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0009乃城夕佳の日記02

「じゃああたしが観に行ってもいい? 夕ちゃん、留守番お願いできるかしら?」

 こう言われると、急にもったいないような気がするから不思議です。

「結果が決まってるのに観たいわけ?」

 わざと呆れてみせると、母はうなずきました。

「そりゃあたしは今日の結果を知らないからねえ。あたしが知ってなきゃ、決まってようが決まってなかろうが関係ないじゃない」

 それは恐ろしく単純な事実の発見でした。私は嘆声を発しました。

「それもそうね」

「で、どうするの?」

 私は顎をつまみ、軽い思慮が結論を導き出すのを待ってから答えました。

「二人で観ようよ。当日券くらい売ってるでしょ?」

――ところが……。

「売り切れです」

 中高生や親子連れで賑わう、夕暮れの体育館。入口脇に設営されたテントがチケット売り場でした。そこで手提げ金庫をしまおうとしていたおじさんに尋ねたのですが、返事は無情でした。

「営業が頑張ったし、何よりここはトカゲの地元だからね。あいつの高校時代の仲間が手伝ってくれたんだ。前売りは完売で、少ない当日券もはけちゃったよ」

『トカゲ』とは仮面を被った色ものレスラーのようでした。

 チケットがないのでは仕方ありません。私は母に一人で観戦させ、自分は帰ろうとしました。しかし母はごねています。いったん二人で観ると決めたからには、意地でもそうしようと、生来の頑固さを発揮します。

「人間一人入れるぐらいの空間はあるでしょ? 違うの?」

 大声でわめく母に、周囲の人々から好奇の視線が浴びせられます。私は恥ずかしくなり、他人のふりをしようとしました。

 その時――

「どうしたんですか?」

 トレーナーを着て首からタオルをかけた男性が、いぶかしそうに私たちのもとへやってきました。体格は190センチ近くあり、胸板も厚く、明らかにこの団体のプロレスラーだとわかります。それにも関わらず、まわりの誰一人として驚いたりしません。

 その人は悪く言えば凡庸な、良く言えば誠実そうな顔に、汗を浮かべていました。走ってきたばかり、という印象です。

「何か問題が?」

 彼は受付のおじさんに説明を求めました。

「いや何、乃城。当日券売り切れなんだけど、こちらの方がどうしても入れてくれって」

 彼――乃城さんはうなずくと、私の母を、ついで私を見て――

 固まったまま、動かなくなりました。

「あの……何か?」

 驚いた表情で凝視し続ける乃城さんに、私は身をすくめて尋ねました。彼は我に返ったように、私から視線を外して咳払いします。

「すいません。何でもないんです」

 しかし声の震えは内心の動揺を示し、その言葉が嘘であることを雄弁に物語っていました。

 乃城さんは私の再度の質問を恐れるように、間をあけずに繋ぎました。

「チケットなら任せて。一枚用意できますよ」

 私は驚きました。

「あるんですか?」

 乃城さんは白い歯を見せました。

「俺にはちょっとした友人がいましてね。こいつが記者やってるんですが、いつもマスコミ関係者としてタダで入場してくるんですよ。悪い奴なんです」

 はあ、と私たち親子は相槌を打ちます。乃城さんは続けました。

「で、この前そいつを叱ってやったんですよ。たまにはチケット買えよ、ってね。それからこうも言ったんです。今度地元で凱旋試合するから、ご祝儀に一枚どうだ、って。あいつはしぶしぶ買いました」

 話が見えてきました。私は両手を合わせて喜びました。

「それじゃ、その人からチケットを譲ってもらえるわけですね」

 私の小さな歓喜が、この人には大きなそれとなって伝わるようです。乃城さんは照れたようによそを向いて破顔しました。

「そうそう、そういうことです。後はそちらのお母さんと隣り同士になれるよう、席を調整しておきますから。友人の席はリングサイドですから、きっと交換してもらえますよ」

 母は深々と頭を下げて感謝しました。しかし上げた顔は傾いて、乃城さんの頭部をなめるように見つめています。やがてさじを投げたように首を振りました。

「変ねえ、あなたこの団体のレスラーでしょ? ポスターにあったかしら、あなたの顔」

「それはまあ、ちょっとしたわけがありまして……」

 乃城さんは曖昧に返しました。しかし私は、その理由にこっそり気が付いていました。彼はさっき言いました――「今度地元で凱旋試合するから」と。そしてここは『ザ・グレート・トカゲ』選手の地元で、なおかつ彼の顔はポスターに載っていません。

 そう――彼はもう少ししたら、恐らく、トカゲのマスクを被るのでしょう。


 興行は二時間半ほどで終わりました。複雑な技はよく分かりませんでしたが、胸を叩いたり外へ投げ飛ばしたり、荒くて単純明快な攻撃はとても迫力がありました。

 全試合終了後、私は母を一人で帰宅させました。

「寒いでしょ? 病み上がりなんだから先に帰ってていいよ。家は近いし。乃城さんにお礼言ったら、私もすぐ帰るから」

 そうして私はトカゲさんを探しました。お礼だけでなく、気になったことについても確かめておきたい気持ちがありました。程なく、売店でTシャツを売っている乃城さんを見つけました。

「少し待ってて」と言われて待つこと20分。彼は売店を交代すると、近くの電柱の下で私と向き合いました。

「お金のそばは離れられないんです」

 弁解する相手に、私はまずお礼を述べました。

「チケット、ありがとうございました」

「いやいや、お役に立てて光栄ですよ。楽しめましたか?」

「はい、とても」

「それは良かった」

「それで……」

 私はトカゲの素顔を眺めました。

「いつか、お会いしましたか?」

 彼はまばたきで空白を埋めました。

「といいますと?」

 私はもどかしく首を振ります。

「いえ、私は乃城さんを知らないんです。今日初めて会ったはずなんです。でも、あなたは私を見た時に驚いた。その後も親切にしてくださいました」

 確かめてどうなるのでしょう? しかし開いた口は閉じられませんでした。

「ひょっとして、あなたは前から私をご存じだったんじゃないですか? ほら、ここは乃城さんの地元ですよね? でもここは、私の地元でもあるんですよ」

 乃城さんは苦笑しました。その波動に混入する困惑の微粒子に、私の考えは間違っていたのかと思いました。しかし――

「そんなにうろたえてたかな、俺。飯島夕佳さん……でしたよね。そのとおりです」

「やっぱりご存じだったんですね」

 乃城さんは「はい」と神妙に肯定しました。私は胸のつかえが取れた気分を味わいました。そしてまた、彼との間に通じる糸を発見できた自分自身に、心躍らせてもいたのです。なぜこれほど胸が浮き立つのか、それは不思議な、理解できない感覚でした。


 その一時間後。私たちは、私の実家近くの公園で話し込んでいました。あの後、ここで落ち合う約束を取り付けて、乃城さんは仕事に戻り、私はいったん帰宅したのです。話は先程の続きでした。

 乃城さんはブランコに座る私へ、熱い缶コーヒーを手渡しました。ラフな普段着です。今の彼を見て、トカゲと気がつく人はいないでしょう。

「俺が二十歳の時だ。巡業でこの街の近くに来たんでね。それでチケット売りも兼ねて、実家へ寄ったんだ」

 つまり9年前、1989年。私が高校一年の時です。

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