冷静さは頭の隅に常にある
3日目の昼頃、ついに道を発見した。
それはアスファルトでなど舗装されていない。乾燥し、サラサラになったベージュ色の土が露わになっているだけのものだった。だが、道には違いなかった。
「ヴィクトリーーー!!!」
私は拳を振り上げ、力の限りに叫んだ。
とても高校時代に英語38点を叩き出したとは思えない叫びだった。
道は川の向こう側にあり、川幅の狭まっている所まで行ってから渡ることにした。
川の側は大きな岩がゴロゴロしていて、水底までは割と浅い。
足場の安定している個所を探して靴を脱いで渡った。
渡ってみると、道はまっすぐに伸びていて、意外にも踏み固まっていた。
木の根もなく、下草もない道は、感動するほど歩きやすかった。
そして何よりも、人工物に出会えたことが涙が出るほど嬉しかった。
水辺から離れることが唯一の不安だったが、幸い下流に向かう方の道は川に沿って整地されていた。
私は意気揚々と歩いた。
「この道は いつか来た道」
来たこともない道を歩きながら、さも来たことがあるかのような歌を歌う。
馬車。
確かに馬車が走っていそうな風情の道だった。
森からはまだまだ抜けそうになかったが、両脇をうっそうとした木々に囲まれたベージュの道。
それはかつてイギリス留学時、輸送中に眺めた道のようだ。
日本にも、異国を思わせる場所があったとは。なんとも侮れない。
煽った水筒から口を離し、私は雄々しく口元を拭った。
2日目の朝から続いている身体の軋みは、いよいよもって私の精神と肉体を追い込んできた。
普段いかに動いていないか思い知らされる。
きちんとした布団で眠れたなら、少しは体力も回復しただろう。だが硬い地面ではもうどうしようもない。
それに加えて足の指や踵の皮が剥けていて、それが歩く度にザリザリとこすれる。
痛みは神経をどんどんと尖らせてゆく。
けれど一度でも座り込んでしまったら、もう二度と立ち上がれない気がした。
私は歩き続けることを自分に課した。立ち止まっても、止まり続けることはない。
下草の無い踏み固められた道は、歩き易くはあったが、その分反発が大きく足や腰への負担が大きかった。
日差しを遮る枝葉がないと、過ごしやすいと思っていた気候も、昼頃には暑く感じるようになった。
どれだけ歩いても全く変化のない青空と道と森の緑。
歩いているはずなのに、進んでいるのか止まっているのか時々本当にわからなくなり、わからなくなっている自分に恐怖した。
結局、陽がある間は川沿いの森の端を歩いた。
私の生まれ育った家は、4世代同居の大家族で、母も祖母も婿をとった。
我が家の女系大家族は、食に対して飽くなき探求心があり、飢えさせないぞ、という気迫が毎食のテーブルに表れていた。
美味しいのは当たり前だった。
そこには満足感と視覚の効果も加わっていた。
母は刺身の盛り付けが天才的だ。
皿の余白と立体感を出すのが滅法上手い。
家族の半数近くが年寄りだったため、和食であることが多かった反動でか、大人になってから小麦食品に執着するようになった。
パン、パスタ、ラーメン、お好み焼き、うどん。
米は一日一食か、無い日があってもいいとすら思っていた。
だがそれは、常にご飯があるという安心感がもたらした欺瞞だったのだ。
自分が好んでチョイスしていたと思っていたものは、巧みに選ばされていたのだ。
全てはご飯(米)を美味しく食べるために。
考えてもみてほしい。
物心つく前から、当たり前のように出ていた白いご飯。
古古米であった等の場合を除いてご飯をまずいと思ったことがかつてあっただろうか。いやない。
そう。
お米はあって当たり前。
お米を美味しく食べるために手を尽くされたおかずたち。
炊き立ての艶々も美味しい。でも冷めて甘みの増したモチモチも美味しい。
お米はもはや日本人のDNAに組み込まれているレベル。
グアニン米シトシン、チミン米アデニン だ。米が塩基を繋いでる。
ごはん。
ああ、ごはん。
ごはんが食べたい。
私は声を上げてびょうびょうと泣いた。
ずるずると足を引きずりながら、いっこうに出口の見えない森の道で。
それでも私は歩みを止めることはなかった。
ご飯食べたさに声をあげて号泣する四十路という滑稽さに、唐突に我に返った。
これは、先を見越してケチった食事からくるひもじさと、身体(主に足)の痛みと、果てしなく続く道への不安から、情緒が急激に不安定になったに違いない。
冷静な私の分析に、私はうむ、とうなずく。
休憩しようじゃないか。水で体を拭おう。森で全裸は死ぬほど怖いから顔と腕だけでもいい。
パンも食べよう。6枚切りのパンはあと3枚ある。
もう少し歩いて、どこかいい腰かけが見つかったら、その時は思うさま座り込めばいい。
心なしか、自分の心の声が狂人をなだめる精神科医の様相を呈してきた。
無意識に脳内で遊んでいる自分に思わず笑いがこぼれる。
ああ…。
もう少しだけ頑張ろう。