2.不安と憂鬱
私は途方に暮れたまま、最後の晩餐を楽しむことに決めた。馴染みの酒場で、食べたい物を好きなだけ頼んで、お酒を飲む。明日からは、当分そこら辺に生えている草でも食べることにする。
アシュレイ夫人からの請求書を開くと、途端に吐き気がする。もうお酒を何杯飲んだのかなんて記憶にない。
請求書を見る、吐き気がする、だからお酒で紛らわす、の繰り返しを、永遠にしていた。
「よお、ジゼル。こんな所で何してるんだ?」
懐かしい声。顔を上げると、そこには古い友人の姿があった。
「あら、ロイド」
ピシッとした高級そうなスーツに、しっかりとした帽子を目深に被っている。しばらく見ないうちに、洗練された格好をしていた。おそらくだが、また危ない仕事に手を出しているのだろう。彼はいわゆる"何でも屋"だ。
久しぶりね、と声を掛けるとロイドは当然のように隣に座った。石鹸みたいな、甘い良い香りがする。こんな香りが移るほど、また可愛い女の子を口説いていたのだろうか。
「スプリングさんの家の仕事中じゃないのか?」
ロイドが慣れた手付きで酒を注文する。どうやら一杯は奢ってくれるらしい。
「お仕事中にこんなの飲んじゃうなんて悪い子だな、ジゼル嬢」
ロイドは悪戯っぽく笑うと、小さく乾杯した。
「いいのよ、さっきクビになったの」
「お前、何やらかしたんだよ。スプリングさんと言えば"使用人への冷遇について考える会"の会長だろう」
ロイドの顔は笑っていたけど、本当に驚いているようだった。
「ええ、アシュレイ夫人の大事なお皿を割っちゃったのよ」
ほら、と渡された請求書を見せると、ロイドは急に真面目な顔になって、その声に怒りを滲ませた。
「いくらなんでも高額すぎるだろう……!」
一緒に怒ってくれる人がいると心強い。
「そうなの。でもね、ローラ様の恋路を邪魔しちゃった代が込みなのよ、きっと」
私だって本当はもっとその場で抗議したかった。そういえば彼女たちは主人ではないのだから、もっと文句を言って屋敷を出てきたら良かったのかもしれない。
ーー律儀に『お世話になりました』なんて言って馬鹿みたいだわ。まあ、礼儀は大切よね。
「ピエール伯爵なんて女好きで有名だろう。邪魔も何もないさ、女と名のつくものを見たら片っ端から口説くような方だ」
「さすが、耳が早いのね」
どこから仕入れてきたのか、ローラの恋の相手がピエール伯爵だと言うことも知っていた。
「金、どうするんだ」
「だからお酒を飲んでるのよ。明日からは……本当にどうしよう。"うちより良いお給料出してくれるお宅が見つかるといいわね"だって……そんなところいくらでもあるわ」
力のコントロールがすっかり出来なくなってしまった。
思わずに乱暴に置いてしまったグラスの中で、琥珀色の液体が大きくゆらゆらと揺れている。
ロイドはグラスを落とさないように、少し離れたところに置き直してくれた。
「……でもだめだった。隣のテイラーさんが新しい使用人を探していたのを知っていたの。まだ新しい子が見つかってないらしいから行ってみたら、やっぱりだめですって」
「……ご近所さんはさすがに無理だろう」
あのアシュレイ夫人が手回しをしていないはずない、とロイドも言いたいようだ。
「こんな金額返しきれないわ。何代先になっても払ってもらうって言われても……そもそも私だって永遠に独りかもしれないのよ……うっ……」
だいぶ酔いが回ってきたのかもしれない。感情が爆発しそうだ。
「ジゼル……」
ロイドは危険を察知したらしく、私の手元の酒を水に変えてくれた。冷たい水の感触が気持ちいい。
「もう、体を売るしかないかしら……」
苦肉の策だけど、それしかない。
「何を言ってるんだ……! ジゼル、もっと自分を大切にしてくれ」
ロイドは急に私の肩を掴んで揺さぶってきた。彼も酔っているのね、脳が揺れるわ。
「貴方のツテで私の髪の毛とか……そういうの売ってくれない?」
髪の毛には結構自信がある。そこらの令嬢にだって、ローラ様にも負けない。ただ、幼い頃からずっと伸ばしていたから寂しいけれど。
「なんだ、俺はてっきり……。いや、髪は売らなくてもいい。それよりもいい話があるんだ」
彼の話は大抵そんなに"いい話"ではない。
ロイドは上着のポケットから、小さく畳まれた紙を取り出した。
「久しぶりにまた俺と組まないか?」