四歳 『私』と魔法
公爵家の長女ともなると、さまざまな教養を身につける必要がある。もちろん、それは、公爵家長女という立場に限った話ではないのかもしれないけれど。
数学や歴史などの一般学問はもちろん、ヴァイオリンやピアノなどの楽器、歌唱、社交ダンス、刺繍に装飾品のセンス、それから、紅茶の淹れ方に至るまで、あらゆることを身につけさせられるけれど、この世界ではもう一つ、これは貴族という括りではないけれど、魔法だ。
大雑把に言ってしまえば、魔力を用いて現実に影響を与える力の総称。
誰しもが使える力ではない。まず、魔力自体、空気中の魔素を取り込んで自身の身体で生成するわけだけれど、この変換の効率が悪いと、魔法として形をなすことができず、霧散してしまい、魔力を扱えないということになる。
「アリアちゃん。そろそろ、魔法の練習をしてみないかしら」
他の教養については、両親の用意してくれた先生方に合格をもらえるレベルを示すことはできた。
肉体スペックは無理だけれど、記憶は受け継ぐから、運動能力によらない、あるいは、ある程度なら、この身体でも再現は可能だから。
一般に貴族として身につける教養という意味でなら、数十年ではきかない、ようするに、普通の人が一生をかけても届かないだろう年月の研鑽を積んでいるわけで、それらを、忘れることのない――できない――私は、真面目に研鑽を積んでいる普通の人には悪いけれど、あらためての修練が必要ない。
しかし、魔法――マナの運用に関しては、話が変わってくる。
「アリアちゃんのピアノやダンスやマナーが素晴らしいと先生方が褒めてくださるのは聞いているわ。けれど、魔法だけは試そうともしないわよね」
母は怒っているという感じではない。どちらかといえば、疑問に思っているというところだろうか。
この年頃で、魔力があって、魔法を試そうともしない子は珍しいだろうからね。
「怒っているわけではないのよ。ただ、魔法は素敵なものだから、アリアちゃんにも好きになってもらいたいの」
母――サリナ・ユーインは魔塔の魔法師だ。つまり、世界的に見ても、相当に優秀な魔法師だということになる。
もちろん、親の力をすべて子供が引き継ぐなどということは、普通はない。私もべつに、親から引き継いでいるわけではないからね。
ただ、私は魔力自体は身体に宿しているわけで、それは、魔法師であれば、普通は感じられるものでもある。
「……わかりました」
母を喜ばせるため、というのは、理由が弱いのだけれど、それでも、どうにかできないことはない。
ただ、おそらくだけれど――。
「――アリアっ、良かった」
目を覚ましたのは、ベッドの上でだった。
予想どおり、精神を消耗しすぎて、気絶したのだろう。
「ごめんなさい。まだ、アリアに魔法は早かったのかもしれないわね」
ベッドの傍らで私の手を強く握る母の目には涙が浮かんでいた。悪いことをしたな。
「すみません、お母様」
「アリアはなにも悪くないわ。今はゆっくり休んで、ね」
差し出されたコップには、温かいお湯にはちみつが溶けていた。
「どこか苦しいところとか、痛いところとかはあるかしら」
「いえ。大丈夫です」
私は魔法を使えないわけではない。
ただし、魂が因果律の制約を受けているので、自分が存在している世界に干渉するような強い力は、とくに自分のためには、使うことができない。ごく小さな改変であれば、その限りでもないかもしれないけれど、その判断は自分ではつかないからね。自分では大丈夫とは思っても、世界に許容されない可能性を考えるなら、極力、使わないに越したことはない。
たとえば、人助けのために火を消す必要があるから、などという理由があれば可能だけれど、自分がその火事から逃れるため、という理由では、魔法による改変を起こすことができない。どちらの作用が強いのかは、言うまでもないだろう。
他にも、いろいろと条件やら、制約やらはあるのだけれど、今回の場合、魔法を教えてくれようとした母の厚意に応えるため、という名目で多少の力を行使することはできたけれど、私が魔法を使うと、それこそ、この世界における普通の四歳児という規範からは外れることになるので、それは許されなかったということだ。威力しかり、制御力しかり。
この場合の普通というのは、私が判断していることではなく、言うなれば、世界の意思のようなものが判断しているようなものなので、私にはどうしようもない。世界のルールのようなものだ。それを無視しようとすれば、今回のように、気絶か、あるいは違うなにかだろうが、代償が発生する。
今回は自分の肉体で済んだけれど、直下型の地震が起こったとか、雷が落ちてきたとかになると、どうしようもないからね。巻き込まれるのも、自分だけで済まなくなる可能性がある。
肉体的に成長すれば、もうすこしは自由に魔法を使えるだろうけれど、そもそも、魔法という力自体が、世界のあるべき形からは少し外れた力、つまり、世界に干渉する力だからね。それは、魔法という力が一般に認知されているこの世界であっても、だ。
世界のほうで私を逃がしてくれないくせに、身を守る術を制限されるんだからね。困ったものだよ。
多分、母は私が倒れて、気絶している間に、身体に異常がないかどうか確かめただろうけれど、異常は発見できなかったはずだ。せいぜい、熱が高くなったとか、その程度だろう。
つまり、私が魔法――魔力やマナ――を自由に使えるのは、余程の事態に限られる、ということだ。少なくとも、現状は。
まあ、この世界を滅ぼそうとかって、たとえば、魔王が侵略に来た、なんてことになれば話は違うのだろうけれど、そこまでして魔法を使いたいとはまったく思わないし、そんな事態にはならないほうがいいに決まっている。日常で魔法が使えるのは便利だけれど、なければ生きていけないようなものではないし。実際、魔法のない世界でも生きてきたことは何度もある。
一応、自由に使える魔法がないこともないのだけれど、正確にはあれは魔法ではないからね。それに、魔法以上に制約がきつい。
魔法は一応、条件を満たせば、普通に使うことができるけれど、あれは現状、この世界で使えば必ず気絶するからね。それから、世界に与える影響が大きすぎて、ほぼ確実に、どこかで異常が発生することになると思う。あれによる現象ではなく、蝶の羽ばたき的な意味で起こるものだから、これもやはり、私がどうにかするのは不可能に近い。この世界に存在している魔法とは理の違う力だから、多分、私以外には使えないから、心配はいらないはずだけれど。
たとえば、どこかの海域で大渦潮が発生するとか、局所的豪雨に見舞われるとか、必ずしも私に直接関係するところで異常が起こるわけではないというのも、心苦しい。
「お母さんが悪かったわ。アリアちゃんは自分でわかっていたのね」
おそらくは、自分の身体のことだからなんとなくわかっていたのだろう、というくらいに解釈してくれたのだろう。実際、それでも間違ってはいない。どうせ、詳しく説明することはできないのだから、そうやって理解してくれるのならば、それでかまわない。
「ご心配をおかけしました」
「親が娘の心配をするのは当たり前のことよ。可愛いアリア。今日はゆっくり休んでいてね」
母は私にキスをして、傍らに置いた椅子に座り直した。
「お父様には?」
「お父様はまだお仕事から戻られていないけれど、帰ってきたら、きっと連れてくるわね」
ベッドの上で寝転がっていられるのは歓迎だけれど、心配させてしまうのは本意ではない。
とはいえ、このアリア・ユーイン四歳の身体でできることも今はないから、私は仕方なく、やむをえず、ベッドに横になることにした。




