アリシア姫のお料理教室と皇子
アリシアが要塞に来てから既に半月ほどが経過していた。
アリシアにつけたクラリッサからは、日に一度は俺のもとに報告が届いた。
「アリシア様がどんどん美人になるやばい」
「アリシア様が可愛すぎてやばい」
「アリシア様がやばい」
「やばい」
日を追うごとに内容が悪化していた。
お前の頭のほうがやばいことになっているぞ、クラリッサ。
コンラートが手元のグラスに氷と水を入れて手渡すと、クラリッサは一息にあおった。
「やばいんですよ。
なにがやばいって何故か私、やけに信用されてるんですよ。
調子狂うんですよ。
原因不明なんですけど。
絶対警戒されるって踏んでたんですけどねぇ……」
あと、お酒も入れてください。
そう呻きながら机に突っ伏したクラリッサが杯をつきだしおかわりを所望したので、俺はきつめの蒸留酒を注いでやった。
こいつはざるだからあまり飲ませたくはないんだがな。
クラリッサ・エベルバーン、あるいは狂犬クラリッサ。
彼女は、近衛騎士叙任後、皇帝の姪にあたる令嬢に約二年間仕え、その主人の重犯罪を告発することで叙勲された。
帝室への忠誠とその貢献大であるとして、銀剣殊勲章を授与されている。
ある意味、現近衛騎士団の設立理念にもっとも相応しい功績を挙げた彼女は、当然のごとくそのまま干された。
近衛騎士を用いる皇族からしてみれば当然の話だ。
数多の候補がいる中で、わざわざ主人を売った騎士を身辺に入れたがる人間はいない。
「つらが割れると、このての手段は二度と使えませんからね。
一発でできるだけ大きな手柄を立てたかったんですよ」
彼女と初めて対面した時、そう言って酷薄な笑みを浮かべたクラリッサを俺は覚えている。
クラリッサは、非常に醒めた女だ。
基本的に人を信用しない。
特に高い身分の人間に対する不信感が強い。
間違いなく、彼女の生い立ちも関わっているのだろう。
俺も信頼関係を築くのに苦労した覚えがある。
実務能力も高い、極めて優秀な人材ではあるのだが、扱いやすい類の人間ではなかった。
アリシアが兵士から俺の話を集めていると知った時、もっとも焦ったのはクラリッサだろう。
クラリッサの名声、あるいは悪名は帝国軍でも有名だ。
士官はともかく、末端の兵士にまで口をつぐませることは難しい。
また俺も、箝口令など敷く気は無かった。
要塞内の散歩を終えて、部屋に戻ってきたアリシアは、いつもと変わらぬ様子であったそうだ。
バレてしまっては仕方がないと、開き直ったクラリッサは、自分のことを尋ねたらしい。
アリシアは、銀剣持ち騎士の逸話にいたく感銘をうけたらしく、クラリッサを褒めつつ、良い騎士をつけてくれたジークハルト殿下にも礼を言ってくれと喜んでいたそうだ。
なにをしても、アリシアに感謝される流れに、俺は神へと感謝を捧げたいと思う。
もっとも俺は神など信じていないが。
それはそれとして、クラリッサは、アリシアの態度が単なるポーズであると疑った。
だが、アリシアは彼女の予想に反して、クラリッサを疎んじるような素振りは一切見せなかった。
もう一人の近衛騎士に引っ張られる形でアリシアの同室となり、部屋に持ち込んだ私物を貸し借りし、最近はクラリッサの淹れる茶が一番美味しいからと、午後のおやつの相伴を申し付けられるようになった。
試しに、アリシアに、他にも側に人を入れてみるかと尋ねたところ、過労を心配され、しかし「部屋には今の四人以外は住まわせぬ」と断固として主張されたらしい。
「そこはそれとなく私を遠ざける場面じゃないかなぁ! 」
「アリシアに限って、それはなかろうよ。
あと手酌で酒を飲もうとするな」
「ちぇー」
クラリッサは、俺が彼女をアリシアにつけた理由に、アリシアの監視が含まれると考えているようだが、実際のところ俺にその意図は無かった。
俺は、アリシアとクラリッサは合うと思ったのだ。
アリシアは王国時代、宮廷の不正や腐敗に苦しめられてきた経緯がある。
クラリッサの不正に対するやりようは、間違いなくアリシアにも喜ばれるだろう。
クラリッサは連絡将校としても有能だ。
おそらくアリシアの職能に関する基準は、厳しい。
アリシアは有能な軍政官としても知られている。
滅多な人間はつけられないが、クラリッサであれば間違いない。
それに今後アリシアは、帝国の宮廷にも関わることになる。
帝国の宮廷は、魑魅魍魎が跋扈するような魔境ではないが、とにもかくにも人が多い。
様々な人間がいれば、当然、良からぬ輩も混じってくる。
その時、狂犬クラリッサは、ある種の威圧としてよく働くだろうという思惑があった。
要するに、帝国軍が崇敬するアリシア・ランズデール元帥にもっとも相応しい近衛騎士を用意したつもりだった。
それが思わぬ噛み合い方をして、俺のほうが困惑を禁じ得ない。
俺も人のことは言えないが、お前まで籠絡されてどうするんだ、クラリッサ。
そんな俺の気も知らず、クラリッサがくだを巻く。
「アリシア様は、殿下のことがお好きみたいです」
「そうか」
「最近、アリシア様にちょっと良くしてもらってるんでお返ししたいだけなんです」
「頼むぞ」
「アリシア様のためですから。
別に殿下のためじゃないんですからね! 」
一応言うぞ。
貴様に言われても嬉しくない。
クラリッサの手腕はやはり見事というしかなかった。
俺はそれから数日後、アリシアと二人、厨房で、並んで芋の皮を剥いていた。
アリシア向け料理教室の講師役だ。
まさか兵隊共のご機嫌取りに鍛えた料理の腕が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
アリシアは最近見慣れた軍服姿ではなく、女中のような格好をしていた。
少し癖のある豊かな銀髪をひっつめて、手に持ったナイフで野菜と格闘している。
白い首筋とうなじが眩しい。
二人で他愛のない話をしながら、調理台に向かう。
「なんだかとても久しぶりな気がします。二人きりでお話するのは、刺繍をお渡しした時以来かしら」
「まだそう経っていないんだがな。俺も会いたかった」
「殿下はお忙しいのでしょう? あまり無理をなさらないで」
貴方に会いに行けないのは、俺がボロを出しすぎるせいなんだがな。
とは、とても口にできなかった。
「話し方は崩してくれてもいいぞ」
「では、遠慮なく」
そう言って彼女は笑った。
アリシアの好意は分かりやすかった。
当然楽しくないはずがない。
俺は、内心で浮かれ果てていた。
と、アリシアがナイフを持つ手を滑らせた。
刃が彼女の指の上を滑る。
切れた、と見えた彼女の指は、しかし綺麗なままだった。
「おっと」
と、一言口にしてから、アリシアはまた気を取り直したようにナイフを握った。
そしてにへらと俺に笑いかける、怪我など無かったと言いたいのだろう。
しかし、俺は、彼女の手から目を離すことができないでいた。
アリシアの白い手指は、節くれ、分厚く皮が張っていた。
ひどく、酷使されているものの手だった。
その手を見た時、俺の心は強くかき乱されたのだ。
貴種の娘は、手など荒らさぬ。
ましてアリシアは偉大な魔法使いだ。
鋼鉄の刃すら容易には通さない。
それがなぜ、これほどになるまで、そう俺は思った。
その理由の一端が俺にもあるのだと思うと、心が軋んだ。
アリシアは、皮むきに没頭しているようだった。
真剣な顔で俺の手元を眺めつつ、無邪気に尋ねた。
「なにかコツがあるのかしら? 」
俺は彼女の手に触れたかったのだと思う。
その手を俺のでかいだけの手で包みこんで、そして守ってやりたいと、そう思ったのだと思う。
そして気づけば、彼女の後ろから手を回して、その手を取っている自分がいた。
迂闊だった。
どう考えても先走り過ぎた。
俺は失策にめまいを覚えた。
俺の予想外の行動に、アリシアは少しだけ身を固くした。
それから、ふっと力を抜いた。
そして少しだけ体をゆする。
早く教えろということだろう。
受け入れられたのか。
そうか。
半ば放心気味だった俺はかねてよりの希望もついでに伝えることにした。
「できればジークと呼んで欲しい」
「ええ、二人きりの時はそうしますね」
そういって、アリシアはジークと呼ぶと、少し照れたように笑った。
ちなみに直前に追い払われたクラリッサについては、見なかったことにしたい。
やつは一体、なにをやっているんだ。
アリシアの手の甲を撫でる。
荒れた手だ。
戦うものの手だ。
それをとても愛しく思った。
アリシアは少しくすぐったそうにして、笑った。
「ジークは手慣れているんですね。女性の扱いが上手」
とんだ誤解であると思った。
手慣れているならもっと上手くやったさ。
芋の上に刃を滑らせていく。
手元を誤って傷つけるとしたら、これを支える左の手指だろう。
手を上から被せていたのでは、先にアリシアの指に傷がつく。
俺は彼女の左手を押しのけると、その手で芋を握り込んだ。
アリシアは口を尖らせた。
抗議するように押しのけられた左手で俺の腕を叩く。
それからしばらく二人して芋の主導権を奪い合ったが、結局手が小さいアリシアが折れた。
俺が頑として譲らなかったからな。
彼女は少し呆れたように笑うと、頭を俺の腕に寄せた。
左の手を俺の手の上にのせ、指を俺の指と芋の間に絡めながら、不満を口にする。
「これじゃあ私の練習になりません。私は女子力を上げたいんです」
「女子力といったか。具体的にどんな力なんだ? 」
「お裁縫をしたり刺繍をしたり、料理をしたりする力です。ジークに喜んでもらうんです」
それからしばらく、彼女は、如何に自分の女子力が乏しく、苦労しているかを、なぜか楽しそうに話してくれた。
俺を喜ばせるのが女子力なら、アリシアはこれ以上伸ばす必要もないのであるが、俺のために頑張ると意気込む様がとても可愛らしかったので黙っていることにした。
アリシアの手は俺よりもずっと小さい。
彼女は俺の手の甲に自分の手を重ねると、楽しそうに指を這わせて遊んでいた。
彼女の手は見た目相応の大きさではあったが、少し硬く、そして暖かかった。
「ジークの手は大きいんですね」
そう言って笑ったアリシアを見て、でかい手をしていてよかったと心から思ったものだ。
その後、無事完成したシチューを二人してつついた。
シチューはうまかった。
食べる前から腹がいっぱいであった俺には、味はあまり関係なかったが。
実はこの小説、恋愛小説なんだ…




