じーちゃん復帰コンペの盛り上がったこと!
社長の肝煎りでの送迎なので、これも立派な業務扱いになった。
…大丈夫か、この会社… 社長の私的な交友関係の範疇の要件が社の業務として認められるとは… でも、お陰でみなみちゃんの元気な顔が見られた。素直に嬉しい。次いでにお母さ…美加さんの元気な様子も伺えた。まあ、嬉しい。
それにしても、源さん。寡黙だ。先日はあれ程話していたのだが、今日は車に乗ってから、一言も話さない。俺が話しかけても、ああとかうんとしか返事が無い。
ひょっとして、俺、嫌われている? 大事な孫娘を誑かした極悪非道の若造と思われて?
いや、違う。もしそうなら、俺の送迎をキッパリと断るはずだ。嫌な物には決して巻かれない、そんな頑固一徹な職人気質を彼には感じる。
となるとーやはり、診察の結果を心配しているのだろう。俺は膝に関しては余り造詣が深くない、と言うのも野球経験で膝の故障は周囲に余り存在しなかったから。肩や肘はほぼ全員が問題を抱えていたものだが。
事前にちょっと調べたのだが、膝の痛みに多いのが変形性膝関節症、関節リウマチ、痛風などらしい。どんな症状か聞いていないので源さんの病名は推測出来ないのだが…
「どんな症状なんですか?」
試しに聞いてみる。
「四年前、くらいからよお、」
ボソボソと話し始めるが、マスクをしているせいもあり、イマイチ良く聞き取れない。だが何とか聞き取りを終える頃には、膝の痛みに一番多い変形性膝関節症なのではないか、と考える。
小林社長の友人のクリニックは江戸川区に西葛西にあり、大多慶からだと京葉道路を使って一之江I Cからすぐである。
車が東京都に差し掛かる頃には源さんも大分話してくれるようになり、
「おらあ、病院なんて、殆どかかった事、ねえんだわ。だからよお、ちょっと怖えんだよ」
「心配ありませんよ。その先生、膝に関しては日本でも有数の名医なんですって。安心してくださいよ」
事前調査によれば、アメリカの大学にも留学経験のある若手、と言っても四〇代だが、の名医である。患者には多くの有名スポーツ選手が名を連ねており、寧ろこんなすぐに診察を受けれる事自体、珍しいことの様だ。
クリニックは思ったよりも大きく、ちょっとしたビル全体にリハビリ施設や入院施設も入っているらしい。
待合室にはコロナ禍にもかかわらず大勢の患者がおり、源さんは一人体を固くしてじっと呼び出しを待っている。
予約時間を20分ほど過ぎた頃、名前を呼ばれ俺と源さんは診察室に入る。
「初めまして、院長の高千穂です。小林さんの紹介、と言うことですね。膝を悪くしたと聞きました、早速拝見させていただきますね」
高千穂院長は大変物腰の柔らかい眼鏡をかけた先生で、経歴から推測される多くの治療経験に基づいた自信を感じさせる、見るからに名医である。
その後院内のレントゲン、M R I検査を経て、先生は
「変形性膝関節症に間違いないと思います。日向さんの画像を見ますと、ほら、ここ。膝の関節の一部が欠けてしまっていて、そのカケラが痛みを誘発しているんです。簡単な手術でこのカケラを除去すれば、痛みはビックリするほど無くなると思います」
手術、と聞いて源さんの身体が硬直する。
「あはは、心配しないでください。内視鏡入れてサッと取るだけですから。三日後には退院できますよ」
「えっ、本当に?」
「はい。ひと月は松葉杖の生活になりますけど、それからは普通の生活に戻れますから」
「あの、ゴルフとか、出来るでしょうか?」
「ゴルフお好きなんですか? 勿論、好きなだけ回れますよ」
源さんの目はみるみるうちに涙が込み上げ、鼻を啜る音が診察室に静かに響く。
「この方、全日本アマ選手権で入賞するほどのゴルファーだったんです。」
急に先生が源さんに向き直り、
「えっ まさか、日向源さんって… あの、『大多慶の魔術師』と言われた、あの日向さんなんですかあ!」
え… そうなの… てか、先生、そんなにゴルフお好きなんですか…?
「小林さんとは、ロンドン留学していた頃のゴルフ仲間だったんですよ、あの人が東京三葉銀行のロンドン支店長 で、当時大変お世話になったんです。ああ、そう言えばあの頃言ってたわ、凄いアマゴルファーが友人だって… あれが日向さんだったんだ、そうかそうか…」
よく見ると、先生の机の卓上カレンダーは海外の有名なゴルフ場の写真だ。
「これは是非、私にお任せください日向さん! そして完璧に治しますから、私にゴルフをご教授願いますよ、お願いします」
あらビックリ。日本の名医が源さんに頭を垂れる図。源さんもすっかり緊張と不安が解け、
「ワシでよければ。いつでも大多慶にいらしてくださいよ、先生」
「そうですか。ではいつにしますかな。私、三月は学会があって、四月のこの週なら…」
…小林社長と同類だ。出来る人間は、計画が早く行動も早い。己より優秀な相手に頭を下げることを全く厭わない。必要ならば己のプライドを簡単に着脱してみせる。
今日は思わぬ形で、ビジネスの勉強になったわ。サンキュ、源さん。
「と言うことで、入院は来週の月曜日、手術は火曜日、様子見て水曜か木曜に退院。だそうです。手術も全身麻酔ですが、至って簡単な術式だそうです」
「早っ そんな急に言われてもねえ、私も仕事あるんだし…」
「でも、早く治せば源さん早く仕事にも復帰出来ますし。善は急げ、ですよ美加さん」
「うふ。そうね、善は急げ、よね、ゆーちゃん。うん、わかった。社長に私から言っておくわ」
ゆーちゃんって…
「それと、大体幾らくらいかかるって?」
「概算で、十万円程度だそうです」
「十マンかあ… 厳しー」
「あの、もしよければ、俺が立て替え…」
「バーカ。娘の面倒見てもらってんのに父親の面倒まで見させられるかっつーの。みなみにゴルフセット買ってあげたの、ゆーちゃんでしょ。」
「ええ、まあ…」
「ありがと。ホント優しい。こんな人、私の周りにいなかったよ…」
声がメチャ色っぽくなり、胸がドキドキしてくる…
「もし、どうしても困った時は、お願いするね、ゆーちゃん。それよりね、お金のことよりね、その手術の日、立ち会って欲しいな、私一人じゃ心配で心配で…」
ゴクリと唾を飲み込む。
「でもゆーちゃんが一緒にいてくれたら、美加頑張れるかも…」
鼻呼吸しか出来なくなる。どうした俺? どうしてこうなる?
「ダメ、かな?」
GODIVAのチョコより甘い声に、自然と首が縦に振られる…
「やった! 嬉しいな、手術の間は二人っきりだね、ゆーty… っ痛っテーなコラ、何すんだみなみ!」
……家庭内暴力的なDVが発生したらしい。直ちに現場に急行せねば…
「ったく。じーちゃん、信じられる? この人、ゆーだいさんの事、メチャ誘惑してんだよ! 何考えてんだよ、クソババア!」
いや、みなみちゃん… 間違ってもババアには見えないぞ。寧ろ…
「バーカ。冗談に決まってんでしょ。今までアンタの大事なもの、取ったことある?」
「「有る」」
父親と娘がハモる。ええ? 何取っちゃたの、美加さん… まさかみなみちゃんの彼氏を?
「昨日の夜。アタシのアイス、食べられた!」
「ワシの酒、飲まれた」
それ、ダメでしょ美加さん…
併しながら、美加さんのテヘペロに心乱れる俺って…
「アンタからもゆーちゃんによーくお礼言いなさいよ。来週も付き添ってくれるんだから」
「ハアー、なんでこーなるかなあ… 大丈夫? ゆーだいさん…」
「全然。これ、社長命令でもあるからさ。それに俺も早く源さんとラウンドして貰いたいし」
「あは。じゃあさ、じーちゃん復帰第一線はさ、アタシと、じーちゃんと、ゆーだいさんと、良太さんで回ろーよ」
「「いいねえ」」
俺と源さんは目を合わせてニヤリと笑う。今日から俺と源さんは、戦友となった。
* * * * * *
じーちゃんの手術は無事に成功した。てか、ゆーだいさん曰く、大成功だったそーだ。次の日には退院して、家に帰ってきた。アタシは支配人にお願いして、当分の間家から通わせてもらう事にした。
「そうですか、源さんの膝、良くなるんですね。嬉しいな、また源さんの魔法の様なショットを見られるんだ。みなみちゃん、なんなら午後からでいいですよ。午前中は源さんの面倒を見てあげてください」
なんて嬉しいことを言ってくれて、思わず泣いてしまう。
退院して家に戻った日。あの構図だけは許せんかった… フツー、じーちゃんを間にして母ちゃんとゆーだいさんが支えるもんじゃん? なのにあのババア、しれっとゆーだいさんの腕に手回して嬉しそーに帰ってくるし。
「ゆーだいさん。マジ、気をつけて」
「へ? 何が?」
「あのオンナ。マジヤバイから。」
「ど、どゆこと?」
「アタシの知ってるだけで、5人。」
そう言ってアタシは手を広げてゆーだいさんに突き出す。
「人生をあのオンナに狂わされて、町を出て行ったり、会社クビになったり、ひどい奴は日本にいられなくなって東南アジアに逃げてったり」
ゆーだいさんの顔が蒼白になる。
「マジ魔性だから。アタシの友達のお父さん、あのオンナに入れ上げてそれがバレて離婚して今沖縄のちっちゃい島で一人暮らし…」
ゆーだいさんが震え出す。
「多分、被害者はその何倍もいると思う。だから、マジで気をつけて」
「わ、わかった…」
「ゆーだいさんって、あのオンナのドストライクだから。背高くてガッチリして見るからにスポーツマンで」
「や、やめてくれ…」
「ちょっと不器用で、すっごく優しくて」
「やめろ、マジやめろ…」
「このままだと、あと半月でゆーだいさんオチるわ。いい、一度でもハマったら絶対抜け出せないよ、あのオンナからは」
「ヒ、ヒィー」
「なんでもね、スッゲーテクなんだって。それで男はみんないt っ痛えーな、何すんだクソババア!」
「あることねーこと言ってんじゃねーよ、この肩幅オンナ!」
「は…はあ? なんだよそれ!」
「親の悪口ペラペラ言ってんじゃねーよ、この足のサイズ26.5オンナ!」
「や、やめろっ それ以上、言うなっ」
「そんならもう私の事、悪く言わないって約束すっか、この脇毛ボーボーオンナ!」
「やめてーーーーーーーー」
「二度とゆーちゃんに私の悪口言わないって誓えや、このパンツ二日で裏表一枚オンナ!」
「きゃあーーーーーーー」
…みなみちゃんはにげだした。
それから。じーちゃんの世話はもっぱら母ちゃんがこなす。アタシと弟二人は母ちゃんの代わりに家の仕事―洗濯、掃除、食器洗い、を担当する。
「大、洗濯は終わったか?」
「っセーな、終わったよ」
よし。
「おい、源。掃除はちゃんと済んだか?」
「ねーちゃん。俺らにばっかやらせて、自分じゃやんねーし。ズルいし」
「はあ? テメエ。なんか言ったかコラ?」
「い、いえ。特には」
今日も筒がなく(恙なく)家事は終わる。
家事は慣れる(やらせる!)と時間を取れる。ので、ちょっと自分の時間を作ってみる。何をするって? まずは脇毛の処理でしょ、それと下着は一日一枚。慣れると洗濯も(やらせると)楽だと分かったし。
(おい源。ねーちゃんのアレ、動画撮ってけ!)
(それなっ いつか仕返ししたる!)
さすがに手と指を使う仕事を目指してるから、包丁仕事は勘弁してもらっている。
「みなみ。包丁だけは持つな。なんなら、ハサミもやめとけ。」
「わ、分かった。でもさ、鼻毛切るとき…」
「切るな。抜け。」
「ええーーー」
試しにやってみたら、フツーに鼻血出て痛かった。
後の家事は弟達に任せ(!?)、昼飯食った後はチャリで大多慶CCへ。練習グリーンでのパッティングは相変わらず調子が悪い。ドライバー、アイアンはむしろ絶好調なんだけどなあ。
夕飯食いながらじーちゃんに話すと、
「明日。パター持って帰ってこい」
「え、何? 教えてくれんの?」
そして翌日。背中にパターを括り付けて帰宅する。
「じーちゃん、持って帰ったよ。ちょっと見てくんない?」
我が家の庭にはちょっとしたグリーンがあるのだ。その一角は冬でも緑がキレイで、子供の頃からその上で弟達と相撲をとってよくじーちゃんに怒鳴られたもんだ。
3球転がすと、じーちゃんが
「そのパター、見せてみろ」
と言うのでホイっと差し出す。
じーちゃんは目を細め、険しい表情で
「お前。このシャフト自分で直したのか?」
まさか。アタシ、シャフト交換なんて出来ねーし。やり方も知んねーし。
「誰が、付け替えた?」
延岡まゆによって事故死したパターのシャフトは、グリーンキーパーのテツさんがF Wのシャフトと一緒に交換してくれたのだ。
「雄大を、呼べ」
ハア? 何それ?
「あいつにそれを預けろ。テルの工房に持って行かせろ」
テルって、こないだゆーだいさんがクラブ買ってくれた、千葉市のあのショップ?
「パターのシャフトは素人では直せん。見てみろ」
アタシはじーちゃんの背中にまわる。
「シャフトが微妙に曲がっておる。それに接着も中途半端だ。そして何より、」
シャフトの真ん中を指で吊ってみせる。
「バランスが狂っとる。ヘッドの重さと釣りあっちょらん。もっと軽いシャフトを入れなきゃいかん。これでは微妙なタッチが出ない。違うかみなみ?」
まあ驚いた。その通りっす…
「素人にしてはまあまあじゃが。ちゃんとした職人が直せば元通りになるだろ。だから雄大に連絡しろ。ほれ、早く!」
「何だって? シャフトに問題があったって?」
「そーなんだわ。じーちゃんの言う通り、なんか違うわ、このシャフト。」
「分かった、すぐにテルさんに連絡しよう。そうだ、一日も早い方がいいから、明日コンビニから直接テルさんに送るといい。そうすれば明後日には出来上がるだろう」
「マジ? それチョー助かる…」
「微調整があるから、どっちにしろ一緒にいかないとだけど。明後日、予定は?」
相変わらず、やる事早いよ。さすがだなあ。
「大丈夫。午後、空いてるよ。でも、ゆーだいさん、会社…」
「いい。源さんの診察って言えば、社長業務範囲内だから。じゃあ明後日、一時に実家でいいか?」
「うん。助かる。ありがと。」
やった! 明後日、会える!
* * * * * *
「と言うわけで、イノウエのシャフトに付け替えましたから。ちょっと転がしてください」
みなみちゃんが嬉しそうにパターを受け取り、人工芝の上で早速ボールを転がし始める。
「どうですか、フィーリングは?」
…みなみちゃんは返事をせず、全集中で転がしている。10球ほど転がして、深く頷きながら、
「コレです。この感覚。斜面で転がしてみないと、だけど。コレで合ってると思う」
テルさんんがホッとしたような顔で顔を綻ばす。
「いやあ、責任重大だよね、もうすぐプロテストなんだからね。少しでも変だと思ったら、すぐに連絡してね」
「あっざーした!」
「それと、ドライバーやアイアンの調子はどお?」
「もはやアタシの体の一部っす。サイコーっす」
あははは、と最高の笑顔で笑う。
「よおし、みなみちゃんがツアープロになったら、毎月コースに出張フィッティングしに行くよ。」
「えマジ? チョーサイコー!」
「良太ちゃん以来だなあ、そーだ、車買い替えよっかな〜♪」
ちょっと嬉しそうでもある。
「そう言えば、源さんどうしてる? 膝相当悪くしてもうゴルフ出来ないって聞いたんだけど」
「それがさ。先週東京で膝の手術受けてさ、来月にはまたゴルフ出来るよーになるんだってさ」
「ええ、ホント? じゃあ、復帰祝いにドライバーでも買っていただこうかな〜♪」
「買わねーし。ビンボーだし。あ! そーだ。良太さんがさ、アタシの425スッゲー欲しがってたよ。来月さあ、大 多慶来なよ、じーちゃんの復帰戦やるから! そん時売りつけちゃえ」
「マジマジ? 行く行く! 俺も一緒に回りたいかも!」
こうしてみなみちゃんのパターは復元に成功した。
一刻も早くグリーンで転がしたい、と言うので即座に大多慶に引き返す。クラブハウスに着くや否やパターを握りしめて車を飛び降り駆けていく後ろ姿に笑みが止まない。
俺もメンバー特権で練習グリーンのみなみちゃんを見に向かおうと思い、車を停めてクラブハウスに入る。夕方4時、一般客は誰もいない。と思いきや、
「おお、雄大くん。あの子のお守りかい、ご苦労さま(笑)」
古参のメンバーである、佐藤さん。高橋さん。鈴木さん。
「お疲れ様です、御三方で回ってらしたのですか?」
「そうなんだ、始めたのが遅かったから。たったさっき上がったんですよ」
そう言えば、俺はリューさんと社長以外のメンバーさんと回ったことないわ。
「ところで、源さんが膝の手術受けたって、ホント?」
「ええ。先週東京のクリニックで手術して、無事成功しましたよ」
「「「おおお!」」」
三人とも嬉しそうだ。何だか俺も嬉しくなってしまう。
「来月の末にはゴルフも出来るみたいですよ」
「「「うおおおおお!」」」
…ちょっと引くわ… 何ですか、そのリアクション?
「遂に、魔術師の帰還ですな」
「またアレが観れるんだ、長生きして良かったわい」
「ああ、また色々教わりたいなあ」
そ、そんなに?
「そうか、雄大くんは知らないか、源さんの生プレー」
去年メンバーになったばかりだし。去年ゴルフ始めたばかりだし。
「一度見たら病み付きになるよ。ふっふっふ」
何それ。凄く観てみたくなるんですが。益々来月の復帰ラウンドが楽しみだなあ。
「「「何だって? 復帰ラウンド?」」」
「え、ええ。僕とみなみちゃん、良太さんと四人で…」
「「「ちょっと待てい!」」」
そ、そんな何度もハモらなくても…
「「「いやいやいや」」」
ですから…
「ねえ高橋さん、復帰コンペ、だよね?」
「それさジュンちゃん。よおし、みんなに声かけてみっか、あ、おーい、支配人! 照夫ちゃーん、ちょっと来てよ、あのさあ〜」
結局、総勢80名の大コンペとなったのだった…
「……何ですか、それ…」
高千穂院長が絶句する。目が虚になる。口は半開き… の筈だ、マスクで見えんけど。
「あの、何日ですか? おーい、カナちゃーん、ちょっとさあ、来月の僕のスケジュール見てくれない? え? 28日の日曜? カナちゃーん、28日は? え? マリナーズのキャンプ帯同? それ北村くんに代わってもらってよ。ええ? 夜に監督と会食? ダメだよコロナなんだから会食は… え? いやー、だからあー、その日ね、この源さんの、大事な復帰戦なんだよ、だから主治医として…うん、そうだ。カナちゃん。僕、主治医としてラウンドに付き添わなきゃダメだよ。でしょ? え、ぼ、僕は…ちょっとしちゃおうかなと… お願い! カナちゃん、この通り! お願いっ お土産に源さんの日本酒買ってくるからさあ。分かった、一升ね、よしよし。ゴホン。ところで、宮崎さん、そのコンペ、まだ空きが有りますか?」
俺は大笑いしながら、
「増やします。先生の為なら」
「嬉しいなあ、有難うございます。いやあ、楽しみだなあ、え? ああ、そうだったカナちゃん、絶対家内には内緒だよ、うんそう。そうだよ、もしバレたら僕…」
…やはり結婚すると、ゴルフ自由に出来ないんですかねえ…
「それはね宮崎さん」
先生の目がキラリと光り始める。
「世界共通の夫の悩みなんだよ。ちょっとした、いや重症化すると厄介な病気なんだ。通称、『ゴル夫病』と言われてるんだけどね」
何それ! 全然知らんかった…
「最悪、死に至る恐ろしい病気なんですよ」
嘘だ… そんな病気、どんなゴルフ雑誌やネット記事にも書いてなかったぞ… 因みに、どんな症状なんでしょうか?
「発症から死亡まで大体こんな感じです… 結婚後に夫がゴルフを始める、子宝に恵まれる、夫は益々ゴルフに没頭していく、妻は育児に忙殺される、更に夫はゴルフに入信していく、妻子はゴルフを憎み始める、緊急家庭会議の末、夫のゴルフは月一制限となる、夫の禁断症状が始まり半年後には重症化する、やがて家庭裁判所に入退院を繰り返すようになる、最悪なのが末期症状です。ある日ゴルフバッグと共に夫は失踪し北か南の島嶼部で身元を明かさずに生息していく… 7年後妻子は家庭裁判所で死亡認定を受理される… どうです、恐ろしい病でしょ?」
俺と源さんは脇の下に冷たい汗を感じる。って、源さんアンタは花の独身でしょうが… ゴルフに嵌った故、生きているのに死んでしまうとは… 正に死に至る奇病。なんと恐ろしい病…
「で、そのお病気に、ワクチンとか特効薬はないんですか?」
日本の名医の眉間に皺が寄る。
「ありませんね。対処療法しか認知されていません」
俺はゴクリと唾を飲み込んで、
「先生、是非ご教授ください。俺、秋に結婚するんです!」
先生の銀縁メガネがキラリと光る。フレームを意識高目に左手人差し指で上に上げながら、
「対処法は三段階です。まず第一処方。入籍前に書面で確約書を作成してください、毎週末のゴルフの権利を明確に記したものです。出来れば週末一回、平日一回の月8回分を確保できれば成功です。」
俺はスマホを取り出しメモ帳に書き写す。
「子供が出来て育児が忙しくなった頃に第二処方です。確約書の改訂作業、です。月に8回と言う部分の訂正を原告に告げるのです。半分の月に4回にする、と。空いた時間は子供の世話を全力でしてください。ここで一つ重要なポイントがあります。仕事が出来る有能な方の多くがー育児とゴルフをリンクさせます。」
「それは…具体的に?」
「簡単です。三歳になったら、練習場に子供を連れていくのです。30分もすれば子供は確実にやりたがります、そこでー」
先生が不敵に笑う。
「子供を巻き込むのです。子供に感染させるのです、親子感染させるのです」
おおおお! ゴルフ病に子供を! 成る程名案だ! これならその後…
「但し。副作用があります。ゴルフ費用が倍、第二子も感染すれば3倍、となり資金不足を誘発してしまう可能性が高いです、いや確実です。」
「それなら、前もってプールしておけば…」
「それが唯一の処置と言えましょう。是非、今日から第二口座あたりに資金を貯め始めてください」
俺はメモリながら深く頷く。
「そして。発症して20年以上経った患者さんへの第三処方です。それは〜わかりますか宮崎さん?」
「…原告に、感染させる?」
「That’s Right ! その通り。流石小林さんの愛弟子。あなたは実に優秀な方です」
そうか… 陽菜は今でもゴルフをやるが、イマイチ嵌ってない。あくまで嗜みとしてクラブを振っているのだ。それならば数十年後の将来…
陽菜との未来予想図3を描いていると、不意にみなみちゃんの笑顔が目に浮かんでくる。
きっと俺は、ゴル夫病が突然変異し、新型ゴル夫病に南(難)病化するのだろう…
* * * * * *
じーちゃんとのラウンド。何年ぶりだろ。また一緒に回れる日が来るとは先月まで考えもしなかった。
その日は久しぶりの快晴だ。弱い風が吹いていて、花粉症の人には辛い一日となるだろう。幸いアタシは花粉症でないので、全く問題のない最高の1日になりそーである。
大多慶CCのクラブハウスに続々と人が押しかけてくる。皆、じーちゃんの復活を祝うために来てくれてるよーだ。
何故か幹事をやってるゆーだいさんは早朝からてんてこまいの忙しさ。でもそつなくこなしてる様子である。
「まあ、アイツに任せとけばラクショーっしょ〜」
チャラ男が目を細めながら言う。
「我が社の期待のホープですから。」
紳士じーさんが嬉しそうに言う。
「それに。秋には息子になりますし」
秋、なんだ。ゆーだいさんがチャラ子と結婚すんの…
知らんかった…
アタシはそっと人混みを離れ、クラブハウスの外に出る。雲一つない青空を見上げ、大きく深呼吸する。いつもの緑色の大多慶の匂いで胸が一杯になり、涙がひとしずくこぼれ落ちる。
ゴシゴシとその涙をウエアの裾でふき、うその笑顔を窓に映してみる。うん。上手く笑えてる。これなら大丈夫。鼻水をズズッと吸う。そうだ今日一日は、花粉症のフリをすればいい。自分にそう言い聞かせて、クラブハウスに戻る。
最終組はじーちゃん、アタシ、良太さん、そしてゆーだいさん。支配人以下のクラブの従業員が総出でアタシらのティーショットを眺めている。
中には今日はゴルフをせずに、ずっとじーちゃんについて回ると宣言してるメンバーの人たちも何人かいるし。
どんだけじーちゃん、ここで愛されてるんだろう。
「そりゃあ、ここの生きた伝説の人だから。この俺も研修生でここに来て、源さんに一杯色々教わったくらいだからなあ」
「そうなんですか! 市木さんのお師匠さんなんですね」
「うん、そう。宮崎さんも今日から弟子入りしたら? ねえ源さん、色々教えてあげなよ」
じーちゃんはゆーだいさんをジロリと見て、
「コイツの師匠は、アイツだ」
とアタシを指さす。ちょっと照れる。
「ハハ、その通りですよ市木さん。俺の師匠はみなみちゃん。な?」
コクコク首を振る。
前の組が空いたので、良太さんがオナーでラウンド開始だ!
良太さんは買ったばかりの425L S Tでフェアウェーど真ん中、300ヤード!
「コレにして良かったわー 今年、何戦か出てみようかなあ」
「うん、そうしなよ! アタシ担いであげるから!」
嬉しそうに良太さんがアタシを眺める。
ゆーだいさんは相変わらずの豪快なショットだが、いつもの様に左の林の中に。
「ハア、コレじゃクラチャンなんて、無理だわ…」
「まだまだ。始めたばっかじゃん、気にしない。今は気持ちよく振り抜く。それでいい」
なんて偉そーに言ってみると、ゆーだいさんの顔がパッとほころぶ。
アタシのティーショットは良太さんのすぐ後ろ、285ヤード地点。
じーちゃんは口をパカっと開けて、
「オメエ… いつの間に…」
と驚いた顔でアタシを見る。ふふふ。いつまでも昔のみなみじゃねーんだよ、じーちゃん。
そんなじーちゃんは気持ち良さげに二、三度素振りをして、昔と同じように何の力みも無くティーショットを打つ。球は右の林に向かうも、林の上空で急激に左に曲がり、フェアウェー左に転がり転がり、220ヤード地点でようやく止まる。
見ていた人たちの拍手の嵐を背に、アタシ達はゆっくりと二打目地点に歩き始める。
「しかしお前は力任せのゴルフがすっかり無くなったな。」
じーちゃんがボソッとアタシに呟く。
「でしょ。力入れなくても飛ぶんだよ、このクラブ」
5番パー4の二打目待ちで、先に打ったじーちゃんがアタシの横で軽くうなずく。
「まあ、クラブも良いんだろうが。スイングも力みが抜けて、音も良くなった。フィニッシュも見違えるように良くなった」
ど、どーしたじーちゃん… ゴルフでこんなに褒められたことねーぞ… ま、まさかじーちゃん、もうすぐ死んじゃうんじゃ…
「アホか! これから死ぬまでゴルフすんだからよう。すぐに死んでたまるかってえの」
「みなみちゃん、なんてこと言う…」
ゆーだいさんがやや青ざめながらマジ顔で言うから、
「冗談だって、冗談。アタシが全米オープン取るとこ見といてもらわんと。」
これはかなりマジで言い放ったのだが、良太さんとじーちゃんが凍りつく。あんぐりと口を開いて、
「お、お前… なんの冗談だ?」
アタシは胸を張り、
「ジョーダンじゃねえや。マジで、取るから。なんなら、全英も取るし。そうだ、全豪も取って、あと…」
良太さんも呆れ顔で、
「ま、まずその前に…な、みなみちゃん…」
「わかってらい。来月の予選会だろ? 任せとけって!」
二人は呆れ顔で首を振る。でもその横でゆーだいさんは力強く頷いてくれる。
「ま。見てなって、お二人さん」
アタシは空いたグリーンに二打目を放つ。
ボールはドロー回転でグリーン手前で落ち、グリーンを転がる。転がる。転がり、カップの手前2メートルで止まる。
「ま、見てなって。お二人さん」
二人はカクカク首を縦に振ったもんだ。
「ケッコン、秋なんだってね?」
12番パー4のティーショット待ちの時に、ゆーだいさんにそっとささやく。ゆーだいさんはビクッと体を震わせ、アタシを真っ直ぐに見ながら
「うん。」
とだけ呟く。
「そっか。その頃にはアタシは… プロになってっかなあ」
「絶対なってるよ。てか。絶対、なれ!」
そう強く言いながらゆーだいさんのティーショットの順番になる。
アタシは賭けをする。
もし。このゆーだいさんのティーショットがフェアウェーに乗るなら、アタシはプロになっているー
もし。フェアウェーキープ出来ないなら、アタシはプロテストに落ち今のままの研修生。
更に…アタシは禁断の賭けに出るー
もし。フェアウェーなら、二人は無事に結婚する。
もし。林やラフなら、二人は破局でゆーだいさんはフリーになる。
アタシにとって究極の賭け。ゴルフを得るか、男を得るか。アタシの今年一年の生き様を、このゆーだいさんのショットに賭けてやる!
ゆーだいさんがゆったりとしたアドレスに入る。アタシはかつてないキンチョー感に手汗が出始める。
アタシはゴルフに生きる。
アタシは男に生きる。
さあ、どっちなの?
何も知らないゆーだいさんは気持ち良さげにテークバックの捻転動作に入る。そして勢いよく振り下ろされた410はアタシの行く先をどちらに示すのだろう、カシャーンという410特有の打球音を響かせ、ボールは真っ直ぐに飛んで行く。
飛んで行く。真っ直ぐに。
このままならフェアウェーど真ん中
だが、ボールは(いつものように)急激に行き先を変え、左の林に突っ込んで行く。
アタシは握っていた425を思わず落っことしてしまう
そうか、それがアタシの人生なの?
この人と生きて行くのが、アタシの…
プロゴルファーでなく、この人の…
ボールがもう迷うことなく林に入って行くのを眺めながら、これ迄の自分のゴルフ人生が走馬党(燈)のように頭をよぎる。
初めてじーちゃんにゴルフを教わった日。初めて良太さんとパター合戦をした日。初めて三人でラウンドした日。初めてジュニアの大会に出て優勝した日。大多慶商業に入部した日。大会の代表に選ばれたのにダメ出しされた日。高校を出て大多慶CCに研修生として初めて出社した日。良太さんとレッスンラウンドを重ねた日々。そして…
ゆーだいさんと出会った日。
ゆーだいさんと回った日。
ゆーだいさんの車の助手席に座った日。
ゆーだいさんとキレイな夜景を見た日。
ボールは林に入る。
ゆーだいさんの腕を握った日。
ゆーだいさんにしがみついた日。
ゆーだいさんと、手を握り合った日…
カーン
甲高い音が耳に届き、同時にボールがフェアウェーに戻り転がる。そしてボールはフェアウェーど真ん中で止まる。
クッシー、コレって…
* * * * * *
「おお、ラッキーだね雄大くん。ど真ん中じゃん」
市木さんが笑いながら俺の肩を叩く。
「力が入りすぎだって、みなみにも言われてるだろうが。」
源さんが呆れ顔で呟く。
ハアー。冬になってから、ドライバーは全部これ。全然まっすぐ飛ばない。どうしても左に引っ掛けてしまう。わかっていても、どうしても力が入ってしまう。
困り顔でみなみちゃんを見ると、何故か呆然とした顔で俺のボールを凝視している。
「みなみ先生―、全然キープ出来ないんですけど…」
無視される。俺の話が耳に入らない様子だ。
俺はみなみちゃんの顔を覗き込みながら、
「ねえ、どうすれば引っ掛け直るかなあ」
「うわっ ビビったー! な、何?」
「いや… だから、どうすれば引っ掛けずに打てるかと…」
みなみちゃんはプイッとソッポを向いて、
「知るか! てか、どっちなんだかハッキリしろい!」
「はあ?」
「あーーーーーーーーーー もーいー。」
何故か逆ギレされてしまう。
源さんのゴルフ。これまで見てきたプロゴルファーとは全く異なる。スイングの音も飛距離も小林社長と同じ程度である。
だが。
この人の打つ球は、命を持っている! かと錯覚する程、源さんは自在にボールを操る!
まるでシャフトと腕が同一化したかのようなクラブ捌きにまず驚嘆する。そして放たれたボールが源さんの思いのままに曲がり止まるのに更に驚愕する。
『大多慶の魔術師』
との二つ名があるそうだが、全くもってその通りのプレーぶりである。
「ね、雄大君。ゴルフは飛距離じゃないでしょ?」
市木さんがニヤリと笑いながら俺に言うのを深く何度も頷き返す。
「凄いです。市木さん達とは別の意味で、本当に凄いです。何であんなに軽く振ってるのにバックスピンがあれ程…」
「僕の小技は全部源さん仕込みなんだ。あの人の技は僕とみなみちゃんの技。日本のトップを取れる技。さーて、みなみちゃんさっきは世界を取るなんて言ってくれてたけど」
市木さんは大きく伸びをしながらグリーンを眩しそうに眺める。雲一つない快晴の元のポカポカ陽気に、グリーンが薄らと陽炎を思わせるように揺れて見える。それは遥か遠くにも見え、思ったより近くにも見える。
「どう思う? 雄大くんは、みなみちゃんは世界を取れると、思う?」
俺はグリーン上の前のグループの歓声を聞きながら、ボソッと応える。
「取れる。と、信じてます。」
市木さんは軽く頷き、俺ももうちょっと頑張るか、と独り言を言いながら自分の二打目の地点に歩いて行く。
今日は朝から大忙しだった。コンペの幹事なんて初めてだったので、二週間前から雑誌、ネットで調べに調べ、大多慶の日南支配人と何度もやり取りをし、小林社長に色々教わり、ようやく今日に漕ぎつけた。
従って最終組でスタートする頃には心身ともにヘトヘトだったが、源さんのゴルフが見られること、そして何より。みなみちゃんと回れることで俺は元気を巻き戻し、今のところ2ホールを残して89と中々のスコアで来れている。
この辺りから、既にホールアウトした参加者が見学に戻ってきており、ちょっとしたツアーの雰囲気に俺は知らずスイングに力が入ってしまう。
17番パー4。市木さんのショットにギャラリーは
「おおお!」
源さんのショットに
「わああ!」
みなみちゃんのショットに
「おおおおお!」
そして。俺のショット。
「ワハハハハ」
打球は左の林に入り、杉の木に当たり、更にカート道でバウンドして結局左ラフの280ヤード地点に収まる。
「幹事、馬鹿力だなあ、杉の木壊すなよー」
「まだ新人メンバーだからな。カート道の正しい使い方、源さん教えてあげなよ(笑)」
「さすが甲子園球児、斬新な攻め方をするなあ(笑)」
…先に上がったリューさんなんて腹抱えて大笑いしていやがるし。
最終ホールには俺たち四人以外の全参加者がギャラリーとして見守っている。誰もが一目源さんの元気な復帰姿を見たい、そんな思いがひしひしと伝わってくる。
いいなあ。このクラブ。皆、暖かく優しく。
この人たちに見守られ、みなみちゃんはここまで育ったんだ。そしてこの人たちの後押しを受け、ここから旅立つんだ。
ギャラリー一人一人の顔を眺めると、誰もが市木さんへの畏敬、源さんへの敬愛、そしてみなみちゃんへの慈愛の表情だ。
何人かのメンバーと目が合う。彼らは皆、愛憐?仁慈?の眼差しで俺を労ってくれる。俺は軽く彼らに口角を上げ、このクラブのレジェンド二人とホープの後を歩き始める。
グリーンに近づくにつれ、ギャラリーにはクラブのスタッフも加わり、本当にちょっとしたトーナメントの最終ホールの様相を呈している。
最終18番パー5。市木さんとみなみちゃんは流石の2オン。俺は相変わらず左の林に飛んだ1打目、リカバリーの2打目、3打目はグリーンに届かず、なんとか4オン。
源さんはまるで測ったような3オンでピン側2メートル。大歓声が18番グリーンに木霊する。市木さん、みなみちゃんが難なく2パットで沈め、バーディーフィニッシュ。
俺はこれ程大勢に見守られてゴルフをするのが初めてで、パターを握る手の震えが止まらず、まさかの4パット。4オン4パット、トリプルボギーでフィニッシュ。
神宮、甲子園で大歓声には慣れている筈なのだが…
「ナイス、トリ!(笑)」
「いいぞお、よく頑張った!」
何故か盛大な拍手を受けてしまい、顔がニヤケてしまう。
そして。2メートルの源さんのバーディーパット。グリーン上、いやゴルフ場全体が静寂に包まれる。誰かの唾を飲み込む音さえ聞こえそうな雰囲気だ。
その静寂を楽しむかのように源さんは穏やかな笑みのまま、ゆっくりとアドレスに入る。源さん愛用のパターは俺が見たことのないタイプのもので、いかにも古そうなモノ。聞いてみると、ウィルソンの8813というモデルだそうだ。俺なんかは絶対に扱えない代物だが、源さんの手にかかるとボールは命を吹き込まれ、打ち手の思うがままに球は転がり、転がり…
「「「「「うおーーーーーーーーー」」」」」
未だかつて聞いたことのない大歓声が18番グリーン上に響き渡る。
源さんは満面の笑みでボールをカップから拾い上げ、それを涙ぐみながら観戦していた日南支配人にポイっと放った。
源さんと風呂に浸かりながら、俺は今日一日の心労をゆっくりと解きほぐしている。体の疲れは全くなく、寧ろあと1ラウンド回ろうと思えば風呂から全裸で飛び出しても構わない程だ。だが、これ程の規模のコンペの幹事は、さすがに疲れた。
「おう雄大。今日はホントに、ありがとな」
それを察するかのように、源さんが顔を湯で洗いながらボソッと呟いてくれる。
「みなみとよ、またこうして、回れる日が、くるとは思わな、かった」
内に籠った悦びを噛み締めるように、一言一言ゆっくりと源さんは続ける。
「あいつは、プロでも、やっていける。間違え、ねえ」
「ですか、ねえ」
俺もつられてゆっくりと問いかける。
「あいつに、負けたの、初めて、だぜ」
市木さんが体を洗い終え、源さんの横にそっと入ってくる。
「ハハハ、僕はちょいちょい負けてますよ」
源さんは顔を綻ばせ、そして大きな掌いっぱいに湯を掬い、気持ちよさそうに顔にかけた。それを何度か繰り返す様は、愛する孫娘への様々な思いを洗い流す儀式の如く思えた。
「それにしてもさ、雄大くん、もう少し上手にならないと。今日スコアいくつだっけ?」
「えっと… 102でした…」
「そうかそうか。ようし、みなみがプロになって忙しくなったらさ、俺が教えてあげるよ。レッスン代はすこーしまけてあげるからさ(笑)」
「ふん、やめとけ。俺が、ただで、教えてやるさ」
「ちょ、源さん、人の営業邪魔しないの! ドライバー新調して百合にブツブツ言われてんだからさあ」
「オメエより、雄大の方が、飛ぶじゃねえか」
「んぐう… それ、痛いわー」
10球に1球、だけですが… 痛いわー
* * * * * *
三月に入り、すっかり暖かくなる。コロナ禍もだいぶ落ち着き、世間のギスギス感も閉塞感も大分緩和されてきているように思えるんだけど。
予定通り、アタシのプロテスト予選会は三月十日から三日間の日程で行われる。場所は群馬県の安中カントリークラブ、群馬でも名門ゴルフクラブとして知られている所らしい。もちろん一度も行ったことねえ。てか、アタシ、遠足や修学旅行以外で千葉から出たことねえ。
そこは富岡製鉄所という有名な工場のある(…?)富岡市と隣接していて、千葉からだと電車で四時間以上かかるみたい。
車ならばアクアライン経由で東京を横断し、関越自動車道と上信越自動車道を使えば三時間ちょっとで行けるみたい。
支配人が車で連れてってくれるはずだったんだけど、同じ時期に大多慶CCで中高生のジュニアの大会が開かれる日程と重なっちゃって、仕方なく電車で行くことになる。
健人、翔太、みうはその翌週、福島のゴルフ場で行われる予選会に出場すんので、アタシはボッチで行かなきゃならん。
宿は支配人が知り合いに頼んで手配してくれた。ラッキー。でも一人で四時間以上電車… マジ憂鬱(!)になる。
じーちゃんと母ちゃんは仕事があるからムリ。ゴルフ場のスタッフもバリバリ仕事あるからムリ。ああ、三月半ばの平日、ヒマぶっこいてるヤツいねえかな…
『よかったら、俺が送って行こうか?』
神! あなたは神ですか、ゆーだいさん!
『マジマジマジマジマジマジマジマジ??????』
電話がかかってくる。やった。声聞ける!
「何曜日の何時に現地入りしたいの?」
「えっとお、火曜日が前日の練習ラウンドなんでえ、月曜の夜〜」
延岡スキルをフル活用だ。
「成る程。八日、月曜の夜、ね。わかった。大多慶に5時でいいかな?」
「やった! ラッキー! マジ助かります〜」
「お安い御用だよ、途中のS Aかどっかで夕食とれば、9時には現地着けるね」
「もー、お任せっす! 何なら夜アタシの部屋に泊まってってくださーい」
しーーーーーーーーーん
あ。やっちまった…
「ハハハ… 次の日仕事早いから… 遠慮しとくよ」
ハア… やっちまった……
それでも。三時間以上のドライブ! それも行ったことのないトコへの二人きりのドライブ! メチャテンション上がるアタシは、練習にも気合が入る。
こないだのじーちゃん復帰お祝いコンペのグロス優勝はちょっと嬉しかった。だって良太さんにも、そしてあのじーちゃんにも初めて勝ったし。あん時のじーちゃんの満面の笑顔は生まれて初めて見た気がする。
あれ以来、ショットの全てが好調だ。早く予選会が来て欲しい。
だが。アタシの次の週に予選会に出る研修仲間の三人の表情が暗い。暗すぎる。
三人ははそろって、
「「「調子出ないー」」」
と泣き言言ってやがる。実際、ショットはバラバラ。パットもグニャグニャ。それより何より、戦いの前だというのに、すでに弱気の虫に取りつかれ、
(ダメならしょーがねーか)
位の気持ちでクラブ振ってる感じだ。
特に今年が3回目の受験になる健人は、もし今回ダメだったら実家の小料理屋を手伝う約束を親としてるんで、二言目には、
「あーー、もうダメだあ。仕方ねーから包丁握っかなあ」
なんてこぼしやがる。
今日三人と一緒にラウンドしたんだけど、健人は自信のなさと諦めがショットにありありと出ているわ。こればかりはアタシのアドバイスなんて何の足しにもならん。
なので逆に心を鬼にして、
「こんなんじゃ、あと二週間だな。一緒に回れるの。」
アタシより背の低い健人は更に体を小さくしてしまう。
「ま。小料理屋、いーんじゃね? アタシがプロになったら、食いに行ってやるよ」
翔太とみうが目をむく。
「おい! 何言ってんだよ、みなみ!」
「ちょ、ひどくね?」
アタシは二人に向かい、
「オマエら! 人の心配してる場合かよ? このままで二次予選、行けんのかよ?」
二人はアタシをにらみつけて、でも下を向いてしまう。
「わりーけど。アタシは一人で先進むぜ。こんなとこでトモダチごっこしてるヒマ、ねーし。とっとと合格して、ツアー出まくって、金稼ぎまくるぜ。アタシ、一人で!」
三人はキッと目を光らせアタシをにらむ。
うん。それでいい。その目をしてる限り、アンタらは一次は突破できる!
「調子出ねえ、じゃねーよ。調子はテメーで出すもんなんだよ。あと二週間あんだろ? 気合いで調子、出せやコラ!」
健人はブルブル震えてる。
「包丁握んのは、全てをぶつけてからだろーが。何テメー中途半端に逃げよーとしてんだよ。男なら全力でぶつかって、バラバラになってから次のこと考えろや。今は予選会に、命かけろ!」
「ちく…しょう」
普段穏やかな健人が怒りに震えてる。うん。コレでいい。こいつに足りねえのは、パワーだ。怒りや喜びからくるパワーが足りねえ。
あ。ちなみに健人は今年二十二。アタシの三こ上な。
「見てろよ…みなみい… テメーになんかに、誰がメシ作ってやっかよ!」
うん。コレでいい。と思う。のはずだ…
「今年は…三人とも、鬼気迫る感じで、いいじゃない いひ」
クッシーが怪しいニヤけ顔でボソッとつぶやく。
「ったく。アイツら、やる前からやる気無くしてやがって。先週、ちっと〆てやったんだわ」
大笑いしながら、
「一番年下のあんたに言われちゃあねえ。そりゃあ火がつくわね。みなみ、ナイース いひ」
そうなのだ。翔太は二こ上、みうは一っこ上なのだ。
「でも、健ちゃんは来週ダメだったら、実家帰るのよねえ…」
「大丈夫じゃね。一次予選くらいは。そんくらいの実力はあるさ。」
「そうね。健ちゃんは、大丈夫。うん。いひ。」
「ああ。三人とも、一次はなんとかなんだろ。うん。」
「そうね。それより…ううん、なんでもない…」
クッシーはアタシを憐れみの顔で… おい… よせ…
「うわ… また変な占いか? やめろよ?」
「んーーー じゃ。言わない いひ」
「言えやコラ! 寝れんくなる!」
「じゃあ。あっちの方角と」
と言って、南を指差し、
「こっち。気をつけなさいよ いひ」
東を指差しながら、いつものようにニヤニヤするのだった… キモ。
ちょいと気になったんで、スマホで安中カントリーのレイアウトを見てみる。うーん。わからん。別にハザードがある訳でもなし、強いて言えば南東はやや低地になってるかも。てことは雨になったら水が溜まりやすい? それとも榛名山の吹き下ろしの風下だから?
わからん。よって、気にしないことにする。
案の定、翌日には、んな事すっかり忘れ去り、ちょいと短めにカットしてくれた10番グリーンでアホほど転がし、いよいよ明日、安中カントリーへの出発となる。
あれ以来、アタシらは変にベタベタせず、適度な緊張感を持って互いに接し、中々の仲間コンディション(?)を保っている。
もう三人に諦めムードや弱気モードは見られず、来週の予選会に備えレイアウトの研究に余念がない感じだ。
アタシは一人受験なのでレイアウト研究もお一人様だ。てか。今まであんまコースのレイアウトとか真剣に事前勉強したことがない。それを言うと、三人が
「「「有り得ない!」」」
と言って、自習ノートを各々見せてくれ、ビビった。何コイツら、メッチャ勉強してんじゃん!
「おおお、おまいら… すげーよ。これなら来週、三人ともイケるんじゃね?」
「「「オマエのノート、見せろ」」」
…ねえし。たまにスマホでコース眺めてるし。それでじゅうb…
「「「バカか、きさま!」」」
メッチャ叱られ、一から安中のコースの予習を始めるのであった… ウザ。
どーせ明後日練習ラウンドあるんだし。そこで地味に覚えりゃいいじゃん。
「「「全然、ダメ!」」」
それからアタシは三人に地獄の授業を受けさせられたー
三月の安中市の風向風速。明後日からの週間天気。ハザードの種類と位置。O Bの位置。各グリーンの傾斜。
ちょっとおもろかったのは、プレーした人の口コミのチェック。アベレージゴルファーと一緒にすな! と思っていたのだが、
「ほら、見てみ。みーんな7番の池が難しかった、って書いてる。あと15番のパー5も。練習ラウンドでは、要チェックだぜ!」
な、なるほど… ちょっと食い付く。
「おおお、山菜天ぷらそば、メチャ美味いって! あと安中ビーフ丼も! これも要チェックだわ!」
お約束で、三人から頭を叩かれ〜
ああ、早く行きたい。早く打ちたい、早く回りたい。
そんで。早く、一緒にドライブ、したい…
* * * * * *
仕事を三時に終え、一旦帰宅する。
リモート授業を終えたみなみが、
「あれー、早いじゃん。これから練習?」
「いや。みなみちゃんを試合会場に送っていく」
「…それ、陽菜知ってるの? 今夜も来るよ」
「別に。話してねえわ」
「ちゃんと、言わないと、自分の口から。疾しい事ないなら」
「お、おお。」
口を濁し、俺は気まずい思いをグッと胸にしまい、玄関の扉を押し開ける。
「何時に、戻るの?」
「今日中、には…」
玄関扉を閉める。扉と心に施錠する。
エンジンを回し車を走らせ、中央自動車道の調布I Cに入る頃に、漸く心は千葉に向く。
都心を抜ける辺りでちょっと渋滞したが、俺の想定通りに五時半に大多慶に到着する。クラブハウスのエントランスには、研修生仲間と支配人が出ていた。
「宮崎さん、どうぞよろしくお願いします。」
日南支配人が深く頭を下げる。
仲間達がみなみちゃんの荷物を俺の車に積み込む。四泊五日だが量的にはそれほどでも無い。まさか、得意の着回しをするのでは…
「だ、大丈夫だって。試合用のウエアは二着もあるから、さ」
…やはり着回し…
ま、一次予選だし、マスコミや関係者もそれ程集まらないだろう。二次予選以降のことは後日考えるか。
「「「「頑張れよー」」」」
少なくも熱いエールを背に、群馬に向けアクセルを踏み込んだ。
恐らく彼女にとって初めての大きな大会。流石に緊張しているかと思いきや…
まあ、喋る、喋る。昔風に言うなら、口から生まれてきたかの如く、喋り倒している。それもゴルフの話は全然せず、どうやら群馬への送迎を真剣に楽しんでいる様子に思わず苦笑いしてしまう。
「ねーねー、アタシ初めてだよ、関越自動車道って! これ、どこまで続いてんの?」
「…確か、新潟」
「新潟? って、まさか日本海の方?」
「そうだね。新潟県の長岡じゃなかったかな」
「へーーー、ゆーだいさん行ったことある?」
「うん、野球の試合しにあっちの方は何回かね」
「へーーー、やっぱコメ美味い?」
「あんま覚えてないわ」
「ふーーん。いつか行ってみたいなあ」
「プロになったら行けるんじゃない。」
「そーだね。おっと、その前に免許、免許〜 ねーねー、左ハンドルって運転難しい?」
気が付くともう関越道の花園I Cを過ぎている。ナビを見るとあと小一時間で到着のようだ。時計は八時近くを指しており、
「お腹空いてない? 何か食べようか」
「あい」
「何が食べたい?」
「あい」
「じゃあさ、次のサービスエリアで何か食べようか?」
「あい」
…目をハートにして返事しないでくれ…可愛いじゃねえかよ…
『それじゃかなり遅くなるんだ(絵文字)待っててもいい?(絵文字)(スタンプ)』
S Aの夜空を見上げる。照明が明る過ぎて、夜空がイマイチ良く見えない。今夜は月もなく星空の美しさをちょっと期待していたのだが。
『帰宅は十二時近くになるかと。』
すぐに既読が付き、悲しいスタンプが連打される。仕方ないので直電する。
「今、何処なの?」
「関越道の上里サービスエリア。これからホテルまで送って行ってから戻るから、帰宅は一時過ぎになるかも」
「そっか。」
「……」
「あの…さ?」
「ん?」
「運転、気をつけて…」
「お、おお」
「眠くなったらさ、ちゃんとP Aで休んで…」
ホント、変わった。陽菜は驚くほど、変わった。思っていることをそのまま言わなくなった。以前なら間違いなく、
「ダメダメダメ! 他の女子を送っていくなんて絶対ダメ〜!」
だったのが、今は自分の本心を押し殺し俺の心配をするようになった。俺にとっては何と言う好転。素晴らしい! のではあるが。
思っていることを言わなくなった、のは少し引っ掛かる。それが積もるとストレスになりいつか大爆発するだろうから。
だが今は陽菜に甘えることにする。
「ありがとう。気をつけて帰るから。お前もそろそろ帰宅して、風呂入って寝ろよ」
プッと吹き出す声がして、
「ゆーだいくん、オッさん臭(笑)」
声が少し震えている気がする。
「オッさんだし。」
おやすみ、を言って電話を切る。気を利かせている奴がここにも一人。みなみちゃんは30ヤードは離れた自販機で何かを選んでいるふりをしてくれている。
こんなんで良いのか? これからずっと、こんな歪な関係を保ったまま俺は、みなみちゃんは、そして陽菜はやっていけるのか?
自問自答をし、その答えが全く浮かび上がらぬことにやや苛立っているうちに、みなみちゃんの戦陣の宿に到着する。
「いやー、マジ助かりました! あっざーす」
「うん。とにかく、頑張れ! いや、リラックスして。いつも通りなら、絶対イケるから!」
「はーい。ほんじゃ、帰り、運転、気をつけて、ね…」
みなみちゃんはまたも気を遣い、俺を早く東京に返そうとしてくれている。俺は早く東京に帰りたい気持ちと、このまま一緒に居たい気持ちの振り子運動に悩まされつつも、
「連絡。くれな」
そう言って、みなみちゃんを後にする。
時計を見ると、九時半。
あと、三十分だけ… いや、十五分だけ…
そう思い、ブレーキを踏み振り返るも、みなみちゃんはもう居なかった。