影が薄すぎる女王台与
邪馬台国の女王は?と問われれば大多数が卑弥呼と答えるだろう。
そう、間違ってはいない。
しかし中国の書物には邪馬台国にはもう1人の女王の名前が出てくる。
卑弥呼の後継者台与である。
卑弥呼の死後、男王が立ったが皆従わず内乱状態になり多くの死者が出たという。
卑弥呼の一族の中から13歳の台与が選ばれ女王に立った。
そうして内乱は収まったようだ。
この台与、読み方は「とよ」か「たいよ」のどちらかと言われている。
邪馬台国と読むならば台与と読むのが正しい。
邪馬台国読みをするならば台与読み。
壹与という読み方の説もありこの場合は邪馬壹国となる。
247〜248年頃、邪馬台国連合と狗奴国との戦闘中に卑弥呼は死去。
男王が立つも争乱が起きて台与が女王に即位。
この頃帯方郡太守の王頎が塞曹掾史の張政を倭国に派遣。
張政は邪馬台国連合と狗奴国との戦いの調停役を担う。
その後邪馬台国からの使者と共に張政は帰国。
それがいつ頃の頃かは分からない。
266年、晋に倭国から朝貢が来る。
女王としか記されていないようだが台与の可能性はかなりある。
これを持って邪馬台国と台与の記録は終わる。
中華の書ではその後男王が立ったと記されているらしいが詳しい年代は不明。
266年当時で台与は31歳前後。
その後どのぐらいの期間統治していたのかは分からないがそれほど長くは統治していなかったように思われる。
中華の歴史に再び倭国の記録が載るのは413年からの倭の五王まで待たなければならない。
空白の150年と呼ばれる日本史の中でも最も謎な時代。
その謎の期間で畿内大和王権の誕生、周辺諸国の制圧、狗奴国や北九州勢力と大和王権との戦いなどが行われた。
ちなみに台与という名前から豊という漢字が割り振られ豊受大御神との関連性を指摘されていたりする。
豊受は食物を司る女神で天照大御神の食事役とされ、天照大御神は伊勢神宮内宮、豊受大御神は伊勢神宮外宮にそれぞれ祀られている。
北九州の豊前豊後も豊が付くため関連性を指摘されていたりする。
そんな所に邪馬台国があったのか?…というのは置いておいてその地域には宇佐神宮がある。
卑弥呼の墓ではないかとも言われたりしている場所だが歴史はかなり古く古代には伊勢神宮と並ぶ程の神社だったとか。
769年、宇佐八幡神託事件では道鏡を皇位に就けるべきか否かで宇佐神宮に神託を仰いでいる。
皇室に関わる何か大きな権威を持っていたのは間違いない。
祭神が八幡大神、神功皇后、そして謎の神比売大神。
八幡神は応神天皇と言われたりするが海外から来たとも言われる謎の神である。
神功皇后は三韓征伐や土蜘蛛討伐で名前が知れている皇后だが天皇だったとも言われたり架空の人物だったとも言われたりする謎の女傑。
比売大神だが宗像三女神と言われたりするが実は卑弥呼ではないかとも言われたりしている。
それにしても台与の人気の無さっぷりは凄いと思われる。
卑弥呼も大して記述が多くはないが台与は輪をかけて記述が少なくどんな女王だったのか不明だ。
台与が女王として君臨していた頃、同じぐらいの時期か少し後に天皇家のルーツとなる崇神天皇等が姿を現してくる。
崇神天皇もいつの頃の人物か分からないが、大体三世紀後半から四世紀前半頃ではないかと思われたりしている。
御肇国天皇と讃えられている天皇。
当時は大王か。
恐らく台与の時代と被っていると思われるが証拠など何もない。
それにしても台与がその名前を轟かすのには何か台与に関わる遺物が発見されたりするしか無いのだろう。
現時点では卑弥呼の知名度に隠れてさして注目されていない存在だがやがては脚光を浴びる時が来るかもしれない。