プロローグ その3 第四王女エカテリーチェ・ヴィルハンス
「エカテリーチェ!」
必死そうに私の名前を呼ぶ声が聞こえるが、私はそれを無視した。
「エカテリーチェ、落ち着くんだ!」
私は十分に冷静だ。頭は冷え切っていて、目の前の婚約者である男の言葉にもまったく心は動かない。
「エカテリーチェ・ヴィルハンス!」
背を向ければ、後ろから思い切り手首を掴まれる。
いくら婚約者であろうと、というより、まだその程度でしかないにもかかわらず、いきなり女性の身体を触るというのは、いったい、どういう了見だろう。
しかも、ついさっきまで、べつの女性に触れていた手で。
「放してください」
私は極めて突き放すように、振り返り、告げた。
「誤解だ、エカテリーチェ。あの女が俺を――」
私は目の前の光景に目を細める。
もちろん、眩しかったからではない。極力見たくはなかったが、現状の認識には必要なことだったからだ。
ヴィルハンス王国の第四王女である私には、腹違いを含めて、兄は四人、姉は三人いる。
王家の、つまりは、国の存続ということだけであれば、第一王子であるお兄様が一人いれば事足りる。
私たちは、保険と、国内外の有力者との結びつきを強めるための、言ってしまえば、駒でしかない。
しかし、それでも、私の相手は同じヴィルハンス王国の貴族、伯爵家の子息だ。
貴族の義務、などと言うつもりはないけれど、国のため、領民のため、この結婚が、いかに政治的判断に基づくものではあっても、必要なものだということはわかっているはずだ。
それに、実家への了承も取り付けられているはずで、初対面時から、結婚して、次代の子孫こそまだいないものの、領地を治めるため、二人で協力して物事を成し遂げてゆかなければならなかったはずだ。
それが、これはなんだろう。
べつに、王侯貴族で、第二以降の夫人を持つことは、法律で禁じられているわけではない。
ただしそれは、きちんと第一の相手を愛して、跡継ぎを作り、領地の経営などもきちんとこなし、豊かと平和を実現して、各家の了承を得られ、全員が納得していれば、という話が、明文化こそされてはいないものの、前提であるはずだ。
私とこの目の前の、今はまだ夫である相手との間に、子供はいない。一応、そういう行為がなかったかといえば、そんなこともないわけではないのだけれど。
相手の女性に関しては、顔すら見たこともない。おそらくは、領地の人間でもないのだろう。
領主としての義務も果たさず、視察、そして挨拶という名目で、結婚してから外回りに行っていたと思っていたら。
「どのようなご立派な理由があるのか、しっかり聞かせてもらえるのですよね?」
はっきり言って、これは王家に対する侮辱だろう。
パイプを作るという意味では、いくつもあった家の中から選ばれたということは、少なくとも、こちらの一方的な申し込みではなく、相手側も了承しているということ。
こちらからの一方的な押し付けでは、相手をつけ上がらせる結果になりかねないし、そんなことでは、両者の関係がうまくゆくはずもないからだ。
政略結婚とは、上から命令してそれで成立、最低限の仕事だけこなしていれば良いなどという単純なものではない。
政略、つまり、政治的な必要性あってのことだ。すくなくとも、この国、ヴィルハンス王国ではそういうことになっている。
だから、そのためだけなら、愛やら、恋やらが必要とは思わない。
けれど、大きく関係性を損なう行為や行動は許されない。それでは、両家に示しがつかないし、他国や他家につけ入れられる隙になる。浮気、あるいは、不貞行為は、そこに含まれるだろう、すくなくとも、私はそう判断した。
「それは、その、つまり、あの女が俺のことを」
「つまり、相手に誘惑されたからだと?」
後ろで、その女性が、抗議の声を上げているが、真実がどうあろうと関係ない。関係があるのは、目の前の事実、そして、それを他人がどう判断するのかということだけだ。
しかし、そんな私の冷めた視線をどう捉えたのかは知らないけれど、夫は明らかにほっとした様子を見せ。
「そ、そうだ。まったく、信じられないことだ。私――」
「信じられないというのは、私の台詞です。まさか、異性の誘惑に簡単に乗るような人に、領主が務まるとでも思っているのですか?」
それがもし、敵国のスパイだったらどうするつもりなのだろう。
今はまだ、この国はどこかと戦争状態にあるわけではないけれど、いや、他国に限らず、べつの領地を持つ領主から、領土を寄こせと吹っ掛けられる可能性だって、ないわけではない。
よく知りもしない、なにも纏っていない、油断している相手をベッドの上でひと突きするだけなんて、なんとも容易いことだろう。もちろん、それなりの容姿は必要になるのだろうが。
「この件は、国王陛下にご報告いたします」
つまり、私の、この世界での父親に。
あるいは、首が飛ぶか、最低でも、挿げ替えられ、辺境かどこかへ飛ばされることになるのは確実だろう。本当に首まで飛ぶかどうかは知らないけれど。興味もない。見せしめというか、引き締めという意味では十分ありえそうだとは思うが。
離婚の手続きなどもある。国から定められた結婚であるため、それなりに難しいものではあるけれど、仕方ない。もしかしたら、いっそ、結婚の事実自体をなくしてしまうかもしれない。理不尽に聞こえるかもしれないが、王家にとっても醜聞だからだ。
とはいえ、監視や、領民の不安を呼び起こしたりしないよう、しばらくは、表面上はこれまでどおりに振舞う必要はあるだろう。
それでも、それほど問題にもならないと思う。
散財も激しく、ただ、両親から領地を受け継いだだけである夫の代わりに、経営や視察、交渉、そのほか、細々としたことは、ほとんど私がこなしてきた。
これでも、一応、第四とはいえ、王家に連なる者として、一定水準以上の教育はされてきている。もちろん、いずれ、国内、あるいは、国外の有力者とパイプを繋ぐものとして、最も大事なことは子孫を作ることだろうが、有能であることも不可欠だ。そうでなければ、そもそも、パイプ役として成り立たない。ただ身体だけあればいいというものでは、決してない。
その中に、夫となる者の浮気を防ぐ方法がなかったのが悔やまれるけれど。
とはいえ、国を心から思うのであれば、この結婚の意味は理解しているはずで、そんなことは、わざわざ言ったりしなくとも伝わっていると判断されたということだったのだろう。ましてや、浮気など、ということだ。
国を思う心がないのであれば、民を導く立場である貴族などでいていいはずもない。
結果からすれば、誤った判断だったということになるわけだけれど。
そういうことも含めて、教師の選定なども進言するため、王宮に至急で手紙を出さなくてはならない。
幸い、領内のことであれば、私も全ての報告に目を通すくらいはしている。税のやりくりや、王城との連絡なども私の仕事だった。
挨拶や視察などは、ほとんど夫に任せていたため、経験としては未熟だが、それはこれからやっていくしかないだろう。社交のマナーや貴族間のやり取りなどは、城での勉強でさんざん叩き込まれている。
青ざめた顔を浮かべる夫には一瞥もせず、ましてや、浮気相手の女性のことなど気にかける意味もない。
どこの誰だか知らないし、どんな風に夫を誘惑したのか、あるいは、口車に乗せられたのかはわからないけれど、それが意味を持つことでもない。
せめて、いや、子供ができていたらもっと駄目だっただろう。夫として、親としての責務も果たせない者が、どうやって、領民を導いてゆくというのだろう。
この際、私自身のことは後回しだ。
「エカテリーチェ!」
なおもうるさく私の名を呼ぶ夫に、いい加減にしてほしいという思いも込めて振り向けば。
なんて短慮な男だろう。
寝室にあった装飾品のナイフが私の胸に突き刺さっていた。
「これで――」
夫だった相手がなにかを言って笑っていたが、遠くなる私の耳には届いていなかった。