今生の清算
去年の年の暮れ。
仕事納めを翌日に控えた夕暮れに、私は母に向かって土下座をしていた。
39年生きてきた人生で初めて、心の底からの渾身の土下座だった。
「飲みに行かせてください!!」
年末は忘年会が目白押しだった。けれど大本命の飲み会が前日に急に決まったのだ。
相手は、もう20年来になる友人たち。短大時代、家族よりも濃密な時間を彼女たちと過ごしてきた。
閉鎖的な全寮制の学校は、寝ても覚めても、授業も食事も風呂さえも、余すことなくすべての時間の中に彼女たちがいた。
それは私たちを不思議な鎖でガッシリと繋ぎ、その絆は今も解けることがない。
卒業してから20年間、隔月で集まっていたその会は、近年は毎月になり、私はその日を指折り数えて楽しみにしている。本当は2週に1度は会いたいのを、月に1度で我慢しているのだ。
あがいてみせようじゃないか、会うために。
私の魂からの土下座。
その本気を目の当たりにした母は爆笑し、娘は私をひどく冷めた目で見ていた。
「必死すぎ。」
君も大人になれは、身に染みることがあるだろう。
その時は、私の背中を思い出すがいい。人生は、楽しんだ者勝ちなのだから。
誰かに懇願している夢を見た。
それも、年末の土下座事件を遥かに凌ぐ熱量でだ。
一体誰に、何を願ったのか。夢は私に片鱗すらも残してはくれなかった。
ただ目が覚めた時、私の目尻はガビガビで、眠りながら泣いたのだと分かった。
私は横たわり、身体は温かくふかふかしていた。
淡い光が差し込んでくる空間。その光の中に細かな埃がきらきらと舞っている。
きれいだった。
こんなにも穏やかな気持ちで、最期を迎えようとしていることに、私は素直に感謝した。
廊下がギシギシと鳴って、誰かが近づいてくるのがわかった。
ガチャリ
ドアノブが鳴る。
さぁ。いよいよ終わりが来る。
今生の清算の時が来たのだ。
小学生の頃、来世はキリンになりたいと思っていた。
150に満たない身長や、幼い人間関係に、ほとほと嫌気がさしていた。
雄大な大地を駆け、高みから草原を見渡し、ただ生きるために生き、生かすために死ぬ。
それはとても魅力的で、ひどく羨ましかった。
しかし、私が思い描いていたよりも、死後の世界はひどく苦しい。
まさか慣れ親しんだ土地ではなく、欧州支社でお裁きを受けることになるとは。
次から次へとことごとく、私の想像の斜め上だ。
ドアを開けた人は、とても遠慮がちに顔を覗かせた。
そして上半身を起こしている私を見ると、驚くほど人懐こく笑った。
「よかった。目が覚めたんだな。」
彫りの深い人たちの年齢はイマイチ掴めないが、日本人的感覚からいうと、私と同じくらいか上に見えた。
赤茶色のごわごわした、無造作に伸びた髪。笑うと柔らかくなる目元。わずかな無精ひげ。
洗いざらしの襟なしのシャツは胸元の辺りまでVに開き、まくってある袖からは筋肉質な太い腕。
ベージュのワークパンツの裾は使い古したごつい革のブーツの中に入れ込んである。
全体的に厚く筋肉がついているのが、服の上からでもわかった。
私はぶしつけにならないよう観察し、視線を合わせて会釈する。
その人は一度顔を引っ込めると、次にはゆっくりと部屋の中に入って来た。
ドアは開けたまま。優し気な表情を保ったままで。
そうして私のベットから、少し距離を置いて立ち止まると、ゆっくりと話し出した。
「いくつか質問があるんだが、言葉は通じているだろうか。」
私は無言で頷く。
やはり欧州支社に、日本人が来ることは異例なのだろう。
言語が共通していることに、お互い安堵を隠せない。
「俺の名前はギルフォード。ギルでいい。」
「青 立山です。」
「アオ・タテヤマ。ファミリーネームがあるんだな。」
いささか驚かれたようなので、わずかに頷き返す。
やはり日本には詳しくないのだろうか。
名乗りを禁止していた時代もあったが、農民だって勝手に姓を名乗っていた国だ。
もう武士の時代も終わり、現代は義務化もされている。
私は不安になってきた。
「顔色が随分と悪いが、食事は食べられるだろうか。」
えっ、と驚きに相手を凝視ししまう。
お腹を満たして、閻魔様に会ってもいいのだろうか。
日本の手順をちゃんと踏んでくれているのか、いささか信用しきれないでいる自分がいる。
実を言えば、私の死後の世界の知識は、お盆の時にお寺の外陣に飾られる、地獄絵図の掛け軸のものでしかない。
正直その絵の通り、閻魔様の前に辿り着くまで、行列に並ぶと思っていたのだ。
疲れ果て、よろよろになりながら判決の時を待つと。
しがらみを捨てる為の旅ではなかったのだろうか。
最期の最後で食べてしまっては、元も子も無いのでは?
「食べても、いいのでしょうか。」
長いこと逡巡したあと、おずおずと問う私の言葉に、ギルフォードさんは憐れむように私を見て頷いた。
「もちろんだ。」
そして、まるでその言葉を待っていたかのように壁がノックされ、美しい顔立ちの青年が盆を持って入って来た。
黒髪で鋭い目つきの青年は、ギルフォードさんよりも細身で身長も低かったが、体育会系の体つきをしていた。
黒髪の美人は表情を変えないまま、私の膝の上に盆を置いた。
近距離で見た髪は、黒ではなく濃紺で、烏のぬれ羽のように美しく、さらさらとしていた。
年若い身ぎれいなイケメンが近づいてきて、私は体をこわばらせた。
もう、何日もお風呂に入っていないのだ。
二度と会わない通りすがりの役人にすら、今生の終わり位きちんとした状態で接したかった。
膝の上には、細切れの野菜が僅かばかり浮かんだスープが湯気を上げていた。
急に胃がぎゅうぎゅうと動いた。
温かいスープだ。
野菜を煮込んだ、ブイヨンのスープ。
私は今すぐ飲みたかった。
外聞もなくがっついてしまいたかった。
けれどなけなしの矜持が私を踏みとどませる。
なぜ、そんなにこっちを見つめているのだ。
微動だにせず、突っ立ったまま、あまりにも二人が凝視してくる。
困惑を通り越して、いささか不快なほどだった。
無言で見つめ合う状況が暫く続くと、年若い青年が先に動いた。
私へわずかに頭を下げると、踵を返し、流れるような動きでギルフォードさんの腕をとる。
ドアが閉まると、私はほっと肩から力を抜いた。
湯気を吸いこみ、スプーンで一匙口に運ぶ。
甘い。
温かい。
おいしい。
私は夢中でスプーンを動かした。
そしてすっかり飲み干してしまうと、目から涙がぼろぼろ零れた。
お腹はほかほかと温かく、ベッドは程よい硬さでどこも痛くなかった。
ここには屋根があり、人らしい生活の片鱗をみた。
生きている、と思った。
これを生きていると言わずに、何といえばいいのだ。