ハリエル・ロマーロの後悔
◇ ◇ ◇
夜。
ハリエルはいまだサークル棟――正確には、部活なんかの準備室、あるいは、利用している部屋のある棟――のサロンに一人、残っていた。
今日も、自分の派閥のお茶会は開催される予定であり、中止の知らせなどは出していなかった。
しかし、こうして放課後を過ぎ、空に星の瞬く時間になっても、サークル棟を訪れる人はいなかった。
静まり返った部屋の中、自分の手にしたランプの灯だけが寂しく燃えている。
紅茶やお菓子はもとより準備していない。ここ数日のことから、どうせ誰も来ないだろうと、心の片隅では思っていたからだ。
しかし、実際にこうして一人で誰もいない部屋にランプの灯りだけに照らされていると、どうしようもなく、喉の奥のあたりが引きつけられる思いがしていた。
ランプをテーブルに置き、椅子に座って、突っ伏した。
「……なんでこんなことに」
ハリエルにはわかっていなかった、いや、わかろうとすることを拒否していた。
考えてしまえば、自身の行いがどれほど勝手なものだったのか、認めてしまうことになるから。それが逃避などと呼ばれる行為ではあっても、今のハリエルにはそれを受け止められるだけの余裕がなかった。
――全部私のせいにすれば気が済んだ?
その中で、鮮明に頭の中に、思い出すまでもなく、残されているのは、昼間にアリアに言われたこと。
「うるさい」
それは、ハリエルの心に深く響いていたことだったのだが。
――なんでも私のせいにしたい気持ちはわかるけど、ここ数日のあなたの様子は全部、私の耳にも届いているからね。
「なんで、あんたなんかに、そんなこと言われなくちゃならないのよ」
それが逆恨みであり、アリアが悪いどころか、むしろ、ハリエルのためを思って言ってくれたんだろうということはわかっている。
そもそも、最初にアリアと関わろうとしたのだって、ファルバニアのような大国の公爵家の娘である、いかにも苦労知らずそうな相手に対する虚栄心だ。自身のことは棚に上げていた。
アリアのことは調べればすぐに情報が集まった。
ファルバニアの王城騎士団長と魔塔の魔法師の娘であり、自身にも聖女のごとき力があり、送った曲が国中に流行るくらいに芸術に優れ、歴代最高得点の満点で学院に入学するほど学術に優れ、生徒会にも勧誘され……と、挙げて行けばきりがない。
ハリエル自身、そんなアリアのことを、羨望する気持ちが欠片もなかったとは言わない。
どうして、アリアにはたくさんのものが手の中にあり、自分の手にはなにもない、どころか、零れてさえいくのだろう。
対する自分のなんとみじめなことか。
同じ公爵家の令嬢という立場であるにもかかわらず、どうしてここまで違うのだろう。
少なくとも、ハリエルの目にはそう映っていた。
今だって、寂しい自分の味方をしてくれる人は誰もいない。おそらく、アリアにはあの使用人がついているのだろうに。
今のこの自分の気持ちを分かってくれる相手はいないのだ。
あの女が憎い。
なぜ、自分よりも年下であるあの女より、みじめで、悲惨で、辛く苦しい思いをしなければならないのか。
――わかってほしいなら、わかってもらえるだけの振る舞いと、努力をしなさい。そうしないと、そのまま醜く歪んでいくだけだよ。
しかし、いまさらハリエルにそんな生き方は選べなかった。
公爵家の令嬢として育てられ、他人に頭を下げるようになんて習ったことは一度もない。
もちろん、そんな経験もないし、そもそも、自身に非があったと思ったことは一度もなかった。
今回のことだってそうだ。
貴族とは見栄を重要視するものであり――それを、本人たちが見栄だと思っているのかどうかはともかく――それは当然、国の違う貴族家ではあっても、侮られるわけにはいかないように。
しかし、自分がそんなものばかりを重要視する中で、アリアは実に自然に振舞っていた。まるで、そんなことはどうでもいいというように。ハリエルの大事に思っていたものを粉々にしていくように。
到底、ありえないことだと思っていたし、なんて馬鹿なことをするんだろうと、内心、あざ笑ってもいた。
そして、そのアリアをさらに打ち負かすべく、多くのことをしてきた。
しかし、その結果、ハリエルの周りから人は消え、アリアは変わらず、のうのうと過ごしている。
「うるさい! 勝手なことを言わないで!」
私の振る舞いのなにがいけなかったというのか。
今まで、そんなことを言ってくる相手はいなかった。言ってきた――言ってくれていたアリアの手は、取ることもできず、自分で払いのけてしまっていた。
そして、つい、ハリエルは思い切り手を払ってしまった。
ガラスの割れる音、そして広がる音、感じる熱気。
「え? きゃぁっ!」
振り返ったときにはもう遅い。
砕けたランプと倒れた蝋燭の火が、敷かれているカーペットにあっという間に燃え広がる。
紅茶でも準備していれば、それをかけて消火できただろうか? いや、この炎に対して、それがなんの足しになるというのだろう。
ハリエルは魔法師ではない。当然、この場の空気をなくしてとか、水を生成してとか、土で埋めて、なんて真似を咄嗟にすることはできない。
自分の力だけではカーテンなんて外せない。
窓を開けても、場所は二階で、飛び降りることなんて怖くてできそうにない。
火はあっという間に燃え広がって、部屋中を覆い尽くす。
慌てて、なんとか廊下には出るものの、ハリエルが出たのと同じように扉から出た火は、すでに廊下にも移り始めていた。
火の燃え広がる速度は、ハリエルの足より圧倒的に早く、行く手は炎に遮られる。
「ごほっ、ごほっ」
ハリエルはハンカチで口と鼻を覆う。しかし、とても、歩いて出口まで行けるかわからない。
そもそも、混乱する頭と、炎のせいで、どっちに出入り口があるのかわからない。
階段だって崩れ落ちているかもしれないし、燃える扉をどうやって開ければいいのだろうか。
悪い想像ばかりが頭の中を駆け巡り、結果、さらに歩みを遅くしてしまうという悪循環。時間ばかりが過ぎていく。その間にも状況はどんどん悪くなる。
「だ、誰か」
こんな時間に誰かがいるはずないとわかっていても、つい、助けを求めてしまう。
そもそも、誰もいないから、こんな気持ちになっているというのに。
ハリエルとて、アリアと同じ、少し年上くらいの少女である。
大人であっても難しいのに、子供が炎の中で活動するのはそれ以上に困難極まる。
これが報いだというのだろうか。こんな風に無残に死ぬことが?
「ひっ」
崩れて落ちてきた天井が廊下にぶつかり、床板を打ち壊し、音を立ててハリエルの退路をなくす。
あと少しずれていたら、自分の頭がそうなっていただろう。
幸い、魔法学科とも制服は同じであり、火の魔法も授業で扱うため、制服の耐火性能などはそれなりに高く、自身の服こそ燃えていないとはいえ、完全耐火というわけではない。
校舎自体は木造ではない。まあ、ここまで燃え広がってしまえばなんでも同じとも言えるが。
「こんな風に死ぬんだったら、あんな生き方しなかったのに……」
しかし、いまさら後悔しても遅い。
この火は、自分にはどうしようもない。ここでこのまま焼け死ぬのだろう。
体力よりも、気力が先に尽き、ハリエルの足を止め、その場に蹲らせる。
「アリア……」
「ハリエル!」
これは、死ぬ直前に見られるという、走馬灯というやつだろうか、目の前に現れたその影は、確かな質量を持って、ハリエルの腕を強くつかんだ。




