神武天皇東征について
初代天皇、畝傍山の麓の橿原に都を定め即位が紀元前660年。
弥生時代最初期に国を纏めて統治した始馭天下之天皇。
この時点で信憑性が無いが実在していなかったとも言えないのである。
紀元前660年は無いが、もし居たとすれば恐らく三世紀後半辺りか。
邪馬台国の女王台与と被る時代だろうがもう一人の天皇とも被る。
10代崇神天皇である。
こちらは三世紀後半から四世紀前半にかけて存在したとされる、これまた初めて日本を統一したとされる御肇国天皇。
神武天皇が九州の日向から大和に進軍したのと対照的に崇神は大和の地から四道将軍を各地に派遣し支配地を広げていった。
神武と崇神はどちらも初めて天下を治めた天皇で、それだけでも矛盾が生じる。
あるいは神武と崇神は同一人物説や別王朝説もあり混乱の極みである。
昔から学者や研究者達が色々と考えるも未だに解明はされていない。
分からないモノはどう転んでも分からないのだ。
遺跡や古墳等の発掘で新発見が待たれる。
もしくは失われたとされる記紀の元となった帝紀・旧辞辺りが発見されるか。
しかし古事記や日本書記のベースとなったこれらの書の内容が大幅に変わるとも思えないが何か違う側面は見せてくれるかも知れない。
帝紀とかよく聞く名称だが詳しくは知らないので調べてみると正式には帝皇日継または先紀や帝王本紀とも呼ばれた書物だそうだ。
天皇の名、その世系、后妃、皇子女の名、所在地、事績、治世年数等が書いてあったらしい。
旧辞は皇室の系譜や伝承、神話、説話、歌謡等が書かれたもの…のようだ。
成立年代は第29代欽明天皇の時代まで遡るとされる。
欽明天皇は「509年〜571年」6世紀初期から後期の人物。
その話が本当なら古事記の完成が8世紀初期、712年なので凡そそこから140年以上前には口承で伝えられていたものが文字で記され出し帝紀・旧辞という形で出来上がっていった事になるのだが果たしてどうか。
何にせよ帝紀と旧辞は今に伝わっていない。
古事記・日本書紀の成立と共に役割を終えて散逸したとも都合の悪い記述を消す為に焚書されたとも言われている。
帝紀・旧辞と同じような内容のもので天皇記・国記がある。
推古28年「620年」に聖徳太子と蘇我馬子が編纂した歴史書である。
皇極4年「645年」乙巳の変の際、蘇我蝦夷が自殺した時に館ともに焼失。
一部焼け残ったものが回収されたらしいがそれも今には残っていない。
40代天武天皇の時代、681年。
天武天皇2子の川島皇子と忍壁皇子が編纂を命じられる。
帝紀・旧辞は稗田阿礼に暗誦され太安万侶によってそれを元に編纂されたものが712年完成の古事記。
一般的に日本書紀の成立は720年とされるが正確なトコロは分かっていない。
日本書記編纂においては権力者藤原不比等の影響が強いとも編纂自体を取り仕切っていたとも言われるが本当のところは不明。
話を神武天皇に戻して、紀元前660年即位はいつ頃から言われ出したのか?。
調べてみてもイマイチ分からない。
太陽暦に直したのが明治だが、神武即位の年代については平安時代初期の弘仁2年「811年」に成立した歴運記にも見えるようだ。
811年から1471年前が神武即位に当たるとか何とか。
なぜに811年から数えて1471年前なのかの理由は不明。
一説では辛酉の年に神武が即位したのが理由らしい。
60年毎に来る辛酉の年。
西暦に直すと起源前660年、600年、540年、480年、420年、360年、300年、240年、180年、120年、60年、起源1年、61年、121年、181年、241年、301年、361年、421年、481年、541年、601年となる。
辛酉は中国の讖緯説に由来する考えで1260年ごとに国家の大変革が起こる…とされている。
推古天皇9年から数えて1260年前が紀元前660年前に当たるからだそうだ。
しかし推古天皇9年からなぜ数えるのかは一切不明。
別にその年に大変革の時代でもなかった筈で。
そう言えば聖徳太子が607年に隋の皇帝に送ったとされる国書の中で太陽の昇る国と日本を表現し、太陽が沈む国と中国を評したのはその6年後の事か。
結局のトコロは神武天皇が本当に辛酉の年に即位したかどうかは分からないし何の根拠もない。
倭国から日本に名前が変わったのはそれまで中国を上に置いていた倭国の大王が対等であるという立場を表明し更には王や皇帝より上の天皇の称号を用いるようになったのは中国よりも上であるという宣言でもある。
そんな日本の政権がかつては中国に朝貢していたなどと言う記録を残しておきたい訳はなく。
邪馬台国や倭の五王を古事記や日本書記に書き記さなかったのはそれかも知れない。
しかし帝記や旧辞には書いてあったかと言うとそれはどうだろうか?。
口承が正確に伝わっていたかどうか。
誤りや曖昧な記録も多かったらしく、古事記や日本書紀成立はそれらを取捨選択して正史として纏めなくてはならない作業を伴った。
もちろんそれだけではなく天皇家の王統に都合の悪い記録を消す作業もあったかも知れない。
何にせよ帝紀・旧辞が残っていない以上は比較検討する余地も無いわけで。
邪馬台国が大和王権の前身であったのかどうか、倭の五王が天皇達であったのかどうか。
近年では邪馬台国や倭の五王は大和王権とは関係ない九州王朝の女王や大王達では無かったかとの議論も起こっている。
九州と言うと神武天皇は九州の日向から大和に東遷して大和王朝を打ち立てたという伝説である。
何で宮崎県の日向から?。
元々の本拠地だったのか?。
というか神武生誕は高原町で良いのか?。
つまり日本神話の高天原はその地なのか?。
これもまた分からない事である。
そもそもそこから東を目指した理由も不明。
塩土の翁とやらから東に大和の地とその地を治める饒速日が居る事を聞いたらしいがそれで東に行こうとなるだろうか?。
とにかく日向美々津から出航した神武はそのまま東に行くわけではなく豊国の宇佐の地と岡田宮に寄り道している。
寄り道といっても宇佐の地に長く滞在していたらしいから寄り道どころではなく何らかの目的を持って行った事は間違いない。
その後に筑紫の岡田宮にも1年滞在。
北九州で何年も何をしていたかは不明。
その後、安芸国の多祁理宮に七年間滞在。
吉備の高島宮に八年間滞在。
そして長髄彦との戦い等がある。
神武東征の滑稽な所は同じ天津神の饒速日が既に大和を支配している点。
何が何だか分からない。
この饒速日は出雲系の王だったとか物部氏の祖とか言われたりしている。
ちなみに饒速日尊を祀る石切劔箭神社の社史には饒速日尊は天照大御神から大和建国の神勅を拝し天磐船に乗り込み高天原を出航したとある。
これは葦原中国を平定させる為に日向高千穂峰に天降った邇邇芸命と似ている。
饒速日尊と邇邇芸命は名前も何か似ている。
兄弟かこいつらは。
いや、兄弟かも知れない。
葦原中国は出雲かな?、出雲平定の為に九州から来た邇邇芸尊。
大和統治の為に九州から来た饒速日尊。
いや、これは推測で事実は分からないが。
少なくとも天照大御神の命令なのは確かだ。
既に統治してある大和に東遷する神武の図。
ますます意味が分からない。
という訳で神武天皇の突っ込みドコロ満載の話は終わり。
最後に矛盾点がもう一つある。
神武東征により大和を支配下に置いた神武天皇。
時代は過ぎて12代景行天皇の時代に今度は逆に大和から九州に攻め入っている事。
東遷の移動で空になっていた九州に別の勢力が台頭してきたので討伐戦か?。
この辺りが謎と言えば謎である。
もっとも神武は架空の人物で崇神天皇を最初の天皇と見た場合、各地に派遣された四道将軍は九州までは行っていなかった。
景行天皇の代でようやく九州征圧に乗り出したと言うのなら矛盾はないか。
どちらにしても分からないモノは分からないままである。