1.ことのはじまり
けたたましい音と共に、ガチャンと嫌な音がした。
ああ、やってしまったわ……。
私は天を仰いだ。この皿は、スプリング家の奥様であるアシュレイ夫人が大変気に入っていたものだったはず。
「ちょっと、ジゼル・サマー! 何をしているのよ……!」
よりにもよって、一番最初にこの惨状を目撃したのがスプリング家の長女であるローラ様だなんて……。
「ローラ様、申し訳ありません」
深々と頭を下げているのだが、ローラ様の怒りはまだ収まらない。嫌味ったらしく大袈裟な溜息を吐いたかと思うと、すぐに大声をあげて母親であるアシュレイ夫人を呼び付ける。
「あーあ、お母様ぁー」
この口を今すぐ塞げたらどんなに良かったことか。
彼女は私の失敗が楽しくて仕方がないらしい。自分は未だに求婚者の一人も現れないのに、姉が王子の婚約者候補になっているというのも気に食わないのでしょう。だからぶつけようのない鬱憤を、毎日のように私で晴らしている。
元はといえば、ローラ様が『皿の下に埃が溜まっているわ、今すぐ何とかしてちょうだい!』なんて騒ぐから、こんなことになったというのに。
あの皿は食器棚の一番上に、飾るように大切に置いてあったもの。私が『踏み台を用意します』と言ったら、彼女は露骨に嫌な顔をした。『踏み台なんて必要ないでしょう、今すぐ掃除して』と、どういう根拠かは知らないが、そうお申し付けになったのだ。
必死に背伸びをしている私を見て、ローラ様はこの上なく楽しそうだった。おまけにこんな大惨事の目撃者になったのだから、さぞお喜びになっているでしょう。
こんなに短時間で娯楽をいくつも提供してあげたのだから、お給料を上げてほしいわ。
「まあ、なんてこと」
アシュレイ夫人も、ローラ様とそっくりな目を見開いていた。
アシュレイ夫人も、この所はずっとピリピリとしていた。以前はもう少し優しい人だったはず。"使用人への冷遇について考える会"を開くから、五十人分の軽食を用意して欲しいと当日の朝に言うような人だけれど、私に冷たく当たるようなことはしなかった。
ちょうど、一週間前だった。ローラ様といい雰囲気だったというピエール伯爵が、私のことを『美しいお嬢さんですね』なんて声を掛けたことが、大層気に入らなかったらしい。そんなの挨拶程度の意味だったでしょうにね。
その後、私に薔薇の花を贈ってくれたのだけど、他の女性に薔薇を贈っているのも知っている。彼の趣味は目新しい女性に薔薇の花を一輪贈ること、だからいつでもポケットに薔薇を忍ばせている。そんなことは私でも知っている。
ちなみに現時点で彼の本気のお目当ての女性は、馴染みのパン屋の娘さんらしい。
ローラ様とピエール伯爵が結ばれなかったのは私のせいではないはずだ。それなのに、ローラ様は何かにつけて『ジゼルが色目を使っていたからだ』と主張するのだから困ってしまう。ローラ様は、只今絶賛で"同年代の女性がみんな敵に見える病"を患っている。
「……大変申し訳ありません、アシュレイ夫人。弁償致します」
どんなに心の中で言い訳をしても、実際に皿を割ってしまったのは私の責任だ。これは間違いない。床にしっかりと額をつけて、私は少しでも誠意が伝わるようにと、深く頭を下げた。
「当然よ、貴方が一生掛かっても返せないだろう金額だけどね」
ローラ様は高らかに笑っている。理由をつけて私を見下すのが本当にお好きらしい。わかりやすくて素直な方だ。
「……貴方はクビよ、どうにかここより良いお給料を頂ける仕事を探すことね」
アシュレイ夫人にクビ、と言われて私は少しだけホッとした。恐らく一週間前のあの日に、クビと言い渡したかったはずだろうから。
それをしなかったのは、"使用人への冷遇について考える会"の会長としての見栄と意地だろう。
「大丈夫、何代先になったとしても待ってるわ」
すかさず、またローラ様の高笑いが聞こえてくる。
高そうなお皿だったから、多く見積って三ヶ月分くらいのお給料が飛ぶことを覚悟しましょう。
「なっ……! 」
なんて金額……!
いつの間にかしっかりと用意された請求書には、私が見たこともないような金額が記されていた。0の数を数えるのは途中で止めにした。三ヶ月分の給料分と言う私の考えは、どうやら甘かったようだ。
「アシュレイ夫人……そんな……」
これは冗談ですよね、と見上げたアシュレイ夫人は案の定、にこりともしていなかった。
「さよなら、ジゼル・サマー」