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0008乃城夕佳の日記01


   (六)


乃城夕佳のじょう・ゆかの日記より2017年12月30日分

 例年のように慌ただしい時間が飛び去って行く毎日です。今日は真樹を送り出したあと、大掃除にかかりました。去年は大晦日にやっていたことを、今年は前日、30日に済ませないといけません。明日は夫、乃城景がプロレスの試合をする日ですから。そう、夫はつい先程、トレーニングへ出かけました。

 この日記に大晦日の試合について書くのは初めてです。夫が決意をひるがえし、辞退を申し出るのではないかと期待して、あえて言及を控えてきたからです。しかしそれはもう、はかない望みと諦めねばなりません。あの人の意思は固く、これ以上の確認は無意味です。そうなれば、夫が試合をする、その支度をおろそかにはできません。漫然と時日を浪費していては、妻として失格でしょう。


 このお話がもたらされたのは、今から8日前の12月22日。娘が郵便受けから豪華な手紙を取り出したことが始まりです。もっとも手紙自体はずっと早く発送されていたらしく、年の瀬の郵便事情で遅れたもののようですが。

 私はその時、庭をほうきで掃除していました。騒ぎ声に顔を向けると、娘と夫が手紙を間に、何やらわめき合っています。するとそこへ、黒塗りの高価そうな車が音もなく滑り込んできました。中から降りてきたのは二枚目の男性と、中学生ぐらいの男の子。男性が夫に名刺を渡しているのを見て、私はこれはお客様だと判断し、急いで家の中へと戻りました。そうしてキッチンでお茶菓子を用意していると、夫とお客様の話し声が廊下に響き渡るのが届いてきます。やっぱりそうだ、早く戻っておいてよかったと、私は人知れず胸を撫で下ろしました。そうして用意を済ませた私は居間へ行き、夫と娘の迎えたお客様お二人に、御挨拶申し上げました。

 男性の方が手を振って微笑します。

「ああすみません、お構いなく。御連絡も差し上げず突然お邪魔しまして、大変御迷惑をおかけしております。恐縮です。私たちはこういう者です」

 卑屈でない、堂々とした一礼で名刺を差し出す男性は、お名前を桐原衛さん。頭が床につきそうなほどお辞儀して、兎のような瞳をした少年は、雷武扉くん。自己紹介されて、私はびっくりしました。娘がかねがね「この子可愛いよね」としきりに訴えていたアイドルの名が、確か『雷武扉』さんだったからです。

 どおりで隣の娘がはしゃいでいるわけです。憧れのアイドル少年とそのマネージャーさんが、何の前触れもなく我が家にやってきたのですから。それはミーハーな真樹のこと、有頂天になっても仕方ありません。しかしファンでもない夫まで、妙にそわそわして落ち着かない様子なのはなぜでしょうか。

 私は桐原さんから「奥様もぜひ」と薦められて残りました。一方娘は夫にうながされ、未練を引きずりながらも退室していきました。そうしてテーブルを挟んで四人が向かい合い、ソファに席を占めても、まだ私には状況が把握できていません。

――もし。私たちがオッサンスポーツ紙を購読していたら。または、手紙が遅れずに届いていたら。あるいは雷武くんが、彼のブログを三日早く始めていれば。娘も私たちも、この来訪だけで彼らの目的を推察できたかもしれません。

 桐原さんは夫におっしゃいました。

「手紙にありますとおり、プロレスの件です」

 そう、桐原さんはプロレスの試合を依頼しにお越しくださったのです。具体的には……。


 大晦日に『ゼニーズ運動会2017』を開催する。そこでプロレスの試合を行なう。出場する雷武くんの相手を探している。なるべく現役プロレスラーがいいが、しかし条件がある。

 観客が怖がるような巨体で、それなりに動けること。

 また観客が心底驚けるような、見栄えのいい派手な技が使えること。

 雷武くんを怪我させないよう、台本に従いうまく立ち回ること。

 時間をはかり、間を持たせ、最後は打ち合わせのとおりに『雷武扉にフォール負け』すること……。


 桐原さんは、それは熱心に語りました。

「もちろん非常に失礼なお願いであることは重々承知しております。師走も終わりでお忙しい時期かと思います。そんな時に、こちらの都合ばかり押しつける試合を、急に持ち込まれては御迷惑でしょう。申し訳ありません」

 頭を下げる桐原さんにも、雷武くんにも、その姿勢に偽りはありません。二人は本当に、誠心誠意謝罪した上で、夫にプロレスの試合をお願いしていたのです。ただし……。

 彼らは、「そもそもそれ以前に働いている非礼」に関しては、詫びるつもりなどないようでした。というより、自分たちが乃城景という男に対して、またその尊厳を預かる『プロレス』に対して、死んでも償い切れないほどの罪を犯していることなど、気付きさえしませんでした。彼らは誤解し、さらに誤解したまま、私の夫に突き付けたのです。

「所詮この程度だろう?」――そういう侮蔑を。

 私は頭に血が上りました。悔しくて悔しくて、手はとっさにティーカップを掴みます。中で波打つ熱い紅茶を、桐原と名乗る恥知らずの頭にかけてやろうと決めたからでした。よくも、私の大事な人を面罵して――!

 しかしその手は、より大きな、別の手によって押さえられました。布を被せるような柔らかい動作でありながら、熱い五指が力強く、私の蛮行を未然に防いだのです。しかし私には、それが信じられませんでした。手の甲から腕へ、腕から肩へ、肩から喉元へ、そして顔へ――視線の先には、夫のにこやかな笑顔があったのです。私を制する片手の力は緩めずに、二人の侵入者へ向いたまま、「まあまあ頭を上げてください」と気さくに話しかけているのです。想像を絶する姿に、私は開いた口がふさがりませんでした。

 彼は、そんな男ではなかったはずだからです。


 私が今の夫と出会ったのは――本当の意味で出会ったのは、1998年でした。当時、プロレスというジャンルは斜陽にありました。暴力団との黒い交際や違法薬物の乱用といった醜聞が続き、台頭する格闘技界に資本を奪われてしまいました。その結果地上波からプロレスの番組は一掃され、大手団体は軒並み崩壊。多くのプロレスラーが去りました。残された者たちは、借金をしながらでも団体を興すしかありませんでした。自分たちの仕事場を――ファンがプロレスを楽しめる居場所を提供するには、それしかなかったのです。

 私はその年、25回目の誕生日を迎えました。紅葉も散り尽くした季節です。私は広島に帰省中で、それは病気の母を見舞うためでした。母の症状は軽く、拍子抜けするほど元気でした。OLとして5年、東京暮らしもこれだけ長いと、たまの実家は芯からくつろげます。一日、母の掃除を手伝っていた私は、出し抜けに一枚のチケットを手渡されました。

 母は私を見上げます。

「ほら夕ちゃん、近くに体育館があるでしょ、市立の。あそこで今晩プロレスの試合をやるらしいのよ。観に行ったらどう?」

 私は一笑にふしました。

「なんでまた、プロレスなんか……。あれって八百長なんでしょ? 勝敗が決まってるらしいし。子供じゃないんだから、そんなお芝居観たってつまらないわよ」

 この程度の毒舌は親譲り、水入らずの会話なら平気で使います。母は気を悪くした様子もなく、かえって喜びました。

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