卑弥呼は何者?
何者と言っても邪馬台国の女王であり、それ以上でもそれ以下でもない。
問題なのは古事記や日本書記にその名前が無い事である。
ただ卑弥呼というのは中華の付けた蔑称であり本来の名前は違うとか何とか言われていたりする。
とはいえ漢字が違う日巫女とかそんな感じであって全く違う名前な訳はない。
それでも昔から卑弥呼は別名で古事記や日本書記に書かれている筈だと研究者達が色々と説を出している。
【天照大御神説】
最も有名なのがこれ。
高祖神として信仰されている女神。
しかしその割には伊勢神宮は天皇家から遠ざけられている。
10代崇神天皇の御代に疫病云々で八咫の鏡と共に皇居から外に出された。
八咫鏡は見てはならない物とされ天皇でさえも見る事が出来ないとされている。
過去には明治天皇が見たという話はあるが。
八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉の三種の神器がいかにして皇位継承必須の品物になっていったかの本当の経緯は定かではないが天照大御神及び八咫鏡は何か天皇家に取っては諸刃の剣的な印象を受ける。
八咫鏡は神器と言うよりは呪物的な印象もある。
祀らなければ祟るぞ的な。
ここで思い起こされるのが景行天皇や神功皇后の土蜘蛛退治である。
九州の従わない勢力を皆殺しにしていった話だが、景行天皇期に大和王権に従った神夏磯姫の話や神功皇后期に誅殺された田油津姫・夏羽兄妹の話を思い出される。
彼等はあるいは北九州に君臨した卑弥呼の一族の子孫だったのではないかとも考えられたりする。
つまり滅ぼした相手を手厚く祀る事で怨霊を鎮める云々の話。
邪馬台国の神器を掲げ祀る事で北九州の正当なる後継者を名乗れる云々の話。
出雲では国譲りの際に大国主が社を建てて祀れという神話があった。
それと同じような事が北九州においてもあった可能性がある。
いや、これは単なる想像領域だが。
とは言え初代神武天皇が日向から大和に東遷する話もあるわけで、この辺り真実が良く分からない。
その説なら神武天皇が九州から大和に東遷し大和の地で大和王朝を打ち立てた…という訳で七世紀末に成立した隋書倭国伝とやらに記されている邪馬台国の位置に都は大和、魏志に言うところの邪馬台国であるという文に矛盾は無くなる。
当然の事ながら元々大和の地に邪馬台国が存在していたのならこれも矛盾はない。
しかし今度は神武東征の話が意味不明になってくるが。
もっとも、単なる神話なのでどうでもいいと言えばどうでもいいが。
【卑弥呼神功皇后説】
そもそも卑弥呼は皇后ではないし子もいない。
表舞台に立ち三韓征伐や土蜘蛛を殺戮していった女傑と即位後姿を一切見せなかったという卑弥呼とはどう見ても同一人物ではない。
何より神功皇后の時代に百済が倭国に献上したとされる「七枝刀」は372年の四世紀後半に当たり卑弥呼の亡くなった248年頃とは120年以上もの開きがある。
これで同一人物はあり得ない訳で。
【倭迹迹日百襲姫命説】
崇神天皇の御代の頃の巫女さん。
彼女を卑弥呼、崇神天皇を政治を行った弟として見る説がある。
箸墓に葬られたとされそこが卑弥呼の墓ではないかと。
箸墓の年代測定は卑弥呼の死んだ240年後半、つまり三世紀中頃と言われていたりするが、三世紀後半〜四世紀とも言われズレがある。
少なくとも倭迹迹日百襲姫命は皇族出の巫女であり女王ではないので卑弥呼ではないだろう。
崇神天皇が実在したとしていつ頃の人物なのか分からないため何とも言えないが三世紀後半から四世紀初頭頃ではないかという話もある。
卑弥呼の後継者台与の時代に被ると思われるがそれも証拠は何もない。
邪馬台国が大和にあったのだとすれば少なくとも神武東征から欠史八代の葛城王朝、崇神天皇からの三輪王朝に関わりが無くてはならない筈だがその記述らしきものは古事記にも日本書紀にも無い。
編纂時に意図的に消されたとか隠されたとかも考えられるが、編纂当時には既に邪馬台国時代の事が分からなくなっていたとも考えられなくは無い。
何せ当時は文字が無く口伝で伝えられていただろうから。
そして当然邪馬台国が九州にあった場合は大和の王朝とは関係がないのだから記紀には記されない。
残るのは地方の従わない蛮族を天皇や派遣された将軍が退治したとかいう記述ぐらいか。
ただ邪馬台国が九州から大和に東遷した場合は何らかの形で卑弥呼は出てくるだろう。
例えば神話の時代の女神としてとか。
まぁ、何にせよ確かな事は何一つ分からないままである。