混沌
高山真治の家の片付けは、生活福祉課から総勢五名を駆り出して行われた。トラックで荷物を運び出し、市の焼却場へ何往復もする大変な作業で、丸一日かかった。栄太郎はこんなことまで生活福祉課がやらなければならないのかと、正直なところ思ったりもした。だが、田所に言わせれば、「他にやる人がいなんだから、しょうがないだろう」とのことだった。
栄太郎が市役所に戻ると、デスクの上にある内線が鳴った。正直なところ、疲れていたので、電話を取る気にはなれなかったが、こればかりは仕方がない。
「はい、生活福祉課の北島です」
もう十七時を回っていたので、警備員が電話交換をしていた。
「北山さんに民生委員の熊沢さんから外線です」
「もしもし、北島ですけど」
「ああ、私だ。民生委員の熊沢だ」
「この度、高山さんの件では、ご迷惑をお掛けしました」
「いえいえ、これも民生委員の仕事ですよ。それより北沢さん、高津栄子が二カ瀬町のスナック『マリ』でこっそり働いていますよ」
「ええっ?」
その話は信じられるものではなかった。高津栄子は大腸癌を患い、ストマ(人工肛門)を付けており、身体障害者手帳の4級を所持していたのである。そんな高津栄子が働けるとは思ってもみなかった栄太郎であった。
「いや、本当なんですよ。先日、民生委員の集まりで二カ瀬町へ行きましてね。その晩、そのスナックで飲んだんですわ。そうしたらいたんですよ、高津栄子が……。『澄子さん』なんて呼ばれていましたけどね、あれは源氏名でしょうね」
熊沢民生委員はさも嬉しそうに言った。生活保護の不正受給を暴いて得意になっている様子だった。
「有力な情報、ありがとうございました。早速、調査してみます」
電話を切った栄太郎は、熊沢民生委員からの情報を高橋係長に伝えた。
「田所と早速、実地調査に行ってこい。もし、本当に高津栄子だったら、明日、ここに呼び出すんだ」
二カ瀬駅は市役所の最寄り駅である帰帆駅から三つほど下った駅である。二カ瀬町はこの帰帆市に隣接する町で、笹熊郡の町である。
栄太郎と田所は二カ瀬へ電車で移動した。高津栄子がいなければ、スナックで一杯引っ掛ける算段であった。
「係長はよく『まずはケースを信じろ』と言うが、この仕事やっていると、段々、人間不信になってくるぞ」
田所は二カ瀬に着く前の長いトンネルの中で、唸るように言った。
高津栄子はいかにも真面目そうで、控えめの女性だった。
「もし、高津栄子がスナックで働いていたら……?」
「その時はその時だ……。相手の出方にもよる。何せスナックなんかで働かれると、まず課税調査なんかでは引っ掛からない。今回みたいなタレコミがなきゃな……。それだけ確信犯の可能性が高いんだよ」
電車はトンネルを抜けた。もう二カ瀬は目前であった。栄太郎は自分の気を引き締めるように、ネクタイを締めなおした。
スナック「マリ」は二カ瀬駅を降りて、寂れた銀座通りを抜けたところにあった。
「ここだ……」
看板を見た栄太郎がネオンを指差す。スナック「マリ」は、いかにも場末のスナックといった様相を呈していた。
ギーッと建て付けの悪い扉を引いて、田所に続き、栄太郎が中に入る。
「いらっしゃい……」
中にいた中年の女性の顔が凍て付いた。
「高津さん、これはどういうことですか?」
田所が高津栄子を睨みながら言った。栄太郎は呆けた顔をしていただろうか。
「やだ、私は『澄子』よ」
取り繕った高津栄子が、苦笑いを浮かべる。
「ほう、高津さんに双子の姉妹がいたことは知らなかったな。戸籍にも載っていなかったっけ……」
「はいはい、私が悪うございましたよ。辞めればいいんでしょ。辞めれば」
開き直った高津栄子は、煙草を咥えると、おもむろに火を点けた。
「そういう問題じゃないですよ。明日の十時に市役所の方まで来ていただけますか? 来なかったら、あんたを詐欺罪で告訴するつもりですので、そこのところよろしく」
そう言うと、田所は踵を返した。高津栄子は「待って!」と叫び、カウンターから出てきて、田所の袖を引っ張った。だが、田所は無情にも、その手を払った。
「こんなところじゃ、まともに話せないだろう!」
田所は怒りを露にし、外へと出ていった。高津栄子はその場にガクッと倒れこむようにして座った。
「高津さん、どうしてこんなスナックで働かなければならなかったんですか?」
栄太郎は腰を落とし、高津栄子の目線に合わせる。
「あら、『こんなスナック』で悪かったわね」
奥から、仏頂面のママが咥え煙草で出てきた。栄太郎はバツの悪そうな顔でママを見上げた。
「この人はね、昔、棄てた息子さんに仕送りをしてやっているんだよ。私だって知っているよ。この人が生活保護を受けていることも、人工肛門を付けた障害者だってことも。でも、それを承知の上で雇ったのさ。この人の情にほだされたのさ」
「ううーっ……!」
高津栄子が泣き崩れた。栄太郎には自分に何ができるかわからなかったが、高津栄子の肩に、そっと手を当ててやった。高津栄子はオイオイと号泣している。
「じゃあ、明日の十時、市役所で待っていますよ」
栄太郎はそう言い残してスナックを出た。外では田所がつまらなさそうに煙草をふかしていた。
「ナナハチだな、ナナハチ……」
田所は煙を吐き出しながら、つまらなさそうに言った。
「ナナハチって何ですか?」
「生活保護法第78条。つまりは不正受給に対する費用の徴収だ」
「費用の徴収ですか……」
「そう、ロクサン(生活保護法第63条による費用の返還)や地方自治法施行令第159条による戻入などと違って、資力があるかどうかは問題ではない。強制的な費用の徴収だ」
そう栄太郎に説明すると、田所は携帯灰皿に煙草をなすりつけた。
「あのオバサンだけは信じていたのにな。また裏切られたぜ。本当、人の性は悪だな。北島、明日の朝、係長とよく相談するんだな。裏口の灰皿の前で……。さて、駅前の居酒屋で一杯引っ掛けて帰るか」
田所が夜道を歩き出した。栄太郎は「はい……」と言うと、田所の後に続いた。栄太郎の心の中で高橋係長が言っていた、「何故、嘘をつかなきゃいけないのか。その裏を読み取れ」という言葉を思い返していた。
翌朝の八時半、市役所の裏口の灰皿の前に栄太郎と高橋係長の姿を見ることができる。
「そうか、やっぱりスナックで働いていたか……」
高橋係長が紫色の煙りをくゆらせながら呟いた。
「でも、小さい頃に棄てた息子さんに仕送りするためだと言っていましたよ」
「北島、この仕事は人情を忘れてはいかん。だが、その前に守らねばならないものもあるんだ」
「はあ……」
栄太郎は頭を掻きながら、高橋係長の真意を探っていた。
「今回の件は、見てしまったからには仕方ないな」
「やっぱりナナハチですか?」
「それも一つの方法だ」
高橋係長がにんまりと笑った。
「では、他にどんな方法があると……」
「どうせ、スナックなんか課税調査でも上がってこないんだ。厚生労働省や会計検査院の目は誤魔化せる」
「と、言うと……?」
栄太郎が高橋係長の瞳を覗き込んだ。
「ナナハチ扱いはせずに、上手く話をまとめて、保護の辞退届けを提出させるという方法もある。それも一つのけじめのつけ方だ。まあ、裏技だけどな。厚生労働省はすぐにナナハチをかけろと言ってくる。何しろ国庫が四分の三の法定受託事務だからな、生保は。ただ、このくらいの裁量が福祉事務所にあっても良かろう」
「果たして今後、やっていけますかね。高津栄子は……」
「その代わり、費用の徴収はないんだ。どっちが得か、高津に考えさせるのもいいだろう。何しろ、不正受給は告訴も辞さないというのが、今の厚生労働省の見解だからな。ただ、スナックの給料なんていい加減だろう。ナナハチをかける際、不正受給額の認定をするのが、すごく面倒なんだ」
高橋係長は灰色の煙をフーッと吐き出した。そして、短くなった煙草を灰皿に押し付ける。
「まあ、高津が来たら、俺も一緒に面接室に入ってやるよ」
「お願いします」
栄太郎は高橋係長に深々と頭を下げた。高橋係長はそんな栄太郎の肩をポンと叩くと、三階の事務所へと戻っていった。
高津栄子は十時には市役所に来た。大分、しょげ返った顔をしていた。普段は品の良い中年女性を演じている高津栄子であったが、この時ばかりはやつれて見えたものである。
高橋係長が栄太郎に目配せをして席を立った。栄太郎も席を立つ。こうして三人は面接室へ向かったのである。
「今回は明らかに不正受給ですな」
高橋係長が腕組みをして、高津栄子を睨んだ。その眼力たるや凄まじいものがあった。栄太郎はメモ用紙にペンを走らせている。
「済みませんでした……」
高津栄子がしおらしく言う。
「我々としては、あんたを告訴した上で、費用を強制的に徴収することもできるんです。まあ、釜戸の灰まで我々の物っていうことですな」
それは脅し文句に近かった。高津栄子はただただ恐縮し、小さくなっていた。
「本当に……済みませんでした……」
高津栄子がハンカチで目を拭った。
「まあ、我々としては提案が二つあるんですよ。一つは不正受給として処理するか。もう一つは保護を辞退してもらうか。不正受給として処理する場合はきっちり不正受給額を認定して、徴収させてもらいますからね」
「でも私、生保がないとやっていけないんです!」
「我々は働くことが悪いと言っているんじゃない。隠れて働き、不正に保護を受けていたことが許せないんです。そりゃ、小さい頃に棄てた息子さんに仕送りをしたい気持ちはわかりますよ。だが、生保は仕送りをするための制度じゃないんだ。国民、市民の税金で賄われているんだ。そこのところを理解してもらわなきゃ困りますよ。息子さんだって、そんなお金を貰っても困るでしょう」
「うううーっ……!」
高津栄子が泣き崩れた。高橋係長は腕組みをしたまま、その様を見下ろしていた。栄太郎は神妙な顔をして高津栄子の髪を眺めていた。
どれほど、高津栄子は泣き続けただろうか。だがある時、むっくりと顔を上げた。
「いいですよ。保護は辞退します。どうせ、私みたいな障害者はいつの世だって見捨てられるんです」
「ふざけないでください!」
怒鳴ったのは栄太郎だった。
「障害者だろうが健常者だろうが、悪いことは悪いことなんです! 障害を笠に着て不正受給をするなんてもっての他ですよ。そんな捻じ曲がった根性だから生保に転落するんです。だったら性根を入れ替えて、自分ひとりで自立してみせてくださいよ」
栄太郎の心の中は煮えくり返っていた。
高津栄子は憮然とした表情をし、「辞退届けってどう書けばいいんですか?」と言った。
「書くんですね。本当に辞退届を書くんですね?」
栄太郎は高津栄子の瞳を真っ直ぐに見つめた。そこへ高橋係長が一枚の白紙を差し出す。生活保護の辞退届は様式があるわけではない。ケースが任意で書くものである。
「ここに『帰帆市福祉事務所長殿、私は就労して自立しますので保護を辞退します』と書いてもらおうか。最後に日付と署名、それに印鑑だ。いいか、あんたは自分の意思で保護を辞退するんだぞ。間違っても我々が強要したわけじゃない」
「わかっています。今後、どんなことがあっても生活保護は申請しません。その代わり徴収はないですよね?」
高津栄子が白紙にペンを走らせた。高橋係長は「うむ」と頷いた。
自分のデスクに戻った栄太郎は高津栄子のケースファイルを取り出すと、辞退届を挟んだ。さすがに高橋係長も「ふう、お疲れさん」と栄太郎に声を掛けた。そして、「お前の本音、しっかり聞いたぞ」と笑った。栄太郎は高橋係長に「ありがとうございました」と頭を下げた。
「高橋係長は僕のことをシゴくなんて言っていましたけど、結構優しいじゃないですか」
「あははは、そうか? 俺も『鬼の高橋』から『仏の高橋』になったかな。それより、廃止の記録はしっかり書いておけ。廃止ケースもたまに監査なんかで見られることもあるからな。その辺の事務処理の仕方は田所や戸沢に聞いてやっておけ。要否判定(保護が必要であるか、ないかの判定)では『保護否』になるよう、上手く書いておけよ」
「はい……」
「どうだ、これで少しはケースが信じられなくなっただろう?」
高橋係長が笑った。栄太郎は「修行します」と笑い返した。
そんな折、栄太郎の前の電話が鳴った。電話の主は矢口シズだった。先日、栄太郎に「プライドを傷付けられた」と怒りをぶつけた老婆だ。
「この前は怒っちゃって御免なさい。近いうち、ゆっくりとお茶でも飲みにきてよ」
栄太郎はフッと笑った。田所から矢口シズは長話になると聞かされていた。そんな老人の茶飲み話に、たまには付き合うのも悪くはないと思った榮太郎だった。
六月十日の夕方、栄太郎は面接相談員の小島から声を掛けられた。小島は新規申請の受付を行い、生活保護の開始までを担っている。この小島から新規開始したケースを引き継ぐのだ。
「無料低額宿泊所の百日台寮から大量に保護の申請があってさ。みんな、北島さんの地区なんだよ」
「無料低額宿泊所……ですか?」
「NPO法人が経営するホームレスのための施設だ。百日台寮は新しくできたんだけどね。まあ、無料低額なんて謳いながら、住宅扶助の限度額、ぎりぎりまで取るんだけどさ。いわゆる貧困ビジネスだよ。とりあえず、五つばかり申請があって開始したから、北島さんに引き継ぐよ」
「えーっ、五つもですかぁ……!」
この時期、年金改定があり、その資料集めに忙しい時期であった。年金の収入認定額を変更しなければならないのだ。その時期に五人も新規ケースが増えるというのは、栄太郎にとって痛手であった。だが、無情にも栄太郎のデスクの上には五冊のケースファイルが積まれた。
「ふふふ、無料低額宿泊所の実態を知っておくのも勉強になるぞ。それにしても百日台地区の保護率が上がるな。まあ、早いうちに訪問しとけよ」
高橋係長はペットボトルのお茶をグイと飲んで笑った。
栄太郎は何か釈然としないものを心の中に覚えながら、積まれたケースファイルを見つめた。
「みんな、百日台駅周辺でホームレスをしていたと言うが、あそこはホームレスの少ない地区だからな。本当かどうかは疑わしいぞ」
「そう言えば、百日台駅周辺でホームレスを見かけたことなんてないですよ」
「そうだろう。NPOなんて謳ってはいるが、しっかり保護費で稼いでいる施設だよ。入所したってケースは保護費のほとんどをNPOに搾取される。とても次のステップに進めたものじゃない。とにかく百日台寮は新規オープンしたばかりだからな。今はお客さん集めに必死なんだろう。都会ではNPOによるホームレス狩りなんていうのも行われている」
「ホームレス狩りですか?」
栄太郎は目を丸くした。高橋係長はパソコンから視線をずらし、栄太郎を見た。
「ホームレスを襲うことじゃないぞ。都会なんかにいるホームレスに声を掛けて、集めて車に乗っけるんだ。そういう人集めをしているんだよ。そして、生保の申請の時にはその地区でホームレスをしていたと言わせる」
「そんなことがまかり通るんですか?」
「どこでホームレスをしていたかなんて証拠はどこにもない。NPOとケースの言うことを信じるしかないのが実情さ」
ホームレスの場合、発生地保護と言って、そのホームレスが窮状を訴えたところが保護の実施責任を負うことになっている。何か釈然としない思いを胸につかえたまま、栄太郎はケースファイルに目を落とした。
翌日、栄太郎は家庭訪問をしながら年金の改定通知を集めていた。十五時過ぎ、栄太郎の足はNPO法人が運営する無料低額宿泊所の百日台寮へ向いていた。百日台寮は潰れた社員寮を改修したもので、その外観は立派とは言えなかった。
「俺も元はホームレスだったんでさあ」
寮長と呼ばれる大柄の男は、どう見ても柄が悪そうだった。栄太郎は「まずは面接させてください」と言って、寮長の後に続いた。
横井啓太の部屋は一つの部屋を間仕切りで区切った、鰻の寝床のような部屋だった。
(これで住宅扶助の限度額ギリギリ取るのは、いくらなんでも酷すぎるな)
そんなことを思う栄太郎だった。
「横井さん、どうですか、ここの暮らしは?」
すると横井は万年床から起き上がることもせず、「最悪ですわ」と言った。
「何が最悪なんですか?」
「まず、受け取った保護費のほとんどを管理費として搾取される。自由に使える金はつきにして一、二万ですわ。それじゃあ、とても自立なんかできないでしょう。それに、寮の規則が厳しすぎる。酒はダメ、門限はある、外出する時は寮長の許可を得る。これだったら貧乏暮らしをしていてもホームレスの方がマシですよ」
「ふーん……」
「あんたもホームレス狩りに遭ったのかい?」
「ああ、俺は元々、隣の二カ瀬町の漁港で生活していたんだ。そこを、このNPOが掻っ攫いにきたってわけさ。生活保護を申請する時は、百日台駅にいたことにしろってNPOの幹部から言われたよ」
「それって、マズくないですか? 虚偽申請ですよ」
この時、栄太郎は心の中に怒りの炎が広がっていくのを感じていた。その怒りは横井啓太に向けられたのではなく、あざといNPO法人に向けられていた。
横井啓太の部屋を出た栄太郎は寮長に詰め寄った。
「何で二カ瀬町の漁港で生活していた横井さんが、帰帆市で保護しなきゃならないんですか?」
すると、寮長はしかめ面をしながら、「あの野郎、喋りやがったな」と言って、膝を叩いた。
「ホームレスの保護は発生地保護でしょう。だったら二カ瀬町を管轄する笹熊福祉事務所に実施責任があるんじゃないんですか?」
栄太郎は更に寮長に詰め寄った。だが、寮長は動じない。
「あんた、生保の担当をやって何年になる?」
「この四月に異動してきたばかりです」
「ホームレスはな、最初に相談を受けた福祉事務所が責任を持つことになっているんだよ。これは県と福祉事務所の取り決めで決まっていることだ。確かに横井は二カ瀬でホームレスをしていたかもしれない。だが、最初に相談したのは帰帆市の福祉事務所だ。何も文句はないだろう」
この時、栄太郎は何も言い返せない自分が悔しかった。まだ、制度をそこまで熟知していなかったのだ。だが、栄太郎の心の中には漠然とした怒りが、まだ燻っていた。
「でも、この鰻の寝床で住宅扶助ギリギリの金額を搾取するというのはいかがなものでしょうかね?」
「ちゃんと県のガイドラインには従っているよ。間仕切りで個室を造れば住宅扶助の限度額まで徴収していいことになっている。そう、三万六千円をね……」
鰻の寝床、風呂・トイレ共同で、このご時世、家賃が三万六千円というのは高すぎる印象を受けても仕方ないだろう。栄太郎の感覚が世間の一般常識からずれているわけではなかった。
「じゃあ、管理費を徴収するのは?」
「そりゃ、こちらだって全部慈善事業ではやれないよ。食費や水光熱費だってかかるんだ」
「それでも支給した保護費のほとんどを徴収しているじゃないですか?」
「それが嫌なら出て行けばいい。まあ、元のホームレスに戻ることになるがね」
寮長は勝ち誇ったように言った。栄太郎はそこでも言い返せない自分が悔しかった。
その晩、栄太郎は市役所の近くの居酒屋で、高橋係長と酒を酌み交わしていた。
「まったく、どうしようもないですよ。あのNPOの無料低額宿泊所は……」
栄太郎がビールを煽りながら、愚痴った。
「まあ、そう怒るな。あんな施設でもないと困るんだ。女性の場合、婦人相談所やシェルターがあるが、男性のホームレスの場合、無料低額宿泊所が出来るまで救う手段が実質なかったんだ」
「でも、あの環境が良いとは言えませんよ!」
栄太郎は声を荒げた。
「まあな。だが、会社の寮を追い出されて、ボストンバッグ一つをぶら下げて相談に来る奴らを救う手段が今までなかったんだ。それを思えばあんな施設でも『必要悪』だよ」
「そんなもんですかねぇ……」
「あのNPO法人の元締を知っているか?」
「いえ……」
「古池不動産という悪徳不動産屋だ。まるでヤクザのような不動産屋だ。古いアパートや潰れた社員寮を次々に買い取り、無料低額宿泊所を県内に開設している。今度は貧困ビジネスに目を付けたってわけだ」
「なるほど……。古池不動産なら知っていますよ。税務課にいた時にも、あそこは問題視されていましたからね」
栄太郎がビールをグイと煽る。高橋係長はホッピーだ。
「厚生労働省も無料低額宿泊所については目を瞑っているというか、むしろ頼りにしている状態だ。あれがないと、ホームレスの保護は出来ないからな」
「何で無料低額宿泊所がないとホームレスの保護は出来ないんですか?」
栄太郎が身を乗り出した。
「ホームレスのままの状態では保護出来ないんだよ。定住地がないまま保護を受けるということは、A市でも保護を受けられて、B市でも保護を受けようと思えば受けられることになる。だから、居住地を設定し、発生地保護の観点から実施責任を定め、事実上、居住地保護をするということになる。その場合、長年ホームレス生活が染み付いたケースをいきなりアパートなどで居住地を設定するのはリスクが高い。そこで無料低額宿泊所のような施設で見極めをしてからアパート設定をするのが建前だ。だから無料低額宿泊所は『必要悪』なんだよ。まあ、古池不動産みたいな無料低額宿泊所ばかりとは限らんが、それでも住宅扶助の上限ぎりぎりまで徴収したり、保護費をほとんど搾取したりするのは共通しているな」
高橋係長は一気にそう言うと、グーッとホッピーを飲み乾した。
「俺、次は日本酒でいくわ」
「あ、僕も付き合います。それにしても無料低額宿泊所は何故、純粋な慈善事業でできないんですかね?」
「まあ、慈善事業だけでホームレスを救えるとは思わんがね。それにしてもビジネスに走りすぎのきらいはあるよ」
「ふーん……」
栄太郎はつまらなさそうな顔をして、ビールを飲み乾した。
四日後の朝、栄太郎に百日台寮の寮長から電話が掛かってきた。
「横井啓太が三日前から行方不明になっているんだ。こちらは退寮の扱いをして、新規を入れるから……」
「何故、三日前からいなくなっているのに、今になって連絡をよこすんですか? 遅すぎますよ」
「取り決めで三日は様子を見ることになっているんだ」
寮長は苛ついた声で、そう言った。栄太郎は悔しくて仕方なかった。横井啓太のケースファイルを取り出す。栄太郎は恨めしげにそれを眺めた。
栄太郎は思う。ホームレスの思惑と自分たちの支援との間にズレが生じていると。そして、そこに蔓延る貧困ビジネス。問題は糸口が見出せないまま混沌の色を湛えていた。
面接相談員の小島が怯えながら、栄太郎のところにやってきたのは七月二日、明日に保護の支給日を控えた日だった。
「ついに百日台で出ちゃいましたよ。マル暴の申請が……」
「マル暴って言うと、暴力団のことですか?」
「そう、元暴力団組員ということないなっているが、実態はどうだか?」
「マル暴の場合、三点セットを取るんですよね。確か、脱退届と破門状、それと念書……」
「敵もさるもの、しっかり三点セットを提出してきやがった。まあ、大変だと思うけど、よろしく頼むよ。一応、警察に照会をかけておいた方がいいぞ」
小島はそう言うと、ケースファイルを栄太郎のデスクの上に置いた。そこには4756というケース番号と小山籐吉という名前が記されていた。
「マル暴上がりは指導困難ケースだな」
高橋係長がやるせないため息を交えて言った。
「初めてですよ。指導困難ケースは……」
「俺も小島から相談は受けていたが、なかなかの奴だぞ。覚悟しておいた方がいい」
「そんな悪い奴なんですか?」
「うむ。新規の開始記録を読めばわかるさ」
栄太郎はケース記録に目を落とした。
幼少の頃よりまともに学校に通っていなかった小山藤吉は、中学を卒業してすぐに黒寅組の舎弟になる。その後、若頭まで上り詰めるが、ここのところ、大した実績はないようだった。ただ、その前科はそうそうたるもので、傷害、恐喝、詐欺に覚醒剤と一通りの悪事はこなしているようだった。やっていないのは殺人くらいのものか。以前は隣の持立市で生活保護を受けていたようである。その際には、県警の家宅捜索が入り、覚醒剤所持で逮捕され、保護は廃止になっていた。逮捕拘留され刑務所に服役するとなると、拘置所の中で最低生活は保障されるため、保護は廃止となるのだ。
「灰皿の前へ行きませんか?」
栄太郎が高橋係長を誘った。煙草を吸わない栄太郎は自動販売機で缶コーヒーを買う。高橋係長が「ふふふ」と笑って席を立ち上がった。
市役所の裏側、灰皿の前で栄太郎は、缶コーヒーを片手に深刻な顔をしていた。高橋係長はフーッと煙を吐き出す。
「まず、訪問はもちろんのこと、面接は必ず二人で行った方がいいな。奴は詐欺の腕もかなりのものらしい。持立市では生業費を毟り取られたらしい。パソコンもメーカーにクレームを入れて騙し取っている。小島の言うように、警察に照会はかけた方がいいかもしれないな。脱退届と破門状は偽物かもしれん……」
「はあーっ……」
栄太郎は重いため息をついた。
翌日は保護費の支給日だったのだが、窓口は物々しい雰囲気に包まれていた。ケースは順番に並んで、保護費の受け取りを待つ。だが、小山藤吉が周囲を恫喝し、一番にカウンターの前へ来たのだ。
「俺が小山だ。よろしく頼むぜ」
小山はわざと袖を捲くり上げ、刺青を見せている。周囲のケースは萎縮していた。
「小山さん、周囲を脅かさないでくださいよ」
栄太郎はため息をつくと、小山にそう言った。
「おい、言葉に気をつけろよ。俺がいつ周囲を脅かしたって言うんだ。皆、優しいから俺に順番を譲ってくれたんじゃねえか。なあ皆?」
小山藤吉が振り返る。だが、ケースの皆は萎縮したままだ。小山藤吉が受給者証と印鑑を無造作に差し出した。支給簿に印鑑を押してもらうと、栄太郎は小山藤吉に保護費の入った封筒を渡す。小山藤吉はそれをその場で開封した。
「おい、少ねえじゃねえか。持立市はもっとくれたぞ」
「持立市とは級地が違うんです。出せるのはその金額です」
生活保護ではその級地によって金額が違う。窮地は1級地の1から3級地の2まで分かれている。帰帆市の場合は2級地の1であった。ちなみに持立市は1級地の2である。
小山藤吉は「けっ」と言うと、不満そうな顔をして、引き返していった。
その小山藤吉が最初にトラブルを引き起こしたのは、帰帆総合病院でのことだった。小山藤吉は「足が悪いから身体障害者手帳の診断書を書け」と医者に迫ったのだ。それは多分に詐病であった。だが医者は「そんなことで診断書は書けない」と突っぱねたのだった。病院のケースワーカーから電話を受けた栄太郎は、「大事にならなきゃいいが」と思っていた。
小山藤吉からは病院に行った翌日、電話が掛かってきた。
「帰帆総合病院の先生が身体障害者手帳の診断書を書いてくれねえんだよ。北島さんからも医者によく言っておいてくれや」
「でも、どこも身体は悪くないじゃないですか」
「足が痛えんだよ。ここんところ、足が上がらねえんだ」
「そんなこと言ったら、誰でも障害者になってしまいますよ」
「うるせえ! 俺の辛さがあんたにわかるって言うのか。俺の足は不自由なんだよ。何とか医者と交渉しろ!」
栄太郎は思った。小山藤吉は生活保護費が思ったよりも少なかったので、進退障害者手帳を取得することにより、障害者加算を狙っているのだと。身体障害者の1級と2級には障害者加算がつく。おそらく、小山藤吉はそれが欲しいのだ。
「医者が診断書を書けないと言っている以上、僕にも無理ですね。福祉事務所にそこまでの権限はないですから」
「けっ、頼りにならねえ奴だ。市長を出せ!」
この「市長を出せ」という台詞はクレームをつけてくる輩の常套句だ。
「このことは僕が担当になっているので、市長は関係ありません」
「ああ、だったら何とかしろよ。コラ!」
「何とも出来ないものは何とも出来ないとしか答えようがありませんね」
「上等じゃねえか。月夜ばかりじゃねえんだぞ!」
小山藤吉はそう言うと、乱暴に電話を切った。栄太郎の心臓はドキドキと早い鼓動を脈打っていた。
小山藤吉の住むアパートに栄太郎と高橋係長が家庭訪問したのは三日後だった。何でも、
「膝詰めで相談したいことがある」とのことで、訪問せざるを得なかったのだ。
小山藤吉のアパートは乱雑を極めていた。食い散らかしたカップ麺の空容器が転がっている。それに灰皿は山のように吸殻が積もっていた。
「ご相談したいこととは?」
ランニングシャツに短パンの小山藤吉に栄太郎は話を切り出した。小山藤吉の腕には見事な刺青が彫られている。それは、栄太郎や高橋係長への「脅し」でもあった。
「今度、事業を始めようと思っているんだ。そのために三百万ほどの金が要る」
「三百万……ですか?」
「そうだ。千社札を作る商売だ。人の自己顕示欲につけこんだ商売だ」
小山藤吉が手書きの拙い事業計画書をポンと栄太郎の前に放った。
「出せねえとは言わせねえ。持立市はちゃんと生業費を出したんだからな」
「持立市での事業はどうなったんですか?」
「何、俺がシャブでパクられてお釈迦よ。だから、もう一度、やりてえんだ」
「それにしても三百万円というのは高すぎますね。基準額を大幅にオーバーしていますよ」
高橋係長が小山藤吉を睨むように言った。
「何、出せねえって言うのか。生活保護には特別基準というものがあるだろう。俺は知っているんだぞ。車の免許とか取る場合に費用を出せるじゃねえか。事業を始めるのに三百万なんて安いもんよ」
栄太郎は小山藤吉に詐欺の前科があることを思い出していた。
「では、一応検討させていただきます」
高橋係長が事業計画書を受け取った。そして、変更申請書の様式を差し出した。
「これに『生業扶助、三百万円を支給してください』と書いていただきましょうか」
「おう、よろしく頼むぜ」
小山藤吉は上機嫌でペンを走らせた。それは小学生の低学年が書くような下手くそな字だった。栄太郎も高橋係長もやりきれない顔で、その変更申請書を眺めていた。
「本当に三百万も支給するんですか?」
小山藤吉のアパートを辞した栄太郎は、思わず高橋係長に尋ねた。
「そんなわけないだろう。あの変更申請は却下だ、却下。特別基準の上限額を遥かに超えているからな」
「じゃあ何故、わざわざ変更申請書まで書かせたりしたんですか?」
「生業費を請求する権利はある。だから変更申請書を書かせたまでだ。ふふふ、検討すると言っただけで、支給するとは言っていない。だが、却下されたと知ったら小山藤吉は怒るだろうな。脅迫に出るかもしれん」
「ゾッとしますよ。何しろ熊のようなあのガタイですからね」
「ここで折れたら、俺たちの負けだ。行政に脅しは通用しないことをわからせてやろうじゃないか」
高橋係長は不適な笑みを浮かべて、公用車の助手席に乗った。
翌日、栄太郎のデスクに外線が入った。栄太郎は小山藤吉でないことを祈った。だが、その電話は県警の暴力団対策室からだった。
「先日、ご照会いただいた小山藤吉の件ですけど、まだ黒寅組に所属していますね。れっきとした暴力団幹部ですよ」
「ええっ、そうなんですか? でも脱退届と破門状は提出されていましたよ」
「おそらく破門状は偽物でしょう。脱退届は組長が受理しない限り無効です。小山藤吉はまだ幹部として堂々と名を連ねていますよ。まあ、今は相談役くらいの活動でしょうけどね」
電話を切った栄太郎は高橋係長に県警からの電話の内容を報告した。
「保護廃止だな、廃止……」
「本人が納得しますかね?」
「そんなこと関係ない。生活保護手帳に載っている、『生活保護を適正に運営するための手引き』を見てみろ」
栄太郎は早速、生活保護手帳を捲る。すると、そこには「暴力団員に対する生活保護の適用の考え方」という文書が載っており、「保護の要件を満たさないものとして、急迫状況にある場合を除き、申請を却下することとする。また、保護受給中に、被保護者が暴力団員であることが判明した場合にも、同様の考えに基づき保護の廃止を検討する」と書いてあった。
「ふーん……。で、これで納得するでしょうかね、小山藤吉は……」
「納得なんかするはずなかろう。でも俺たちは小山藤吉の生活保護を廃止しなければならないんだ」
そう言った高橋係長の瞳には力が篭っていた。栄太郎は不安げな顔を返すことしか出来なかった。
「何で、生保が廃止になるんだよー!」
小山藤吉は面接室で大声を上げた。栄太郎はやや肩をすくめているが、高橋係長は動じない。
「小山さんはまだ、黒寅組の幹部でいらっしゃいますね」
高橋係長は小山藤吉の瞳を見据えて言った。
「ちっ、警察に照会しやがったな。そうよ、そうともよ。俺はまだ黒寅組を抜けちゃいねえ。だが、暴力団の組員が生保を受けちゃいけねえって誰が決めたんだ。組員だって人だぞ。人権はあるんだぞ!」
「厚生労働省の通知で決まっているんです。暴力団員には保護が適用できないって……」
栄太郎が少しおっかなびっくりに言った。
「面白え、喧嘩を売ろうっていうのかい。この黒寅組に……」
「そんな気は毛頭ありませんよ」
「なら、納得のいく説明をしてもらおうじゃねえか」
「暴力団員の場合は非合法な形で収入を得ていますね。それは表面化されることはない。つまり、我々もどのように収入認定していいかわからないんです。そして、収入を申告してもらっても、それを裏付けるものは何もない。第一、あなたの場合は稼動年齢層なんだから、稼働能力非活用でも保護の対象にはなりません」
栄太郎は一気に捲し立てた。高橋係長は「暴力団にも金が回っているんじゃないんですか? それは不正受給ですよ」と言い添えた。
「面白え、実に面白えよ。そんなに黒寅組に喧嘩を売りてえか。いいか、覚えてろよ。月夜ばかりじゃねえんだぞ。そのうちあんたら、怪我するくらいじゃ済まなくなるぜ」
小山藤吉が冷却器を忍ばせた声で脅す。
「それは福祉事務所に対する脅迫ですか? ならば、我々は警察に相談して中止命令を検討せざるを得ませんな」
高橋係長が小山藤吉を睨みつけながら言った。
「ぐっ、中止命令か……。あれを出されるとこっちは手も足も出ん。卑怯だな、福祉事務所は……」
小山藤吉は悔しそうな顔をする。
「おわかりいただけたら、お引取り願いましょうか」
高橋係長が立ち上がり、面接室の扉を開けた。小山藤吉は「覚えてろよ」という捨て台詞を吐いて、帰っていった。
それから二日後のことである。帰帆警察署の瀬田という刑事から栄太郎に電話が入ったのは。
「小山藤吉が受け取った保護費の額を知りたいんです」
「何故ですか……?」
栄太郎はいささか呆けた顔でもしていただろうか。
「はい。ガサ入れ(家宅捜索)を行ったんですわ。暴力団の資金源を今、洗い出しているところなんです」
「そうですか。今、丁度、彼の生活保護の廃止の手続きをしているところなんですよ」
「生活保護、廃止になるんですか?」
「ええ、暴力団の幹部だということが、県警に照会してわかりましたからね」
「ほう、そこまで調べたんですか」
「小山藤吉に支給した金額はお調べして、折り返しお電話いたします」
「よろしくお願い致します」
電話を切った栄太郎は、小山藤吉のケースファイルに目を落とした。
(早く、廃止の記録を書いてしまおう)
そう思っている栄太郎であった。
その翌日、栄太郎は高橋係長と小山藤吉のアパートに家庭訪問に出掛けた。保護の廃止決定通知を持っていったのである。栄太郎は「何故、郵送じゃダメなんですか?」と高橋係長に尋ねた。その答えは「審査請求(不服申し立て)について説明する義務があるからだ」とのことだった。
栄太郎は気を引き締めて、呼び鈴を鳴らした。だが、返事はない。
「北島、電気メーターだ」
高橋係長が栄太郎に指示する。栄太郎は電気メーターを見た。それは勢い良く回っていた。耳を澄ますと、部屋の中からテレビと思しき音が聞こえる。
「居留守かよ……」
栄太郎と高橋係長はアパートの裏手に回った。カーテンは開かれていた。
そこで栄太郎の目に飛び込んできたのは、涎を垂らしながら倒れている小山藤吉の姿だった。
窓には鍵がかかっていなかった。栄太郎は咄嗟に部屋の中に飛び込んだ。
「小山さん!」
声を掛けるが返答はない。小山藤吉は口から泡を吹いている。
「北島、救急車だ! それから警察にも連絡しろ!」
「はい!」
栄太郎は携帯電話を弄った。その時、畳の上に落ちている注射器を見つけた。
(シャブか……!)
小山藤吉は帰帆市の郊外にある新生会病院に入院することになった。やはり、覚醒剤による副作用とのことで、意識はまだ戻っていなかった。警察は意識を取り戻し次第、逮捕すると息巻いていたが、チューブに繋がれた小山藤吉の姿に、暴力団の幹部としての風格はなかった。そこにいるのは初老の病人のように栄太郎には見えなかった。
小山藤吉に見舞いをする者は暴力団関係者を含めて皆無だった。栄太郎は思う。これまで小山藤吉はどれだけの人に迷惑を掛けてきたのだろうかと。そして、また自分も迷惑を掛けられていると思うのであった。それは援助者として抱いてはいけない感情なのかもしれない。だが、その前に栄太郎も人である。
一度は生活保護の廃止決定をした小山等吉だが、医療費の支払いが困難なため、医療費を生活保護で出さざるを得なくなった。いわゆる急迫保護である。生活保護では国民健康保険の加入が認められていない。生活保護が全額、医療費を負担するのだ。
(何でこんな奴に国民や市民の税金を使わなければならないのだ……)
そんな思いが栄太郎の頭の中を過ぎった。小山藤吉に脅されたことを思い出すと、チューブを引き抜いてしまいたい衝動に駆られる栄太郎であった。だが、そんなことが出来るはずもなかった。
「ありゃ、もうダメだね」
栄太郎が病院を出る時に病院のケースワーカーの田辺が言った。
「ダメってことは、もう死ぬっていうことですか?」
「まあ、私は医者じゃないから何とも言えんが、その可能性もあるねぇ。まあ、意識が戻ってもレロレロだろうね。しかし、おたくも因果な商売だね。あんな奴の最後を押し付けられてさ……」
「さっき、チューブを引き抜きたくなりましたよ」
「わかりますよ。その気持ち……。まあ、ロクな死に方は出来ないね。あいつの場合……」
田辺は吐き棄てるように言った。
「しかし警察も間抜けだよなぁ。ガサ入れまでして、逮捕できなかったんだから。その時に逮捕していれば、うちにもあんたにも迷惑が掛かることはなかった……」
田辺は皮肉たっぷりに言った。
栄太郎は田辺に一礼をして病院を辞した。だが、田辺はいつまでも栄太郎の背中を見つめていた。