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0005安隆治の取材メモA03

 言葉の泉が急に枯渇し、俺は絶句した。最後の一言を絞り出す。

「だから……か。そんな青写真で、お前は……」

 乃城は錆び付いた鉄扉をこじ開けるように、微笑を無理矢理覗かせた。おどけながら拍手する。

「ご名答。大正解! よく推理したじゃないか」

 その瞬間、俺の中で何かが爆発した。暴風に衝き上げられるまま立ち上がる。口から飛び出したのは、喉が痛むほどの怒声だった。

「ふざけるなっ! 何だそれはっ! お前、自分のやったことが分かってるのか!?」

 右の義足が耳障りにきしんだ。乃城は俺を見上げたまま、安っぽい平静を盾とする。繕い切れていない。俺はその真ん中めがけ、槍の穂先で舌鋒を繰り出した。

「それじゃお前、芸能人相手に魂を売った、プロレスを汚した連中と、何も変わらないじゃないか! 早いか遅いか、違いはそれだけだろうが!」

「何度も言わせるな」

 乃城がわずらわしげに抗弁する。

「さっきも言っただろう、それは判断の違いだと。今は昔じゃない。俺は今の俺として、昔と異なる判断を下しただけだ」

「ああなるほど、お前は中学生の技に吹っ飛び、中学生にスリーカウントを取られて拍手をもらうわけか。そんな情けないプロレスを、自分を許せるようになったわけか。大した判断だよ!」

 なぜ自分がこれほどまでに怒っているのか。この煮えたぎる溶岩は、腹のどこから溢れ出るのか。自分自身が理解できぬまま、俺はだだをこねるようにわめき散らした。

 乃城の心にも火が点いたらしい。荒々しく怒鳴り返す。

「いい加減にしろっ。現実をわきまえろ。もし試合を受けなかったら先行きは真っ暗なんだ。だがたとえ屈辱的でも、この一試合さえ無事にこなせばどうだ。未来はずっと明るくなる。プロレスがまた、脚光を浴びるんだ」

「ちゃちなサーカスとしてだろうがっ」

 俺は憤怒のあまり、乃城の胸倉を掴もうと前屈みになった。だが人工の右足はあるじの意に反した。手は虚空を握り締め、俺は無様に転倒した。

「大丈夫か」

 乃城は嘘のないいたわりをかけ、俺を助け起こそうとする。いいしれぬ屈辱が全身で発火し、俺はその手を振り払った。

「触るな!」

 拒絶された乃城が当惑に身を引いた。灯台を見失った暗夜の船のように、次なる行動を定められずにいる。今度は俺が狼狽した。壁へ這い寄り、もたれながら立ち上がった。壁に背中を預ける。

「それでいいのか、乃城。誇りはどうした。夢はどうした。魂はどうした」

 息を弾ませ、肩を上下させる。唾を飲み込んだ。

「『プロレス大賞MVPを必ず取る』。その大志はどこへ消えたっ!」

 乃城が腰を浮かせた。音が聞こえそうなほどの歯ぎしりが、頬肉の震えで読み取れる。真っ赤な顔はそっぽを向いたが、泣きそうに崩れているのが一瞬で看取された。ふっと息を吐く。

「本当は隆治に、プロレスの試合内容を相談しに来たんだがな。付き合っちゃもらえないらしい。帰るよ」

 乃城は「邪魔したな」と詫びると、顔を背けたまま廊下へ出て、玄関に向かって歩を進めた。その後ろ姿は、俺が知る乃城の、プロレスラーのそれではない。たとえるなら、乾いた瓦礫だった。

「うおお、お……」

 獣じみた慟哭は、俺が発していた。熱い涙が涙腺をくじき、一気に噴出する。

 悲しい。俺は悲しかった。プロレスの試合を観て、プロレスラーに憬れて、でもなれないと分かっていて。それでもプロレスの記者になろうとして。やがて墜ちて行くプロレスに、朽ち果てたプロレスラーたちに幻滅し。でも乃城と出会って、そのプロレスに感激して。

 まだまだ捨てたもんじゃない。プロレスは、まだまだ生きている。頑張っている。見ろ、この乃城のプロレスを――

 俺は反転し、壁に額を押しつけた。涙は途切れず流れ落ち、嗚咽は高まる一方だった。肺腑の奥から、魂魄の絶叫がほとばしる。

「悔しくねえのかっ。それで、悔しくねえのかよ、乃城!」

 後を追って廊下に出ると、乃城は靴を履いているところだった。俺の問いに答えるどころか、振り返りもせず、黙々と靴紐を結んでいる。

 なんて姿だ。俺は両手で顔を覆い、号泣した。

「俺、見たくねえよ……」

 乃城が動きを止めた気配がした。だが声はない。俺は呪詛めいた哀訴を放った。

「俺、そんなお前、見たくねえよ……」

 しゃくりあげ、鼻水を垂らし、大の男が情けなかったが、恥ずかしいと思う余裕はなかった。

「ガキにやられる試合して、ヘラヘラ笑ってるお前なんて、俺、死んでも見たくねえよ……」

 後はただ、絶望と失意の渦に身を投じ、嗚咽を重ねるばかりだった。だがどれだけ落涙しても、悲痛は胸郭一杯に膨張するだけで、何らの縮小も示さない。

 なぜ自分がこうまで怒り狂うのか、やっとわかった。何のことはない。そう、俺は乃城の闘う姿に、自分の夢を託していたのだ。

 右足がない安隆治。そのせいで、努力以前にプロレスから拒否された安隆治。彼は、いつかなってみたい理想のプロレスラー、紡いでみたかったプロレス模様が、永遠に空想のままだと知った。だから彼は、それらを重ね合わせられる人物を、夢を託せる男を、ずっと渇望していた。

 そしてそれは達成される。乃城景――この同年代のプロレスラーこそは、安隆治の憧れを体現する、最もふさわしい選手であった。安隆治は勝手に、無意識に、乃城へ夢を託した。もし自分に両足が揃っていれば、確実に歩んだだろうプロレスの道。栄光に光り輝く道。それこそを、乃城に歩んでほしかった。

 安隆治にとって、それは心底に棲みつく悲願、念願と化した。いつか乃城は華開く。いつか大器を晩成させる。かつてのプロレスを、あの頃の熱を、きっと取り戻してくれるんだ――安隆治は……俺は、そう信じていたのだ。

 だが――

「うわあ……ああ……」

 気がつけば這いつくばり、廊下と接吻するように泣き崩れていた。身悶えし、胸も張り裂けんばかりに、俺は慟哭した。

 やがて、乃城のひび割れた声が廊下を震わせた。

「隆治。もう、勘弁してくれ……」

「黙れ」と一喝して吹き飛ばすのでもない。「なに泣いてんだよ」と笑ってごまかすのでもない。それは無限の悲しみに満ちた、やるせない、やり切れない謝罪といえた。

 ドアが開く。靴音が遠ざかる。ドアが閉じる――一連の音が余韻すら終えても、俺は起き上がれなかった。乃城を見送る視線すら向けられないほど、俺は奈落に落ち込んでいた。


――これが、今日の出来事の顛末だ。幾分か冷静な今から振り返るに、俺はずいぶん大人げなかった。穴があったら入りたいくらいだ。家に俺一人しかいなかったのは僥倖だ。

 乃城の相談ごととやらは、単に口実だろう。彼は俺に慰めて欲しかったのだ。プロレスへの熱い思いをさらけ出せる相手は、興行の時以外では俺しかいない。子や妻にすがる男でないのは、お互いにそうだ。挫折し、醜態をさらさねばならない自分を、少しはいたわってくれないか――そう期待して、彼は俺のところにやって来たのだ。それなのに――

 俺は子供だった。これからは友人として、あいつの力になってやらねばならない。全面的にバックアップして、新たな門出を祝福するのだ。

 そして、俺は――

 もう、夢など見ない。

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