生と死
横井啓太が笹熊大橋で死亡しているのが確認されたのは七月二十四日の未明のことだった。横井啓太といえば、無料低額宿泊所から姿をくらましたホームレスである。当然のことながら、生活保護はとっくに廃止となっていた。
その横井啓太が帰帆市と二カ瀬町の境である、笹熊川に架かる笹熊大橋で行き倒れているところを発見されたのだ。通報者は早朝ランニングをしていた地元の主婦で、救急車を要請したが、その時、既に死亡が確認されていた。そこで帰帆警察署に遺体は搬送されたのである。
「頭はどっちを向いていた?」
高橋係長はそのことが気に掛かるようだった。
「どうやら、こっち(帰帆市)を向いていたようです」
栄太郎は高橋係長を見て言った。
「じゃあ、面倒臭いけど、うちでやるより他はないな」
「頭の向きが関係あるんですか?」
「ああ、市町村の境に架かる橋で行旅病人や死亡人が出た場合は、頭を向けている市町村が管轄をするんだ。生保も同じだよ。つまり、そっちに行こうとしていた意思があったということでな」
「でも、後ろ向きに倒れていたら逆じゃないですか?」
「そんなことまでは知らん。兎に角、そういう取り決めになっているんだよ」
高橋係長は面倒臭そうに、そう言った。
「問題はこれからなんだ。民生委員が葬祭の執行者になってくれれば生活保護法第18条2項2号(葬祭扶助)でも処理できるし、逆に葬祭の執行者がいないとなると墓埋法(墓地、埋葬に関する法律)や行旅法(行旅病人及行旅死亡人取扱法)での処理も可能だ。まあ、どれもうちの市ではこの生活福祉課の業務だがね。こういう場合はいつもどれでやるかで揉めるんだ。まあ、生保でやるならば、民生委員に葬祭の執行者になってもらうんだな。墓埋法と行旅法の担当は戸沢だ。よく検討、相談して決めてくれ」
「今回は葬祭扶助を適用できませんか?」
「ん、何故だ?」
「生保で関わった方ですから、僕が最後まで責任を持ちたいんです」
「わかった。ケースワーカーにはその思いが大切だ。いいか、小さくまとまるなよ。自分の信じた道を行け」
「はい……。で、今回の葬儀屋も辰巳屋です。警察から連絡がありました」
「しかし、警察もよく身元がわかったな」
「遺品に受給者証があったそうです。警察はそれでまだ生保のお客さんだと思ったらしく……」
栄太郎には横井啓太に対する思いがあった。確かに生活保護として関わった日数は少ない。ただ、NPOにホームレス狩りで無料低額宿泊所に押し込められ、自由を奪われていた彼に同情していたのだ。横井啓太は栄太郎には本音を言い、二カ瀬町でホームレスをしていたという事実を告げてくれた。そんな彼の最後を看取ってやりたかった。
栄太郎は受話器を上げると、早速、辰巳屋へ電話を入れた。
「済みません。今回の横井さんは福祉扱いでお願い致します」
その横で、高橋係長はニヤニヤ笑っていた。
横井啓太の葬儀にはやはり葬儀屋の辰巳屋の他には栄太郎しか立ち会わなかった。花など付かない、火葬するだけのシンプルな葬儀である。
栄太郎は棺の中の横井啓太の顔を覗き込んだ。それは安らかな死に顔ではなかった。目こそ閉じられていたが、苦しみもがいたのだろう、口は開いたままだった。
辰巳屋が栄太郎に死亡診断書を見せてくれた。そこには「栄養失調症」と記載されていた。つまりは餓死である。これほど豊になった現代社会でも、まだ餓死が存在することをその死亡診断書は示していた。それは少なからず、栄太郎に衝撃を与えたのである。
横井啓太はあの無料低額宿泊所に入所していれば、餓死は免れたかもしれない。しかし、横井啓太は自由と人間の尊厳を貫いて、あの無料低額宿泊所から行方をくらましたのだ。おそらくは、二カ瀬町の漁港に戻ったであろうことは、容易に推測できた。何故、帰帆市に向かっていたのかは不明だ。もしかしたら、また生活保護の相談をしに来たのかもしれない。だが、遺体は何も喋らなかった。
「それでは出棺です」
重々しい音を立てて、斎場の釜が開いた。いよいよ火葬である。栄太郎は釜に入れられていく棺に向かって手を合わせると、黙祷を捧げた。
横井啓太が荼毘に付されている間、栄太郎は辰巳屋と世間話をしていた。
「辰巳屋さんは金にならない葬儀ばかり引き受けているんじゃないですか?」
「大きな声では言えませんがね。親族で葬儀を出す場合は、それなりに頂いているんですよ」
「福祉で葬儀をする場合と、親族が葬儀をする場合では、そんなに値段が違うもんですか?」
「三倍から五倍は違いますよ」
「すると、大雑把に見積もっても百万以上はかかると……」
「そう思って頂いて結構です」
栄太郎は葬祭ビジネスの裏側を少し垣間見たような気がした。
「でも、前みたいな、あの高山真治さんみたいな、あんなご遺体も結構あるものなんですか?」
「孤独死でもすべてが福祉の世話になるわけじゃありませんからね。親族が葬儀を引き受けてくれれば、親族でお願いするケースも多いですよ。警察も結構、親族にはごり押ししますからね」
栄太郎は思った。横井啓太や高山真治のような孤独死は氷山の一角なのだと。兎角、殺伐としがちな生活保護の業務で、死に対する感覚が麻痺しているようにも思えてくる栄太郎であった。
(だが、今は感傷に浸ろう……)
栄太郎は無料低額宿泊所で寂しげな微笑を浮かべていた横井啓太の顔を思い浮かべていた。
やがて火葬が終わり、横井啓太の遺骨が釜から引き出された。その遺骨は薄茶色をしており、随分と華奢な骨だった。栄太郎は辰巳屋と頭蓋骨の骨を箸で摘んだ。残りの骨は係員が集めて骨壷におさめていった。埋葬許可証をその上に添える。栄太郎はその骨壷を大事そうに抱きかかえた。
成願寺の無縁仏に横井啓太の遺骨を納骨に行ったのは、その日の午後であった。成願寺の住職は「またか?」と露骨に嫌そうな顔をした。
「新入りですが、よろしくお願い致します」
栄太郎はそう言って、住職に遺骨を引き渡した。住職は穢れた物でも持つように、遺骨を受け取った。
(感傷に浸るのはここで終わりだ……)
栄太郎は自分にそう言い聞かせていた。栄太郎には百人ほどの生きたケースがいる。その人たちの支援に頭を切り替えなければならなかった・
九月六日、その電話は突然掛かってきた。それは帰帆総合病院のケースワーカー、迫からの電話だった。
「高津栄子さんが本日、入院したんですが、医療費の支払いが困難なので、生活保護を申請したいのですが……、以前の経過から保護は無理だと本人はおっしゃるんです。でも、医療費の支払い能力はないんです。病院としても医療費の焦げ付きは困るので、生活保護に出来ないですかねぇ?」
「まあ、迫さんだから話しますけどね。高津栄子は以前に不正受給をしていたんですよ。黙ってスナックで働いていたんです。不正受給を見逃す代わりに、保護を辞退してもらった経過がありますので、そうおいそれとは保護をかけられませんよ」
「でも、事態は急迫しているんです」
「少し、所内で検討させてもらえませんか?」
「明日にはお返事を戴けますか?」
「わかりました」
栄太郎は頭を抱えて電話を切った。
程なくして、市役所裏口の灰皿の前に栄太郎と高橋係長の姿を見ることができる。栄太郎からの報告を受けた高橋係長は、煙草の煙の行方を目で追いながら、「うーむ」と唸った。
「で、北島としては、どうしたいんだ?」
「確かに保護をかけるのは悔しいですけど、病院との関係を悪化させたくないこともあるんですよね」
「それだけか?」
「は?」
「本当は高津栄子に同情しているんじゃないのか?」
「ああ、まあ、はい……」
高橋係長の言ったことは図星だった。栄太郎の中には高津栄子の保護廃止に対して、どこか胸につかえるものがあったのだ。それは不正受給までして、昔、棄てた息子に仕送りをしていた母の愛情にほだされたのかもしれない。栄太郎の心の片隅には、いつも高津栄子がいたのだ。
「まあ、仕方ないだろうな。口惜しいのは事実だが、今回はナナハチを大目に見ても同情する余地はある。北島の好きにやれよ。地区担当員は想いが大切だ」
「ありがとうございます」
栄太郎は晴れやかな顔をして、高橋係長に頭を下げた。高橋係長は「もう不正受給はしないという、念書を取っておけよ」と言い添えた。
翌日、栄太郎は帰帆総合病院を訪れていた。ケースワーカーの迫にまず挨拶をし、高津栄子の病室へと向かった。
「すみません。本当はお願い出来る立場じゃないのに……」
高津栄子はしおらしくそう言った。栄太郎は「いいんですよ」と言って、生活保護の申請書を差し出した。
「もう私、長いことないらしいんです……」
「え?」
「あれから二カ瀬駅前の肉屋で働き、夜はスナック。これでも頑張ったんですよ。でも急に不正出血して……。検査の結果、肺にも子宮にも癌が転移していて、手遅れだって先生が言っていました。入院も長引くことはないって……」
「後は在宅で通院ですか?」
「いよいよになったらホスピスを紹介するって先生が言っていましたわ」
「そうですか……。でも、頑張って病気と闘いましょうよ。息子さんに一目、会いたくないですか?」
すると、高津栄子は「ふう」とため息をつきながら、窓の外の景色を眺めた。
「そりゃ、息子にだって会いたいわよ。でもね、棄てた息子だからね。会ってくれるかどうか……」
「息子さんには僕から連絡を入れてみますよ。確か三徳園という児童養護施設に入所していましたよね。僕も僕なりに考えてみたんです。息子さんを施設に預けるには断腸の思いだったでしょうね」
「ううっ……」
高津栄子が嗚咽を漏らした。
「息子は私を恨んでいるでしょうね。でも、一人じゃ育てられなかった。育てられなかったのよ……」
栄太郎は立ち尽くして、高津栄子の泣く様を見ていた。高津栄子の息子、貴は非嫡出子だった。おそらく、高津栄子は人には言えないような苦労をその背中に背負っていきてきたに違いなかった。少なくとも栄太郎にはそう思えた。
高津栄子はひとしきり泣くと、「あんのことになったのに、本当に御免なさい」と言って、保護の申請用紙にペンを走らせた。
申請用紙を受け取った栄太郎は高津栄子の主治医の元へ足を運んだ。病状を聴取するためだ。
「そうだねぇ、持って二、三ヶ月というところかねぇ……」
主治医の井田医師はカルテを見ながら、そう高津栄子の余命を語った。
「二、三ヶ月ですか……」
「肺と子宮に癌が転移していて、手の施しようがないんだよ。抗癌剤や放射線治療も本人が拒否しているし、まあ、一週間くらい経過を見て、後は在宅ね。そして、痛みが酷くなったらホスピスというのが妥当じゃないかなぁ」
「そうですか……」
「会わせたい親族とかがいたら、早めの方がいいと思うよ」
「わかりました。お忙しいところ、ありがとうございました」
栄太郎は井田医師に深々と頭を下げると、診察室を辞した。
その翌日、栄太郎は児童養護施設「三徳園」に来ていた。高津栄子の息子、高津貴に会うためである。
高津貴はつまらなさそうな顔をして、園長室までやってきた。今は高校一年生になる高津貴であった。髪を茶色に染めた高津貴は今時の高校生といった風体をしている。
「お袋に何かあったんスか?」
高津貴は栄太郎に頭を下げることもなく、突っ立ったままそう言った。
「君のお母さんなんだけどね。末期の癌なんだ。もう、長いことはないと思う。もし貴君にその気があるならば、会ってやってくれないか?」
栄太郎は高津貴の瞳を見ながら言った。だが、高津貴は栄太郎と目を合わせようとはしない。
「俺には関係ないっスよ。俺を棄てたお袋ですよ。今更、会ったって何の意味があるんスか?」
「そうは言っても、君のために仕送りをしてくれていたじゃないですか」
「そうなんスか? 初耳です」
栄太郎も高津貴も「あれっ?」というような顔をした。園長が「ゴホン」と咳払いをする。
「ああ、君のお母さんからの仕送りね、あれは園で預かって管理しているから……」
園長が取り繕うように言った。
「何で今まで黙っていたんスか?」
「いや、君が将来自立するための資金として園で保管しているんだよ。今、君に話すと浪費してしまうだろう」
園長は苦し紛れの弁解をする。
「出納簿はあるんですか?」
栄太郎が園長を見据えて尋ねた。
「そんなもん、ないよ。送られてきた金は全部金庫に保管してある」
「やっぱり大人は信用ならねえな……」
高津貴がボソッと呟いた。その瞳は憎悪に燃えていた。
「俺の記憶の中では、お袋は優しかった。でも、俺を棄てたんだ。この施設にね。今まで幸せだった俺の生活は一変した。今までお袋が作ってくれた温かい飯から、冷めたゴムみたいな飯になるし、職員は俺の親になるつもりなんてない。時間が来たら『はい、さようなら』で交替だ。だから、大人なんか信用しない。俺はね、自分が怖いんスよ。これで、まともな大人になれるかなって……」
高津貴は恨みの篭った声色で、そう語った。
「君のお母さんはね、好きで君を手放したわけじゃないんだ。女手一つで君を育てられないと思い、苦しい選択の末、君をここへ入所させたんだ。だから罪滅ぼしの意味も含めて、君への仕送りは欠かさなかった。兎も角、一度会ってやってくれないかなあ、お母さんに……」
高津貴はボリボリと頭を掻いた。その表情は困惑している。
「まあ、考えておきます」
高津貴はそう言うと、踵を返し、園長室から出ていった。栄太郎は立ち上がると、その背中に「後悔はするなよ」と声を掛けた。だが、高津貴が振り返ることはなかった。
市役所に戻ると「待っていました」とばかりに、新生会病院の田辺から栄太郎に電話が入った。
「小山藤吉、意識が戻りましたよ。でも、脳の損傷が著しいのか、まともに会話もできませんよ。涎も流し放しです」
「そうですか……」
「うちもあんな患者をいつまでも看ているわけにはいかないので、愛向会病院という精神病院に転院させます。ここだけの話なんですがね。あそこは環境こそ良いとは言えませんが、いわゆる『お助け病院』なんですよ。まあ、あそこでレロレロのまま一生を過ごすのも仕方ないんじゃないですか。それなりに周囲に迷惑を掛けてきたんだし……」
「そうですか。手配、ありがとうございました」
「それにしても一ヶ月の医療費だけで軽く百万を越えましたよ。あんなのに税金を使うのは勿体無い気もしますけどねぇ……」
「僕の口からは、何とも言えないですね」
「まあ、そのうち愛向会病院に出向いて、状況を見てきてください。小山の最後に相応しい場所と言えば、言えるかもしれませんよ。ふふふ……」
田辺は意味深に笑った。栄太郎は電話口で思わず苦笑を漏らした。
愛向会病院ならば栄太郎の担当するケースも入院している。統合失調症の男性患者だった。いつもあらぬ妄想に支配されていて、とても在宅生活が営めるようなケースではなかった。そのケースの入院歴は二十年にも亘っていた。
木島愛子の妊娠が発覚したのは十月の支給日の時だった。
木島愛子は母子世帯の母親で、二人の息子がいる。一人は小学校一年生で、もう一人は未就学だ。二人の父親はそれぞれ違い、認知もされていなかった。
保護費を受け取りに来る際、異様に腹部が出ていた。
「木島さん、妊娠していますね?」
栄太郎はズバリと尋ねた。すると、木島愛子は「ああ、やっぱりバレちゃいましたか」と言いながら、舌をペロリと出した。
「相手は誰なんですか?」
栄太郎はカウンターから身を乗り出して尋ねた。
「携帯電話の出会い系サイトで知り合った男ですよ。やり逃げされちゃった」
木島愛子は悪びれる様子もなく、そう言って退けた。
「じゃあ、また認知してもらえないじゃないですか?」
「まあ、そういうことになりますね」
「今、何ヶ月なんですか?」
「五ヶ月目に入ったところかな……」
「それじゃ、もう堕せないじゃないですか。堕すのが良いとはいいませんがね、無責任ですよ。あまりにも……!」
「だってぇ、今まで誰にも相談できなかったんだもん……」
木島愛子は拗ねたように言った。栄太郎は後ろの事務椅子に「はあーっ」と深いため息をついて、ドサリと座った。
木島愛子はネグレクトの児童虐待で児童相談所にも通報があったケースだ。おそらく、産まれてくる子どもの養育もまともに出来はしないだろうと、栄太郎は推測する。
「そのツケは全部、生保かよ。税金かよ……」
栄太郎は恨みの篭った声で呟いた。
その翌日、早速、木島愛子の家庭訪問をした栄太郎だった。気は進まなかった。母子家庭の家庭訪問はどうも足が遠のいてしまう栄太郎であり、そのことを高橋係長にも指摘されていた。だが、今回はそうも言っていられない状況だ。木島愛子の家の中は乱雑をきわめていた。
「堕す費用も工面できなくて、ズルズルここまで来てしまいました」
木島愛子は言い訳がましく、そう言った。
「こういうことは、すぐに相談してくれないとね。小さなお子さん抱えて、どうやって産む気ですか? 頼れるところはあるんですか?」
「それが実家とは犬猿の仲ですし、頼れるところもなくて……」
「じゃあ、どうするつもりなんですか? まともに検診も行っていないでしょう?」
「ええ、産婦人科には行っていません。母子手帳もまだ貰っていないし……」
「まったく、無責任にも程がありますな」
栄太郎は腕組みをして、頭を垂れる木島愛子を見下ろした。それでも、検診も受けず、堕胎可能な期間を過ぎた木島愛子を何とかしないわけにはいかなかった。木島愛子の次男が、無邪気にも彼女の周りに纏わり付いていた。栄太郎はこの次男が小学校に入学したら、木島愛子に就労指導をしようと思っていたのである。保育所は木島愛子を嫌い、入所を断られていたのだ。何せ、ネグレクトで児童相談所に通報されるくらいである。木島愛子に子どもたちのまともな養育が出来るとは、栄太郎にはとても思えなかった。そして、高津貴のような思いだけは、子どもたちにさせまいとも思うのだった。
「寂しかった。寂しかったんですよ。誰にも相手にされない自分が……。だから出会い系サイトで……」
「少しは自分の立場をわきまえてください。親が遊び呆けて、悲しい思いをするのは子どもなんですよ」
「はい……」
木島愛子は項垂れた頭を上げることなく、小さく呟いた。
「まあ、こうなったからには仕方がない。検診命令っていうのを出しますから、助産施設でもある帰帆総合病院で検診を受けてください」
「わかりました」
栄太郎が検診命令書を差し出す。木島愛子はそれを恭しく受け取った。
十月十三日。栄太郎は高津栄子のアパートに家庭訪問しようと思っていた。もう、退院をし、在宅生活を送っている高津栄子である。本来は前日に家庭訪問をしようと思っていた栄太郎だが、「通院があるから」と今日になったのである。
アパートの呼び鈴を鳴らすが、返事はない。電気メーターはグルグル回っている。
「参ったなぁ。居留守を使うわけないんだけどなぁ」
栄太郎はドアノブを捻った。鍵はかかっていなかった。
「高津さん……」
すると、台所で高津栄子が倒れていた。
「高津さん!」
栄太郎は高津栄子の下に駆け寄った。その身体に触れてみる。だが、もう温もりはなかった。高津栄子は死亡していたのである。
「大変です。高津栄子が死んでいるんです。第一発見者になってしまいました」
栄太郎は高橋係長に携帯電話で、そう連絡を取った。高橋係長は「駐在を呼べ」と指示し、「昨日、病院に行っているなら大丈夫だ」と言った。
栄太郎の連絡を受けて駐在はすぐに来た。高山真治の時にもお世話になった駐在だ。
「こういう場合はまず救急車を要請してもらわないと困りますな」
駐在は動かぬ高津栄子を見て言った。程なくして、帰帆警察署より生活安全課の掲示と鑑識が到着した。
生活安全課長だという若い刑事は、自分より遥かに歳のいった刑事を顎でこき使っていた。栄太郎は生活安全課長なる男が、キャリア組であるのだろうと推測した。
「あんたが第一発見者?」
生活安全課長は手帳にペンを携え、栄太郎の前にやってきた。
「はい」
「高津さんは病気か何かあったのかね?」
「大腸癌が肺と子宮に転移して末期症状でした。昨日も帰帆総合病院に受診しているはずです」
生活安全課長はメモを取ると、「おい手島、帰帆総合病院の受診歴を調べろ!」と怒鳴った。指示された手島という刑事は、生活安全課長より遥かに歳は上である。既に頭も少し禿げ上がっている。手島刑事は「はい」と言うと、携帯電話を弄った。その生活安全課長の横柄な態度を見て、栄太郎は気分が悪くなった。
「昨日の十六時に帰帆総合病院に受診しています」
しばらくして手島刑事が生活安全課長に報告した。
「まあ、二十四時間以内に受診しているならば、問題はないだろう。しかしね、こういう場合はまず救急を要請すべきなんだよ」
「確実に死んでいてもですか?」
「死亡は素人が判断することではないんだ」
生活安全課長はピシャリと言った。それは口答えを許さない威圧感があった。
高津栄子はまた辰巳屋に遺体が引き渡された。栄太郎は辰巳屋と連絡を取り、葬儀について福祉でやることを告げた。
そして栄太郎は三徳園にも連絡を入れなければならなかった。そう、高津栄子の息子、高津貴にである。三徳園の三田という職員は葬儀の予定を聞くと「必ず、貴君を行かせますから」と言ってくれた。
三徳園の三田と火葬場に現れた高津貴は、髪を黒く染め戻していた。
「こんな形になっちゃったけど、お母さんと最後のご対面だよ」
栄太郎に促され、高津貴は棺を覗き込んだ。
「ううっ、お母さん……」
高津貴の目から大粒の涙がこぼれた。自分を棄て、どんなに憎い感情を抱いていたとしても、そこはやはり肉親の死だ。高津貴の胸中に悲しみが訪れないわけがないと思う栄太郎だった。親子の憎愛劇は死をもって終止符が打たれたのである。
「貴君が自立していれば、貴君に葬儀を執行してもらうところだけど、今回は福祉事務所の方でやらせてもらうよ。シンプルな葬儀だけどね。遺骨は一旦、成願寺の無縁仏に預けるから、貴君が働いて、お墓を造れるようなったら、是非お墓を造って、遺骨を移してあげるといい」
栄太郎がそう言うと、高津貴は「はい。必ず働いてお墓を造ります」と涙を拭きながら言った。
「それでは出棺のお時間です」
火葬場の釜が開く。
「お母さーん……!」
高津貴が大声を張り上げて泣いた。栄太郎は生きているうちに親子の対面が出来なかったことを悔やんでいた。
その翌日、高津栄子のアパートの片づけを行うことになっていた。栄太郎はそこに高津貴も立ち会わせる約束を取り付けた。三徳園の職員も非番なのに付き合ってくれた。
高津栄子の部屋は女所帯にしては珍しく散らかっていた。それは高津栄子が晩年、身体が言うことを利かなかったことを意味していた。
「結構散らかっているな……」
片付けの応援に来ていた田所と戸沢が口を揃えて言った。
「これが、お母さんの家……」
高津貴は呆然としている。
「そうだ、おそらく身体の自由が利かなくなっていたんだろう。散らかっているのはそのせいだよ」
高津貴はふと、箪笥の上に飾ってある写真を見つけた。そこには幼い日の高津貴が写っている。
「お母さん……、僕の写真を……」
それを手にした高津貴はそっと涙を滲ませた。
「そうだ。生活保護の不正受給をしてまで君に仕送りをしていたんだ。君にとっては立派な母親じゃないか」
栄太郎は高津貴の肩に手を置いた。その肩が震えていた。
「お母さん……」
「大体の物は片付けるけど、どうしても持って帰りたい物があったら持っていきなさい」
高津貴は部屋を見回す。その手には高津栄子が大事にしていた自分の写真が握られていた。
「母が……、一番大切にしていたものは何ですか?」
高津貴が震える声で尋ねた。
「それは君だよ」
答えたのは田所であった。
「正直、我々はスナックで隠れて働いていたお母さんを憎む感情を持っていた。生活保護の不正受給だからね。だが、そんな違法行為までして、君のお母さんは君に仕送りをしていた。それは一番に君の幸せを願っていたからじゃないかな」
「ううっ、お母さん……、お母さんにはもっと愛されたかった! お母さんにはもっと甘えたかった!」
高津貴がその場に泣き崩れた。本当はさっさと家の片づけをしたいと思っている田所と戸沢であったが、高津貴を黙って見下ろしていた。栄太郎がむせび泣く高津貴の背中をそっと撫でてやる。その仕草が優しかった。
田所と戸沢は箪笥の引き出しを開けた。
「こんな物が入っていましたよ」
戸沢が差し出したのは、臍の緒だった。高津貴の臍の緒である。
「君のお母さんは死ぬまで君のことを心配していたんだろうな。まあ、自分の腹を痛めた子だ。その親子の繋がりは君が考えている以上に深いと思うよ」
戸沢が臍の緒を高津貴に渡す。高津貴は恭しくそれを受け取った。
「あーあ、下着が散らかってらぁ……」
田所が何枚かの下着を手で掬った。それはパンツだったのだが、子宮癌による不正出血が続いていたのだろう。パンツは血と澱物で汚れていた。
「お母さんの血……」
高津貴がそのパンツを見つめた。
「まだ生きていた頃の証だよ……」
栄太郎が唸るように言った。
「それ、僕に下さい……」
「どうぞ。ビニールに入れようか?」
「いえ、そのままでいいです。汚い物とは思えませんから……」
高津貴は田所から汚れたパンツを受け取った。
それは年の瀬にも近い十二月十五日から三日間にかけて行われた。生活保護法施行事務監査である。それは県本庁の生活援護課から監査職員が派遣され、事務運営面、ケース検討を行われるのである。監査職員は書面検討を行った上で、査察指導員や地区担当員からヒアリングを行うのだ。栄太郎にとっては初めての経験であったが、そのための資料作りに、連日大残業を行って挑む監査であった。
それは監査二日目に発覚した。一時扶助の移送費の支給明細に受領印がないものが発見されたのだ。それは田所が担当するケースの受領印だったのだが、「北島、お前、ちょっと行って、受領印貰ってきてくれ。市役所のすぐ近くだから」と高橋係長に言われ、田島聡の移送費の受領印を栄太郎が貰いにいくことになった。田所はヒアリング中だった。監査ではそのような受領印もチェックされる。監査終了までに受領印を貰えば、それは指摘事項から削除されるのである。だから、高橋係長にしても必死だったのだ。
田島聡のアパートは帰帆市役所の裏手、すぐのところにあった。田島聡はクローン病という難病を抱えており、遠方の病院まで通院していた。その通院費が高額になるため、随時支給していたのである。
呼び鈴を鳴らすと田島聡はすぐに出てきた。
「済みません、田島さんですか? 福祉事務所の北島と言います。田所の代わりに参りました」
「な、何だね、突然に……」
「実は通院移送費の受領印を貰い忘れていて……」
栄太郎は支給明細書を田島聡に見せた。そこには二万円を越える金額が記載されている。
「何だって? 私は通院費など一度も貰ったことがないですよ。それに先月は通院していない」
「え?」
「だから、こんな金、貰った覚えはないと言っているんだ」
信じられることではなかった。栄太郎には正直、田島聡がとぼけているのかと思った。
「私はお国の世話になるだけで十分なんだ。通院費まで貰っちゃ悪いですよ。それに持病で通院するのは年に二回くらいのものですよ。検査を兼ねてね」
「それじゃあ、これは一体……」
「さあ、知らないね。貰った覚えのない書類に印鑑は押せないよ。じゃあ……」
そう言って田島聡はドアを閉めた。栄太郎は呆然としていた。
(まさか、田所さんが横領を……?)
市役所に戻った栄太郎は事の次第を高橋係長に報告した。
「何だって?」
普段冷静な高橋係長の顔が青ざめた。そこへヒアリングを終えた田所が事務所に戻ってきた。
「田所、お前、この受領印が貰えないのはどういうことだ。説明してみろ!」
高橋係長が支給明細書を田所に突きつけた。田所の手からメモ用紙がはらりと落ちた。
それはやはり横領だった。田所は一時扶助と呼ばれる保護費をケースから申請があったように見せかけ、三文判を用意して自分の懐に入れていたのである。監査の間に一時扶助の台帳はすべて見直しがされた。そこで、田所が四年間で横領した額は二百万円以上にのぼることが判明した。
栄太郎にはショックだった。田所は栄太郎にとって良き先輩であった。高山真治の葬儀の時には的確なアドバイスをくれた。高津栄子の不正受給発覚の時にも側にいてくれた。先日も高津栄子の家の片付けを手伝ってくれたばかりだった。栄太郎にとっては頼りになる先輩像そのものだったのである。そんな田所が裏で一時扶助を不正に請求し、懐に入れているなど信じられることではなかった。
だが、それ以上にショックを受けているのは高橋係長だった。高橋係長はいつも地区担当員から報告を受け、彼らを信じ、味方になってくれていた。田所の横領はそんな高橋係長の信頼を裏切る行為だった。
田所の手口は実に巧妙だったが、それは福祉事務所の体制にも問題があると生活援護課からは指摘された。経理と保護の決定が別の班で行われ、その連携が取れていなかった。だから、田所は電算システムで簡単に一時扶助費を入力して、架空の請求を行っていたのだ。
田所の横領は記者発表され、新聞にも載った。当然のことながら、田所は懲戒免職処分となった。田所の家族が横領した金額を自己弁済したため、起訴は見送られた。
田所は「ほんの出来心でやってみたら、上手くいったのでズルズルとやってしまった。横領した金は遊興費に使った」と自白していた。それは帰帆市福祉事務所、始まって以来の不祥事だった。
「辛いなぁ……」
ある晩、高橋係長と一杯引っ掛けにいった栄太郎は、普段、弱音を吐かぬ高橋係長がしんみりとそう言ったのを聞いて、田所の一件の傷の深さを噛み締めていた。
田所の不祥事から生活保護班と経理班の関係も見直され、支給に対するチェック機能も強化された。ただ、栄太郎には何を信じていいのかわからなかった。あれだけ信頼を寄せていた先輩にまで裏切られたのである。
だが、高橋係長は「小さくまとまるなよ」と言って課員の士気高揚を煽っていた。
高橋係長から栄太郎が「相談員が新規を抱えすぎているから、お前も手伝ってやってくれ」と言われたのは、監査が終了して間もなくのことであった。高橋係長は「新規ケースの開始をするのも勉強の一つだ」と言っているのを聞いて、栄太郎は引き受けることにした。確かにここのところ、保護率は右肩上がりだった。申請件数も前年度の二分の一増で上がっていた。
その男はフラッとやってきた。酒臭い息を振りまいて。
「おらぁ、生活保護受けさせろや!」
男は窓口で怒鳴った。高橋係長が栄太郎に目配せをした。栄太郎はカウンターへ歩み寄った。
「生活保護のご相談ですか?」
「そうに決まってんだろう!」
「そんなに酔っ払っていたら、まともな話し合いができませんね。後日、改めて来所してください」
栄太郎は穏やかな口調で言った。
「何だと、馬鹿にする気か! 金なら全部使っちまった。俺は以前、東京の台東区でもホームレスの施設にいたことがあるんだ。お前ら何だかんだ言って、保護を申請させないつもりだろう!」
「だから、酔っ払って来るというのがですね……」
「うるさい!」
男は激怒している。何に対して激怒しているのか、よくはわからない栄太郎であった。
「そんな態度で来られても困りますね。あなたは保護を受けたいんでしょう?」
「そうだ、俺には保護を受ける権利がある。権利を主張して何が悪い! 俺はな、家賃も滞納していて、立ち退きを迫られているんだ」
男は悪びれもせず、そう開き直った。
「保護を受ける権利じゃなくて、申請する権利だ。保護を決定するのはこちらの役目だ」
助け舟をだしてくれたのは面接相談員の小島だった。小島は男に保護の申請用紙を叩きつけると、踵を返していった。保護の申請用紙に男は名前を記載した。工藤正道という名前だった。年齢は五十六歳である。
「保護を申請する理由は?」
「だから無一文だって言っているだろう」
「五十六歳と言ったら稼動年齢層ですね。仕事は探しましたか?」
「最近、喉の調子がおかしくてよー」
「それでも酒は飲めるんですね」
栄太郎が皮肉たっぷりに言った。
「生活保護には補足性の原理というのがあります。喉が痛くて働けない。それで酒は飲める。そんな言い訳通用しませんよ。明日、十時にしらふで職安に来てもらいましょうか。まずは職探しですよ」
男は汚い字で申請理由に「お金がないため」と書いた。保護申請書、資産申告書、収入申告書、資産調査のための同意書などを徴取し、工藤正道の生活保護申請の手続きは終了した。早速、住民基本台帳で工藤正道を調べた栄太郎だが、五年前に住民票は職権消除されていた。
翌日の十時過ぎ、工藤正道は帰帆公共職業安定所に現れた。酒は飲んでいないようだった。栄太郎は職安の中で工藤の姿を見つけた。
「工藤さん、こっちですよ!」
ごった返す職安の中で、工藤正道はオロオロしていた。
栄太郎が工藤正道を連れて行ったところは専門援助部門と呼ばれる窓口だ。生活保護の受給者や障害者のための窓口だ。
「どんなお仕事をお探しですか?」
職安の加藤という眼鏡をかけた女性が工藤正道に尋ねる。加藤は帰帆職安の専門援助部門に勤務する職業指導官だ。
「えーと、そのー……」
工藤正道が口ごもる。栄太郎にはわかっていたのだ。工藤正道は福祉事務所に「職安に行け」と言われたから来ただけであり、本気で職探しをしているわけではないことを。
「何でもできます。警備から旅館の下働きまで」
業を煮やした栄太郎が代わりに言った。
「でもー、喉が痛いんだよな」
酒を飲んでいない工藤正道は気弱だ。
「でも、酒は飲めるんですよね。だったら働けない理由はないですよね。警備のお仕事で検索してもらえますか?」
栄太郎は加藤にそう依頼した。すると、加藤はすぐにコンピューターを叩いた。
「はい、パチンコ屋の駐車場整理なんかどうしかしら? マルキョウっていうパチンコ屋で募集しているわよ。でも、警備は人気職種で難関かもね。旅館のフロントの方が確実かしら」
「だったら、そっちのセンでお願いします」
加藤がまたコンピューターを叩く。
「富士見荘という旅館で雑用を募集しているわ。ここなんかいいんじゃないかしら。まだ埋まっていないし……」
「そこ、紹介していただけますか?」
栄太郎は身を乗り出して、加藤に頭を下げた。その仕草が可笑しかったのだろう。加藤が失笑した。
「まってくれ、俺の希望はどうなる?」
工藤正道が口を挟んできた。だが、栄太郎はキッと彼を睨み返した。
「あなたはまず、どこでもいいから働くのが先決です。もし、働いて足りない分は生活保護で足し米をしたっていいんです」
「じゃあ、富士見荘でいいのね」
加藤が電話の受話器を持ち上げた。
「富士見荘さんですか? こちら帰帆職安の加藤と申します。そちらで募集している雑用、まだ埋まっていませんか? ええ、名前は工藤正道、五十六歳です。はい……、すぐにですか? わかりました」
電話を切った加藤は「即決よ」と言って、親指を立てた。そして、求人票の手配をする。
「先方はすぐにでもあなたに来てもらいたいって……。よかったじゃない」
栄太郎は「すぐに富士見荘へ行ってください」と佐藤正道に指示した。工藤正道は自信の無さそうな顔をしながら、「はあ」と頷いた。
工藤正道が酔っ払って生活福祉課の窓口に現れたのは、その翌日であった。
「おう、北島はいるか!」
「また酔っ払っていますね?」
窓口対応をした栄太郎がきつい目で、工藤正道を見つめた。
「おう、そうともよ。酔って何が悪い。俺にあんな仕事を紹介しやがって。旅館の雑用など俺は嫌だぞ。俺のプライドが許さん!」
「あの仕事、断ったんですか?」
「おう、そうともよ。断ってやったわ。俺は生保が受けられればいいんだ!」
「却下だ!」
栄太郎の後ろで声がした。高橋係長が怒鳴ったのだ。高橋係長は立ち上がると、ツカツカとカウンターまでやってきた。
「確かにあんたには保護を受ける権利があるかもしれない。だが、同時に稼働能力を活用する義務もあるんだ。権利ばかり主張して義務を果たさない奴にホイホイと保護をかけるほど、こっちも甘くないんだ。現にあんたは金がないと言いながら酒を飲む金はあるんだろう」
高橋係長は怒りで顔を真っ赤にしていた。
「あんたは俺に死ねって言うのか!」
「そうは言っていないよ。ただ、あんたは稼働能力の非活用で保護却下だ!」
「畜生! 俺は東京の台東区でも保護を受けて施設にいたんだぞ! 保護を却下するというなら、審査請求(不服申し立て)をしてやる!」
「勝手にすればいいだろう」
工藤正道はもう一度「畜生!」と怒鳴って、引き返していった。高橋係長はまだ怒りが収まらないのか、握った拳がプルプルと震えていた。
県庁の生活援護課から電話が掛かってきたのは、工藤正道の保護却下が決定して四日後のことだった。
「出ましたよ。工藤正道さんの審査請求」
「やっぱり出ましたか……」
「どうやら、工藤さんの後ろにはホームレスの支援団体がついているようですな。今回の場合、稼働能力の非活用だけではちょっと厳しいですな。検診命令をかけていないでしょう。工藤さんは足が痛くて働けないと言っている」
「喉の痛みは訴えていましたけどね。足の痛みなんて全然言っていませんでしたよ」
栄太郎は開いた口が塞がらなかった。
「それにしても、金がないと言いながら、よく本庁まで行けましたね」
栄太郎は皮肉を込めて言った。
「まあ、審査請求書の写しを送りますので、そちらも弁明書の方、よろしくお願いしますよ」
生活援護課は「よくも面倒なことを起こしてくれたな」という態度を露にしていた。横領事件の後だけに栄太郎もバツが悪かったのは仕方がないところか。
栄太郎は釈然としない気持ちで電話を切った。高橋係長は「これは裁判だ。絶対にうちが負けるわけにはいかない」と意気込んでいた。
だが、事態は思わぬ方向へと進んだ。
その翌日のことである。二カ瀬町役場の福祉課から電話が掛かってきたのは。
「済みません、工藤正道って帰帆市の住民ですか?」
「いえ、住民登録は五年前に職権消除されていますね。アパートは立ち退きを迫られているって言っていましたけど……」
「そうですか、保護の却下通知があったから、てっきり帰帆市の住民かと思いましたよ」
「工藤正道に何かあったんですか?」
「漁港でね、酒に酔った挙句、転落して水死したんですわ」
「死んだんですか? 工藤正道が……」
栄太郎は驚愕した。
「ええ、昔のホームレス仲間と漁港で飲んでいましてね。仲間の話では用を足した時に誤って海に転落したらしいんです。何でも近いうちに生活保護を貰えることになるからと言って、仲間に酒を奢っていたらしいですよ。まあ、帰帆市にアパートがあって荷物があるなら、そっちでお願いしますわ。うちも無縁仏がそろそろ一杯でしてね。本当は困っているんです。あ、葬儀屋は辰巳屋です」
「ああ、わざわざご丁寧に。それじゃ、こっちで検討してみます」
電話を切った栄太郎は事の顛末を高橋係長に報告した。
「あいつらしい最後だな。だが、これで審査請求もチャラだ。死んだのは可哀想かもしれんが、うちにとっては良かったな。葬祭扶助だけでも適用してやるか。また民生委員の出番だな」
高橋係長がパソコンに向き直った。栄太郎は工藤正道の死亡を生活援護課に連絡するために受話器を上げた。
住民登録を職権消除されている工藤正道であったが、本籍は隣の持立市にあった。そこから、親族を調べだし、息子が持立市内にいることが判明した。栄太郎は市民課の同期を通じ、その連絡先を突き止めていた。栄太郎は早速、息子に連絡を取った。
「そうですか、親父が死にましたか……。よく親父には酔っ払って殴られたなぁ。確執もありましてね。そんな親父でも僕は探していたんですよ。でも、最後まで国の面倒になるのは忍びない。あれでも僕の親父ですからね。こっちで葬儀を引き受けますよ」
息子はそう言ってくれた。栄太郎はまだそんな考えをしてくれる息子がいて、工藤正道は幸せだと思ったものである。工藤正道の態度は許せなかったが、息子の態度には「この仕事をしていてよかった」と思う栄太郎であった。
「だから、何度も言っているじゃないですか。来月の保護費で今月分の過払いを調整させてもらうって」
電話口で、栄太郎は口を尖らせていた。その口調は懇願するようではあっても、栄太郎の顔は鋭く電話を見つめている。その瞳はどこか恨めしげだ。
「だから、来月の保護費は今月より少なくなります」
栄太郎がそう言った途端、離れた距離でも罵声とわかる声が受話器から漏れた。栄太郎は苦虫を潰したような顔をすると、メモ用紙に書いた丸を黒く塗りつぶし始める。
「収入があったんだから仕方ないでしょう。それとも何ですか、収入を申告しないで不正に生活保護を受けた方がいいとでもおっしゃるんですか!」
今度は栄太郎が声を荒げた。事務所の空気に緊張が走る。その緊張を解いたのは、ほかならぬ栄太郎であった。
「あなたがそんなことをできないことは、僕が一番よくわかっていますよ。ね、今月は収入があったんだし、やりくりしてください。働き始めることはいいことじゃないですか。自立の助長が生活保護の目的なんですから、頑張ってくださいよ。応援していますから」
そう言い終え、栄太郎は受話器を置いた。そして、「ふう」と軽いため息を漏らすと、ぬるくなったコーヒーを口に含む。砂糖もミルクも入れないブラックコーヒーの方が、ぬるくなっても栄太郎には飲みやすかった。栄太郎はそのまま電卓を叩いた。保護費はコンピューターが自動で計算してくれる。しかし、やはり手計算で確認してしまう。そして調書を難しそうな顔で睨むと、「うーむ」と唸った。
「来月は大分、少ないな……」
栄太郎は記録紙にペンを走らせると、決裁欄に自分の印鑑を押した。そして、パソコンに向かい、数字を打ち込む。栄太郎の大きな瞳が線のように細くなった。二月二十四日のことだった。
その時だった。栄太郎のデスクの電話が鳴ったのは。
「北島さんに、愛向会病院からお電話です」
電話交換手のその言葉を聞いて、栄太郎は嫌な予感がした。愛向会病院といえば、暴力団の小山藤吉が入院している精神病院だ。
「はい、北島です」
「あ、もしもし、北島さん? 愛向会病院のケースワーカーの野地です」
「ああ、いつもお世話になっております」
「小山さんの件なんだけどね、中途半端に意識があるもんだから、保護室に入れさせてもらいますよ」
「ああ、そうですか」
「ああいうヤクザなのが中途半端に意識を回復すると、始末が悪いね。それとね、シモの方が緩くなってきているので、オムツを付けさせてもらいますよ。オムツ代、よろしくお願いします」
「わかりました。病状調査も兼ねて、意見書をお届けにあがります」
栄太郎は手帳を捲った。直近で明日の午後が空いている。
「明日の十四時くらいに伺ってもいいですか? できれば主治医の先生からもお話を伺いたいのですが……」
「いいですよ。主治医との面談はちょっとお待ち頂く様になるかもしれません」
「その間に本人と会いますよ」
「それでは、明日の十四時にお待ちしています」
栄太郎は電話を切った。ぬるくなったブラックコーヒーを啜った。
その男はフラッとやってきた。かなり血色の悪い初老の男だ。その身は痩せこけている。
「済みません。生活保護の相談をしたいんですけど……」
男は力の篭っていない声を震わせ、受付カウンターで立ち尽くしていた。栄太郎が面接相談員の小島を見た。小島はやはり来所中の無料低額宿泊所の相談にかかりっきりだった。
栄太郎は椅子から立ち上がると、その男に歩み寄った。
「どういうことで、お困りですか?」
栄太郎が仕草で男を椅子に座るよう促した。男が申し訳無さそうに座った。
「香山新吉と言います。実は電気も停められていて、蝋燭で暮らしているんです」
香山新吉は頭をボリボリと掻きながら、恥ずかしそうに言った。
「お歳はおいくつですか?」
「六十八歳になります」
「年金は?」
「実は年金を担保にお金を借りていまして、再来年まで年金が入ってこないんです」
「年金担保は医療福祉機構から借りたんですか?」
「はい。親族で葬儀が重なったもので、何かと入用で……」
「そうですか。基本的には年金担保で借金をしている場合、生活保護の適用は難しいんですがね。あなたの場合、二ヶ月でいくら貰える計算になりますか?」
「そうですね。二ヶ月で三十四万円ほどだったでしょうか……」
「すると厚生年金ですね?」
栄太郎が香山新吉の顔を覗き込んだ。
「はい……。定年になるまで隣の持立市にある三和重工に勤めていました」
「そうですか……。で、いくらぐらい年金担保で借りられたんですか?」
「三百万円ほどです」
「そのお金も底を尽きたと……」
「はい。恥ずかしい話なんですが……」
「まあ取り敢えず、申請書一式を書いてもらいましょうか」
香山新吉が申請書を書いている間、栄太郎は最低生活費(保護費の国の基準)を試算した。年金は偶数月に二か月分まとめて支払われる。香山新吉の一回に振り込まれる年金の額が三十四万円だとすると、一ヶ月あたりの年金額は十七万円ということになる。
「ところで香山さん、お家賃は?」
「三万円です。実は家賃も滞納していて、大家からは立ち退きを迫られているんです」
「そうですか。しかし、親族の葬儀だけで三百万円も使うもんですかねぇ」
「実はパチンコと競輪に凝っていましてね……。お恥ずかしい話で……」
「つまりはギャンブルのツケを税金で払えと……」
「申し訳ございません!」
香山新吉がその場に土下座した。栄太郎はやりきれない顔をしながら、「頭を上げてくださいよ」と言った。そして、続ける。
「年金担保借入の場合は基本的に国で定めた最低生活費と本来支払われる年金額を比較して要否判定という保護が必要であるかないかの判定をします。年金額が最低生活費を上回れば、保護は適用されないのが原則なんです。香山さんの場合は年金担保借入したお金を遊興で浪費してしまった。年金担保の取り扱いについては、こちらで検討させていただきます。基本的に保護申請から決定までは十四日以内に行われることになりますが、資産等の調査に時間がかかる場合もありますので、そうした場合には三十日まで延長できることになっているんです。香山さんの場合は念入りな調査が必要でしょうね」
栄太郎のその言葉に香山新吉は頭を項垂れるしかなかった。栄太郎は申請書一式を受け取ると、席に戻ろうとした。
「待ってください。今日どうするかのお金もないんです!」
香山新吉は悲痛な面持ちで立ち上がった。高橋係長が目配せをした。栄太郎が頷く。
「しょうがないですねぇ。社会福祉協議会の助け合い資金を紹介しますから、そちらで相談してください」
香山新吉の顔が緩んだ。
小山藤吉の病状調査で愛向会病院に栄太郎が赴いたのは、翌日の午後のことだった。
病院の受付ではケースワーカーの野地が待っていてくれた。
「いやー、小山藤吉にはほとほと困っていますよ。身体がまだ麻痺しているのに、他の患者を恫喝するんですからね」
「ふふふ、保護室がちょうどいいんじゃないんですか?」
「まあ、覚醒剤の後遺症もあると思うんですがね。最近、妄想も激しくて……」
野地に案内された栄太郎は閉鎖病棟と呼ばれる外部とは遮断された病棟に足を踏み入れた。閉鎖病棟の中では多数の患者が意味もなく徘徊をしていた。目のギョロついた男が寄ってきて、栄太郎に「あんた誰?」と尋ねた。栄太郎は「役所から来ました」と言って、その男の横を擦り抜けた。
保護室はお粗末なナースステーションの脇にあった。鉄の固い扉が閉鎖的な世界の中で、更に閉鎖性を強調していた。
一人の看護師が鍵を開けた。そこにいたのは紛れもなく小山藤吉だった。オムツを穿かせられ、拘束衣を纏っている。その口からは涎が垂れていた。それでも小山藤吉は栄太郎の姿を見ると「何じゃ、われー!」と悪態をついてきた。どうやら、生活保護の担当だったことは覚えてはいないようだ。
「小山さん、僕のこと、覚えていないんですか?」
「ああ?」
小山藤吉の目は宙を泳ぎ、焦点は合っていないようだった。
「終始、こんな感じなんですよ」
野地が苦笑する。栄太郎は狭い保護室の中を見渡した。床には布団が敷かれ、部屋の片隅に和式便器がある。
「私は医者じゃないので、何とも言えませんがね。まあ、ここがこの人の終の棲家になるかもしれませんね」
野地が小山藤吉を見下ろしながら言った。
「生活保護は医療費が全額負担ですからね。ヤクザやってシャブまでやった人を税金で救済しなければならない。まあ、今まで好き放題やってきたんだから、最後くらい惨めでもしょうがないですかねぇ」
野地のその言葉には皮肉が込められていた。栄太郎は言ってやりたかった。「できるなら、一服盛ってやってください」と。だが、そんなことは口が裂けても言えない栄太郎であった。
(月夜ばかりじゃねえぞ)
以前、小山藤吉に言われた台詞を、栄太郎は心の中で吐き棄てた。
そこへ主治医の新山がやってきた。
「ああ、うまく時間調整が取れましたよ」
野地が笑った。主治医が「小山さん、どうですか?」と尋ねると、小山は「うるせー、馬鹿野郎!」と怒鳴った。それは恫喝することが、彼のアイデンティティーにも思える栄太郎であった。
ナースステーションで主治医の新山からの病状説明は行われた。
「まあ、小山さんは覚醒剤のやりすぎで脳に大きなダメージを負っていますのでね。意識が戻ったと言っても、回復の見込みはないでしょう」
「つまり、在宅生活は無理だと?」
「ええ、在宅に戻れるくらいなら、保護室になんか入れませんよ。まあ、入院継続が妥当ですな。周囲の患者は恫喝するくせにオムツ無しでは生活できないような状況です。ヤクザも年貢の納め時ですな。しょうがないからうちで最後まで面倒見ますよ。うちみたいな病院もないとね……」
新山はそう言い放つと、不機嫌そうに席を立った。新山が小山藤吉の入っている保護室をチラッと見た。そこからは「ああ」とか「うう」とかいう呻き声が聞こえていた。
栄太郎は思う。もし、この独房のような保護室の中で小山藤吉が人生の最後の時を迎えたとしたら、それも立派な孤独死の一種だろうと。
愛向会病院から帰ってきた。栄太郎のところに早速電話が舞い込んできた。電話の主は香山新吉だった。
「昨日、社会福祉協議会でお金を三万円ほど借りたんですが、今日、それを落としてしまって……」
「落としたぁ? じゃあ警察に紛失届を出さないと……」
「えー、それが、そのー……」
香山新吉が口ごもる。
「何を躊躇しているんですか?」
「済みません。競輪の券売機の中に落としてしまったんです」
栄太郎は呆れて返す言葉もなかった。
「じゃあ、電気は……」
「まだ止められたままです」
「これじゃあ、生活保護を支給してもギャンブルに注ぎ込んでしまうんじゃないんですか? 悪いけど、あなたは信用できない。くれぐれも蝋燭で火事など起こさないようにしてくださいよ」
電話の向こうから競輪場のファンファーレが聞こえてきた。それが栄太郎の怒りに火に油を注いだ。
「兎も角、あなたの生活保護はこちらで慎重に検討させてもらいますから!」
栄太郎はそう言い放つと、乱暴に電話を切った。
「随分とお冠だな」
高橋係長がニヤニヤ笑いながら、栄太郎を見た。
「新規の香山新吉ですけど、社会福祉協議会の助け合い資金を競輪でスッたようなんです」
「馬鹿な奴だなぁ」
「係長、急迫の定義って何ですか?」
「ん?」
「年金担保の取り扱いでも、暴力団の場合でも『急迫の場合を除き』ってありますよね。つまり急迫であれば年金担保をしていても保護が適用になる。でも急迫の定義があいまいな気がして」
「それはだな……」
高橋係長が後ろを向き、一冊の分厚い本を取り出した。
「これだ。『生活保護法の解釈と運用』、この本の中の百二十二頁に『急迫した事由がある場合』というのがある」
栄太郎はそれを食い入るように見つめた。そこには「生存が危うくされるとか、その他社会通念上放置し難いと認められる程度に情況が切迫している場合。従つて、単に最低生活の維持ができないというだけでは、必ずしもこの場合に該当するとは言えない。如何なる場合がこれに該当するかは、事実認定の問題であるが、概して云えば子供とか、不具廃疾者とかは扶養義務者が扶養しないというだけでこの状態に陥ることが多く、又成年者でも病気の場合にはこの状態に比較的早期に陥る可能性が多いであろう。(原文のまま)」とあった。
「この『生活保護法の解釈と運用』は法制定時に発行されたものだ。それが未だ根拠として十分通用するものとなっている」
「この社会通念上放置し難いと認められる程度っていうのが曲者ですね」
「具体的には障害者や未成年者が放置されている状況を考えてのことだ。それと重度疾病を持っている病人だな。助け合い資金をギャンブルに注ぎ込んで、それで急迫はないだろう。もともと支給されるはずの年金額も最低生活費を上回るし、今回は保護を却下せざるを得ないな」
「でも、電気が停められているんですよ」
「急迫保護の考え方は最近、変わってきていて、電気が停められたり、生活が困窮したりしているからと言って、安易にかけすぎるきらいはあるよ。だが、『生活保護法の解釈と運用』にも書いてある通り、単に最低生活が維持できないというだけでは急迫に該当するとは言えないと思うな。一度廃止して、また入院で保護を開始した小山藤吉なんかは急迫保護だと思うけどね。まあ香山新吉についてはケース検討を行おう。そこで福祉事務所としての見解を出そうじゃないか。前の工藤正道みたいに審査請求されても面倒だ。却下する根拠を固める必要があるな。ところで親族はいるのか?」
「兄が市内に住んでいます。それと離婚した妻に引き取られた娘が、やはり市内に……。いずれも仲は悪いようですが……」
「あの歳で兄と言ったら、年金生活者か……。援助は厳しいだろうな。頼れるのは娘だな」
高橋係長が仏頂面をして呟いた。
その知らせは香山新吉のケース検討をしている最中に飛び込んできた。
「大変です。香山新吉の家が火事だそうです」
電話に出た小島が慌てていた。
「やっぱり火を出したか!」
高橋係長の顔が曇った。栄太郎はすぐに席を立ち、上着を掴んだ。
「待て!」
栄太郎が飛び出そうとするのを高橋係長が制した。
「今、我々が行ったからといっても、何の問題解決にもならん。今は腰を据えて状況を見守るしかない。もし、救急搬送されていれば病院から連絡がはいるはずだ。その時は急迫保護してやるんだな」
しかし、事態は深刻だった。香山新吉と思しき男の焼死体が焼け跡から発見されたのだった。栄太郎は身元確認のため帰帆警察署まで赴いたが、その焼死体は焼け焦げた肉の塊であり、それが果たして香山新吉なのかどうかはわからなかった。香山新吉の兄、香山新吾も駆けつけてくれたが、十年来会っていないとのことで、何も確証になるものは得られなかった。
「歯形の照合しかないですかねぇ」
瀬田という刑事は面倒臭そうに呟いた。栄太郎は思う。もしも社会福祉協議会で借りた助け合い資金をギャンブルに注ぎ込まず、少しでも電気代に充てていたら、香山新吉はこんな非業な最後は遂げずに済んだであろうと。
「お兄さん、葬儀は親族でお願い致しますよ」
栄太郎は香山新吾にそう伝えた。すると、香山新吾の顔が歪んだ。
「こんな奴のことは知らん。ギャンブルに明け暮れて身を滅ぼしたんだ。自業自得ですよ。こんな奴のために行政があるんじゃないですか?」
「それは違います。ギャンブルで身を滅ばした人のために何で税金を使わなきゃいけないんですか? 扶養親族がいるわけですから、葬儀は親族でやってもらいます」
栄太郎はきっぱりと言い切った。香山新吾はブツブツと言いながらも、「弟の娘と相談します」と言った。
「生活保護も決定していないし、これ以上、福祉では関われませんからね」
そう言い放つと、栄太郎は帰帆警察署を後にした。早く、その場から立ち去りたかったこともあるが、親族の義務までも放棄して、行政にすべてを押し付けてくる香山新吾の姿勢が見え隠れしたため、きっぱりと言い放ったのだ。
だが、本当の問題はそれからだった。翌日の新聞に香山新吉の焼死の件が載り、「生活保護を申請したが、電気が停められ、蝋燭での生活を余儀なくされ、火事となり死亡した」と書かれていたのだ。これは福祉事務所に対するイメージダウンであった。
「うーん、先日も横領があったばかりだからな……」
高橋係長は頭を抱えていた。
早速、県の生活援護課からも調査が入り、保護申請の経緯とその後の対応が問われた。
「香山新吉には社会福祉協議会の助け合い資金を紹介しました。そこで当座の生活費とし
て三万円支払われているんですよ。それを彼は競輪に注ぎ込んでしまったんです」
栄太郎は生活援護課の職員に力説した。少々、口を尖らせて。
「その時、少しでも電気代の支払いに充当していれば焼死は免れたでしょう。我々も電力会社に連絡を入れておきましたからね」
「なるほど、おたくの対応に瑕疵はなかったと……」
生活援護課の職員は眼鏡の奥から栄太郎を見つめていた。栄太郎は生活援護課の職員を見つめ返した。
木島愛子の出産が近づいていた。
「この際だから、元気なお子さんを産んでくださいよ」
栄太郎は家庭訪問の際に木島愛子に、そう声を掛けていた。木島愛子は特に息子たちの心配をすることもなく、サバサバとしていた。だが、出産は入院を伴う。栄太郎はその間の息子たちの心配をしていた。木島愛子に尋ねても、「どうしましょうかねぇ……」と気のない返事が返ってくるのみであった。
木島愛子は実家とは深刻な断絶状態が続いている。祖父母に息子たちの面倒を依頼するのは困難であった。そこで、栄太郎は児童相談所を通じて、息子たちの児童養護施設への一時入所を打診した。すると、三徳園で受け入れをしてくれるという。
栄太郎は息子たちを三徳園まで送っていった。
「ママー……! どこにも行かないでーっ!」
息子たちは木島愛子とのしばしの別れに、不安と悲しみを隠せずに泣いた。栄太郎の胸が痛んだ。
(ネグレクトの通報を受けるような母親でも、やっぱり母親なんだ……)
栄太郎が三徳園に行くと高津貴の姿が目に付いた。髪はやはり黒く、また茶色に染め直しているようなことはなかったのである。
「どうだい、その後は?」
「その節はお世話になりました。元気にやっています」
高津貴は爽やかな笑顔で、そう返した。
「そうか……。しっかりやれよ」
「はい」
栄太郎は木島愛子の息子たちを職員に引き渡した。
「おじちゃんも行っちゃうの?」
息子たちは不安げな表情を隠せずにいた。だが、栄太郎は「お母さんが赤ちゃんを産むまでの間だよ。またすぐにママに会えるから」と優しく声を掛けてやった。
栄太郎の心の中は釈然としない。息子たちをここまで不安におとしめて、悪びれる様子もない木島愛子の態度が気に入らなかった。一時の快楽に溺れ、相手の男さえわからぬ妊娠という無責任な行動を取った木島愛子の態度が……。
木島愛子はその四日後に、無事に男子を出産した。木島愛子からも病院からも連絡があったのである。栄太郎は木島愛子に「お疲れ様。おめでとう」と言った。だが、栄太郎の中では「果たして望まれて産まれてきた子どもだろうか?」という疑念が渦巻いていた。これまで幾多の死を見つめてきた栄太郎ではあるが、釈然としない出産はまた、栄太郎の心に翳りを落とすのだった。
(いかん、いかん。こんなこと気にしていたら……)
栄太郎は気が落ち込みそうになると、家に置いてある買ったばかりのエレキギターのことを思い出していた。