちが引っ越した後も、親父が使っていたんだ」
「それをお母さんに?」
「うん。お袋の想いと、親父の想いが詰まった、この鉄のフライパンがそのまま捨てられるのが、何となく忍びなくってさ。それにこれを作った人も悲しむだろうなって。僕、今は帰帆市で生活保護の仕事をしているんだけど、親父の死に直面して、すごい仕事をしているんだなと思ったよ」
「そっか。栄ちゃんは相変わらず優しいね。それに、自分の仕事に誇りを持っているなんて立派だな」
「そんな立派なもんじゃないよ」
栄太郎は照れながら微笑み返した。
だが、この忌引きが明けてデスクに向かい、家庭訪問する自分は、昨日までの自分とは違うと栄太郎は思った。
それから昌子親子を家まで送った。光一を挟み、三人で手をつなぐ姿は、知らぬ人が見れば、仲の良い親子に見えても不思議はないだろう。
父の死後で不謹慎かもしれないが、こんな幸せがあってもいいと栄太郎は思った。父には果たせなかった、幸せな家庭を築きたいと思った。
(この子なら、自分の子として愛せるかもしれないな)
光一のあどけない笑顔を見て、ふと、そんなことを思った。光一も僕に屈託のない笑顔を向けてくれる。
光一が誰の子でも、この際、関係はない。昌子とならば、幸せを掴めそうな気がした。それはまるで、磁石のS極とN極が引き合うように、自然と惹かれ合うものかもしれない。
昌子の家の前で僕は二人に手を振った。
「お兄ちゃん、また会おうね」
光一がにっこりと笑い、大きく手を振る。
「夕方だったら、だいたい空いているから、電話ちょうだいね。メールはいつでもOKよ」
昌子ははにかみながら、小さく手を振る。
「ああ、必ず黒電話を鳴らすよ。それから、もしよかったら、このフライパンを使ってくれないか?」
「えっ、でも大切なフライパンなんでしょう?」
「マーちゃんに使ってほしいんだ……」
昌子はしばらく僕の目を見つめた後、コクリと頷いた。そして微笑む。
「私でよかったら、使わせてもらうわ」
「ありがとう」
栄太郎は夕陽に照らされて、プリズムのような光沢を放つフライパンを、昌子に手渡した。鉄は熱を伝え易い物質である。その鉄を通じてお互いの体温はおろか、気持ちまでが伝わるようだった。
「じゃあね」
栄太郎はメトロノームのように手を振って歩きだした。
角を曲がるまで、何度も昌子の家を振り返る。昌子も貴もずっと僕を見送り、手を振っていた。栄太郎も振り返る度に手を振る。
角を曲がるのを躊躇った。しかし今はここで足踏みをしているわけにはいかなかった。栄太郎は断腸の思いで、曲がり角の一歩を踏み出した。
栄太郎は茜色に染まった湯鶴の町を駅の方へ向かって歩き出した。すると海底公園の前をもう一度通ることになる。再び公園内に足を踏み入れると、栄太郎はタコの遊具に歩み寄った。そして思い出の染み込んだ、コンクリートの赤いタコをそっと撫でる。
過去の思い出だけではない。これからも思い出を重ねていくタコかもしれない。そんな思いでタコを撫でた。
そしておもむろに携帯電話を取り出すと、着信音を黒電話に変更した。そして黒電話が何回か鳴った後に、あのフライパンが栄太郎のところに戻ってくるような気がした。女の予感は当たるというが、時には男の予感だって当たる時があると栄太郎は自負していた。
公園を後にし、再び歩きだした栄太郎は喉が乾いていることに気が付いた。
(そうだ。もう一度、大東に寄ってみよう)
ふと、栄太郎は思いついた。室伏も「味の大東」に行くと言っていた。もしかしたらまた会えるかもしれない。
いつの間にか、速足になっていた。
信号の角にある「味の大東」の自動ドアをくぐると、お店のお兄さんが「いらっしゃい」と元気な声を掛けてくれた。昼間と違い、客はまばらだ。
「あれ、お兄ちゃん、昼間も来なかった?」
お店のお兄さんは客の顔をよく覚えているらしい。
「今は空いているから、テーブルでもカウンターでもいいよ」
栄太郎は奥の座敷を覗き込んだ。思った通り、そこには澤井と柏木、それに室伏がいた。みんなチャーシューや手羽先をつまみにビールを煽っている。
「先程はどうも」
栄太郎が声を掛けると、真っ赤な顔をした室伏さんが、人懐っこい顔で手招きをする。
「こっち、こっち」
「混ぜてもらってもいいですか?」
「もちろんですとも」
澤井が爽やかに笑った。
「お兄ちゃん、何にする?」
お店のお兄さんが注文を聞いてきた。
「焼酎をもらおうかな」
「割るものは?」
「いらない」
「じゃあ、氷と水でいい?」
ここの焼酎は酒屋で売っているようなカップの焼酎をそのまま出す。それを自分の好みのもので割って飲むのだ。
長太郎はいつもカップのまま、一杯目はグーッと飲み、二杯目からはチビチビと飲んでいた。
「今日はどうもありがとうございました」
栄太郎は正座をし、改めて澤井たちに頭を下げた。彼らにはいくら感謝の意を表しても限りがないと思う栄太郎だった。それは同じ仕事をしているからこそ、より一層強く思えるのだ。
「いいんですよ。これが私たちの仕事ですから」
澤井がにっこり笑って言った。最初に彼から電話が掛かってきた時との距離は確実に縮まり、旧知の仲のように思える栄太郎であった。柏木も室伏もそうだ。
「いやー、今日の片付けはしんどかったけど、良かったなあ。こうやって息子さんも来てくれたし」
柏木が真っ赤な顔をして笑った。彼の顔も爽やかだ。
「終わり良ければすべて良し、ですね」
室伏が振り向き様にビールのおかわりを注文する。
程なくしてビールと焼酎が運ばれてきた。
「じゃあ、改めて献杯」
栄太郎は焼酎のカップを、三人はビールのグラスを掲げた。
栄太郎は焼酎に映る自分の顔を眺めた。栄太郎は自分の顔を見て、憑き物が取れたような、晴れやかな顔をしていると思ったものだった。
(お父さん、もう許してやるよ)
心の中でそう呟くと、僕は焼酎をグラスに空けることなく、カップのままグーッと飲み干した。
「おお、やるねえ」
栄太郎が焼酎を飲む様を見て、柏木が驚いたように言った。
「親父がよく、この店でこうやって飲んでいたんですよ」
「なるほど、お父さんに捧げる一杯ってわけですか」
柏木が微笑んだ。
「すみません。焼酎のおかわりと、おしんこ、チャーシュー盛り合わせに手羽先八本!」
栄太郎はお店のお兄さんに大声で注文した。
すると、焼酎とつまみが運ばれてきた。僕は焼酎をチビチビと啜り始めた。
「さっきの勢いはどうしたんですか?」
室伏さんが冷やかすように笑った。特に悪気があったわけではないことはわかっている。
「親父はね、二杯目からはチビチビやっていたんですよ」
「そうでしたか」
僕は先程からあまり喋らない澤井さんの顔を見た。彼は冗談話を交えて、笑う柏木さんと室伏さんを見てニコニコしながらビールをチビチビと飲んでいる。
「澤井さん、この仕事って辛くありませんか?」
「そりゃあ、辛いことの方が多いですね。よく苦情も言われるし、時には体を張ることだってあります。仕事の九割は苦しいかな」
それでも澤井は笑顔を絶やさない。
「よく続けられますね」
栄太郎は真剣な顔をして澤井の目を覗き込んだ。だが彼の目は優しそうに笑っている。
「ふふふ、今回みたいなことがありますからね。だから続けたくなるんですよ」
澤井の目はまるで栄太郎に感謝をしているようだ。感謝をしなければならないのは自分の方なのにと栄太郎は思う。
「どんな仕事でも、真剣に打ち込めば辛く、苦しいものですよ。家族や守らなければならないものが増えれば肩にその分、余計な重みも加わるし」
澤井の口調は爽やかだった。
「人だって、この混沌とした現代で生きていくのは大変な状況ですよね。バブルが崩壊してから保護率も上がりましてね。今も長引く不況で右肩上がりでしょう。全国平均でも百人に一人くらいは生活保護を受けている計算になりますからね」
「確かに統計月報を見ると凄まじい勢いですものね。で、湯鶴町はどうなんですか?」
「まあ、グッチャグッチャですよ。保護率で言えば十六パーミリに手が届くんじゃないかな。それだけ貧富の格差が拡大し、低所得層が多いってことですよ」
栄太郎は摘まみかけたチャーシューを口に運ぶのも忘れ、澤井の話に聞き入った。
ただ、今の栄太郎には保護率など問題ではなかった。長太郎の死を受け止め、未来へ向かって誠実に、そして確実に歩いていくことが大事なのだ。
昌子もクッキー工場の収入だけでは食べていけないと言っていた。もし頼れる実家がなければ、彼女も生活保護を受けていたのだろうかと栄太郎は思う。脳裏に何人かの母子家庭のケースが浮んだ。
「何か、人の温もりとか、絆とかそういうものが希薄になっているような気がするんですよね。だから、昨日と今日、北島さんが来てくれてホッとしているんです」
「私もようやく父を許す気になれましたよ」
栄太郎はチャーシューを口へ運び、半分位に減った焼酎を眺める。そこにあの日の父が浮かぶ。
「湯鶴町はどうですか、湯鶴町は?」
酔いの回った柏木が、身を乗り出して尋ねてきた。
「正直言って、昨日までは鬼門だったんですけどね。今日は改めてすばらしい故郷であることを実感しましたよ」
「よっしゃあ!」
柏木と室伏が腕を組んだ。
栄太郎の心の中は、喉に刺さった魚の骨のようだった父の存在に一区切りをつけられたことと、昌子との再会の喜びで満たされていた。
昌子と再会できたのも、もしかしたら父が編んでくれた運命の糸なのかもしれないと思う栄太郎であった。思わずポケットの携帯電話を確認してしまう。昌子親子が側にいてくれたら、おそらく仕事への意欲も更に上がるに違いない。
何かの歯車が動き出していることは確かだった。
気が付いたら、栄太郎の焼酎は空になっていた。三人のビールも残り少ない。
「俺たちも焼酎にするか」
柏木が焼酎を注文する。さすがにストレートとはいかず、烏龍茶で割るようだ。栄太郎も焼酎の追加を注文する。
「強いですねえ」
澤井が呆れたように言った。
「さあ、さっきは北島さんのお父さんに献杯をしたから、今度は北島さんの今後と、我々の今後の発展を祝して乾杯をしようじゃないか」
柏木が明るい声で言った。
程なくして運ばれてきた焼酎。三人はそれぞれ自分で烏龍茶割りを作る。普通、町の職員が県の職員のグラスに注いだりするものだと思っていたが、そんなことは一切しない。それぞれ思い思いにグラスに注ぐ仕草が自然で、少しもいやらしくなかった。
「それじゃあ、今度は乾杯!」
三つのグラスとひとつのカップがまたぶつかり合う。
言葉を超える、打ち解け合った空気がそこにあった。父との関係もただ和解という言葉で片付けられるものではないと栄太郎は考えていた。
そして今日から故郷として復活した湯鶴町。また、これからも昌子を通じて関わっていくであろう湯鶴町に思いを込めて、ストレートの焼酎を啜った。
忌引きが開け、栄太郎が出勤すると、高橋係長が手招きをした。
「今回は大変だったな。ご愁傷様」
「いえ、取り敢えずは父の墓を作らないと……」
「そうか……。ちゃんと遺骨は引き取ってきたんだな」
「はい。家の片付けも済ませました」
栄太郎がそう言うと、高橋係長は満足そうに微笑んだ。だが、すぐに真剣な顔に戻る。
「忌引き明けで申し訳ないんだが、実は小山藤吉が危篤らしいんだ。愛向会病院ではまた新生会病院に移すことも考えているらしい。溜まった仕事を処理する前に一丁、様子を見てきてくれないか?」
「わかりました」
栄太郎は上着を羽織ると、公用車のキーが仕舞ってあるボックスへ向かった。そして、無造作にキーをひったくると、階段を下りた。駐車場で公用車に潜り込み、エンジンをかける。少し整備の悪い公用車はガタピシ言いながら、ブオーンという爆音を上げた。
栄太郎は公用車を運転しながら、人の死について考えていた。栄太郎は思う。そこには人それぞれの想いが介在すると。父、長太郎の死についても母の存在がなかったら、それこそ無縁仏に葬られていたかもしれない。今まで何人か無縁仏にケースを入れてきた栄太郎ではあったが、それは人の尊厳からかけ離れているような気がしてならなかった。だったら、自分にできることは何だろうとも考える栄太郎であった。
物思いに耽っていると栄太郎の運転する公用車は愛向会病院に着いた。
受付へ急ぐと、ケースワーカーの野地が栄太郎を待ち構えていた。
「北島さん、遅かったよ」
「え?」
「今しがた、小山藤吉が息を引き取ったんです」
「そうなんですか?」
「他の患者との関係もあるんで保護室で様子を見ていたんだけど、巡回したら死んでいてね。まあ、死亡診断書には発見した時刻を記載しておくから。しかし、参ったよなぁ。うちは精神病院だろう。ああいう死に方はちょっとねぇ……」
「ご迷惑をお掛けしました」
野地は栄太郎を霊安室に案内した。それほどこの病院で死ぬ人間は多くはないのだろう。霊安室は狭かった。
「葬儀屋はどうします?」
「辰巳屋さんにお願いしたいと思います。わけありのご遺体をよく引き取ってくれるので」
「こっちも巡回してみたら死んでいたなんていうのは不名誉なことなんでね。ひとつよろしくお願いしますよ」
栄太郎は小山藤吉の顔にかけられている布を取った。だらしなく開いた目と口が、彼の末路を象徴していた。
「親族っていましたっけ?」
野地が遺体を見ながら、栄太郎に尋ねた。
「妹が隣の持立市にいますよ。何とか話をつけてみます」
「引き取ってくれるかね?」
「やってみますよ。それが僕の仕事ですから」
栄太郎には先日の笹熊福祉事務所の澤井とのやり取りが記憶の中で膨れ上がっていた。
(人の死にはそこに想いが介在する)
そんな思いで、栄太郎は小山藤吉の遺体を見つめた。
市役所に戻った栄太郎は辰巳屋に連絡を入れた後、すぐに持立市に住む小山藤吉の妹、古谷啓子に連絡を入れた。
「あんな兄でも私にだけは優しかったんです」
古谷啓子はそう言って、葬儀を引き受けてくれた。栄太郎は内心、ホッとしていた。
だがその一時間後、古谷啓子からまた電話が掛かってきた。
「あのー、申し上げにくいのですが、兄の葬儀はやっぱり出来かねます」
「えっ、どうしてですか?」
「両親が猛烈に反対しておりまして……。暴力団員は親族の墓には入れられないと……」
「確かに小山さんは暴力団に所属していたかもしれません。でも、死んだ人間ですよ。その罪ももうこの世にはないんですよ」
「でも、親族に猛反対されていて、私、どうしたらいいかわからなくって……」
電話口の向こうで古谷啓子は泣いていた。栄太郎は必死の説得を続ける。父の死を乗り越えたからこそ、説得しなければと思った。
「古谷さん、無縁仏がどんなものかご存知ですか? あそこに入ってしまうと、生きていた証さえも末梢されるようなものですよ」
「ううっ……」
古谷啓子は電話口で泣き続けていた。
「実は僕の父も死にましてね。もう少しで無縁仏に入れられるところでした。古谷さんに後悔だけはしてほしくないんです」
「わかりました。両親は呼ばずに、私だけで何とかします」
その言葉を聞いて、栄太郎は高橋係長に向かい親指を立てた。栄太郎の心の中で少しはすっきりとした感じだった。
栄太郎は人の死に対するイメージが確立されつつあった。確かに尊厳のない死も存在する。高山真治や横井啓太のように人から忘れ去られるような死もあった。しかも人の死に様も決して綺麗なものばかりではない。だが、関わる者としての想いが、今の栄太郎にはある。確かに葬儀とは崇高な儀式ではあるが、そこに関わるにはドロドロとした情念が渦巻いているのである。そこを浄化させるのも自分の役割だと栄太郎は認識していた。
「話もまとまったようだし、今夜あたりホッピーが飲みたいな」
高橋係長が栄太郎の方をチラッと見て言った。
「飲みたいですね。今夜は僕もホッピーで付き合いますよ」
栄太郎は爽やかな笑顔を、高橋係長に向けた。
(了)