表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/13

卑弥呼大好き日本人

日本の歴史書に記されていないが中国の歴史書には記されている邪馬台国の女王卑弥呼。

三世紀、四世紀の遺跡や遺物が発見されたり発掘する時には必ずといっていい程邪馬台国の女王卑弥呼と関連付けて語られたりする。

古事記や日本書紀に名前が無い卑弥呼を日本人は大好きなようで。

普通に考えれば邪馬台国以外にも倭種の国々があったのだから別の王権が別の地域であったとしても不思議ではないが何故か邪馬台国邪馬台国と叫ばれている状況は異様とも思える。


邪馬台国の所在地は大別して九州説か大和説に分かれている。

最近は四国の阿波説が一部で脚光を浴びたりしているが。

魏志東夷伝倭人条には邪馬台国への道のりが記されている。

帯方郡から邪馬台国まで一万二千里。


経路としては帯方郡から狗邪韓国まで七千里。

狗邪韓国から海を渡り対馬まで千里。

対馬から南に海を渡り壱岐国まで千里。

壱岐国から海を渡り末盧国まで千里。

末盧国から東南に陸行し伊都国まで五百里。

伊都国から東南行し奴国まで百里。

奴国から東行し不弥国まで百里。


この不弥国までで一万七百里来ている。

末盧国は唐津市、伊都国は糸島市、奴国は福岡市辺りが比定されている。

不弥国の位置が不明だが奴国からは離れていないのでその周辺にあったのだろう。

問題はここからである。

不弥国から投馬国まで南行して水行二十日。

不弥国までで一万七百里来ていて残る里数は千三百里の筈だがここからが里数ではなく日数である、しかも水行。

多くの学者や邪馬台国ファンの頭を悩ませているのがこの水行と日数。

そして投馬国から邪馬台国は南行して水行十日、陸行一月で着く。


ここから北九州から日本海側または瀬戸内海を経由して畿内大和説が出てくる事になる。

ただそれだと東に行くことになり南に行くという記述と全く異なる。

何よりあと千三百の里数と全く合わない。

邪馬台国の南には狗奴国がありこれは熊本市辺りだと思われる。

普通に読めば邪馬台国は北九州のどこかにはなる筈だが水行と日数記述により謎になってしまっている。


仮に投馬国や邪馬台国を久留米市やみやま市付近に置いたとしても人口の問題がある。

投馬国は五万戸、邪馬台国は七万戸。

そこに多くの人口が密集していたという事になってしまうが無理があると言われている。

何より陸で行ける筈だから水行が意味不明になってしまう。

川を使ったのか?。

そういえば土地的には当時の状況は今と同じだとは限らない。

事実かどうかは知らないが湿地帯だったという事をネットで見かけた記憶もある。

多くは現代の交通で考えてしまう人が多いが当時はどうだったのか?、当時の徒歩や舟で実際どこまで行けるのか?を検証した人はいるのだろうか?。

何か机の上や地図上だけであれこれ考えているだけの人間が多そうだが、実際に自分の足で歩いて辿ってみれば分かる事もあるかも知れない。

まぁ、車社会に慣れた人間が徒歩で調べるなんて出来る筈もないだろうが。


同じように当時の船の速度ってどうなっているのか?

大和説の日本海側や瀬戸内海を経由して水行二十日や水行十日で果たして大和付近まで辿り着けのか?。

それも謎である。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ